第53話 谷崎栞

 四月十日金曜日


 よく朝早くに目が覚めた。

 すぐにも栞に会いたくて、顔を洗い学生服に着替えて外に出る。

 まだ七時を回っていなかったが、高台の施設のリハビリセンターへ徒歩で向かう。

 朝食はコンビニのパンを歩きながら立ち食いですませていると、麻衣からメールが入った。


 “今日は学校休む。体にまだ痛みが残ってて念のため。”


 親には痛みがぶり返したと言って了承してもらったとある。

 麻衣の体がやはり心配なので、


 “大丈夫か!? 午後会いに行く”


 と返信メールを送る。

 空は良く晴れて気持ちのいい天候で、俺も学校サボりたい気分になってきた。

 栞に尋ねる前に連絡入れたほうがいいと思い当たり、携帯電話で白咲から教えてもらった番号を押してみる。

 しばらく呼び出し音を聞いてると女性が出た。


『はい、もしもし』


 大人で覚えのある声が入り、白咲でないのに慌てる。


「あの、広瀬ですが……栞……います?」

『やっぱり忍君ね。早い連絡だわ。はははっ』


 竹宮女医の笑った声が携帯電話から伝わってくる。


「このかけた電話番号って……」

『大丈夫、本人のケータイよ。彼女は朝の散歩に出かけていて、持っていくの忘れたようね』

「そうなんですか。散歩ですか」

『ふっふっふっ、でっ、会いに来たんでしょ? 彼女、朝の散歩は日課で池を一周しているのよ。もうすぐ戻ると思うけど?』


 女医にはいろいろと話が筒抜けの気がしてきた。


「公園の池ですね? ありがとうございます。これから行ってみます」


 携帯電話を切って、赤松の森公園の池に足を向ける。

 十分ほどですり鉢状の下に広がる池まで下りてくると、ランニングをする人と何人かすれ違いながら栞を探す。

 後ろから声をかけられ、振り向くと満開のしだれ桜の前にポニーテール姿の白咲が立っていた。


「本当に朝から来てくれたんですね」

「言っただろ。来るって」

「私はあそこです」


 と池に指をさす。

 池の対岸に見えるしだれ桜が垂れ下がった遊歩道で、車椅子に座った少女がこちらに体を向けているのを確認できた。

 その少女の後ろには、前に見たリハビリセンターの大男職員と柴犬が座っている。

 目の前の白咲に振り返ると彼女は消えていた。






「おはよう」


 俺が近づき声をかけると、職員も挨拶を返して車椅子をこちらに動かす。

 黒髪を束ねて左胸の前に下ろした女の子が、俺に笑顔で挨拶して見つめている。


「栞?」


 昔の栞を思って見ると面影はあるが、ポニーテ-ルを下ろした白咲そのままである。

 服はピンクのカーディガンに、白みがかった薄茶のロングスカート。


「高田さん、いいですか?」

「ごゆるりと」


 栞が職員に声をかけると、柴犬を連れて先に歩き出した。


「忍君。お久しぶり」

「久しぶりだけど、久しぶり感がないな」


 前に立って見上げる栞を見つめる。


「忍君は、ポニーテールの私を見ても気づかなかったですね」

「5年で顔が変わって判らなかったんだよ。名前も違うし、死んだと思っていたから」


 幼き日の童女から、スラっとした身長にポニーテールと変わっていたせいだな。

 いや待てよ。


「要ちゃんが記憶の欠片なら、どうやって俺は今の栞の顔つきをわかったんだ?」

まやかしイミテーションやる前に面通ししてますよ。横切ったりして、忍君が気づかなかったか忘れているだけです」

「そうなのか……」


 車椅子の少女のイメージは思い浮かばないのだが、気に留めなかった程度でも記憶から引っ張り出して現せること? 

 隅っこの記憶でもリアルに再現できたということか。

 椎名が言ってた、目で見た風景が全体の3%ほどで残りの97%が蓄積された記憶によって再構成されて認識するとの話だから、俺の脳がわずかに映ってた栞をリアルな白咲に変換したのだろう。


「そうよ」


 彼女は俺を見ながら自信を持って言った。

 それはどこか小さいときの栞にあった子供っぽさと結びつき、あの少女なのだと愛おしく感じた。

 俺は彼女の前に腰を下ろし、片膝をつき、膝に置いてる手を見る。


「少し手をさわらせて」


 栞の片手に触れるが、もう片方の手が俺の手の上に乗る。


「本物です。ふふっ」

「暖かい。実物の栞だ。幽霊じゃない」

「私も忍君を実感してます」

「うん……」


 そこにランニングのお兄さんが横切り、


「プッ」


 と吹き出して走り去る。

 罰の悪さを感じ、二人同時に手を放す。






 俺は栞の後ろにまわって、車椅子のハンドグリップを握り、前にゆっくり押し出す。


「これからは俺への敬称はくんなのか?」

「今の私で通すならそれでいいかと。呼び捨ては恥ずかしいし、先輩ってのは学校違うし甘えそうかなって」

「甘えていいけど、でも俺も昔の呼び方がすんなり来るよ。栞って言ってしまって、他がない感じ」

「はい」

「白咲要は学校での名前だよね。栞じゃないのは、教団との線引き?」

「そうですね。拝み屋から離れて、普通の高校生をやってみたかったんです。ハンドルネーム? そんな感じかな。一人じゃ不自然なので親が海外にいる設定も付け加えて」


 栞は学校は楽しいと笑顔で答えるが、偽者イミテーションを使っての学生生活はあまり快適な気はしないと思った。


「その栞は、希教道の教祖でもあるよね?」


 彼女はため息するように、私は代理でそれも面倒なので引退したと言った。

 俺はわからなくなったので、車椅子を押すのを止めて聞く。


「代理って? 教祖じゃないの?」

「違います。教祖は髭もじゃっていいませんでしたか?」


 彼女は座ったまま振り返り、俺の顔を確認するようにのぞく。


「うん、覚えてる。頑固で嫉妬深くて、顔が面白くって、それから、えっと……」

「最近太り気味で、四十過ぎでも体を動かすのが好きな、そんな感じで言いましたよ」


 俺の言葉を栞が引き取る。


「誰よ、いないだろ? それとも創作?」

「本人は前で歩いてます」


 前方に高田と呼ばれた係員が、柴犬の散歩を見ている。


「高田さん?」

「ううん。シノブくんだよ」


 一瞬自分の名前を呼ばれたと思ったが、小さいときのデジャヴュが想起して、柴犬の名前にたどりつく。


「あの大きな柴犬か? ひげもじゃの……ああ、なるほど。人間だと四十過ぎってことか」 

「そうよ。ずっと一緒で頼りになる子だから、全権預けちゃった」

「もしかして、あれって昔飼ってた豆柴?」


 小学校のときの栞の家にいた座敷犬。

 彼女が俺の名前をつけて可愛がっていたのを思い出す。

 呼ばれたと思うと、豆柴を呼んだと言われ憤慨したことを回想する。


「うん、大きくなっちゃったから、豆柴じゃなかったみたい」

「へー、だから右目のマーク模様でどこかで見た気がしてたんだな」

「そのシノブくんが教祖で私は代理。それで希教道は始まったの」

「もしもし。俺が教祖だって言われてる気がするのだけど、その紛らわしい名称は止めない?」

「シノブくんは、シノブくんで。忍君は、忍君だよ」


 遠くを歩く柴犬と俺を交互に指をさして説明でない説明をする。






 十分くらいで周囲を一周できる小さなじゅんさいの池。

 その岸道を先頭に首にロープを繋がれた柴犬と高田、少し遅れて俺が栞の座った車椅子を押していく。


「車椅子で歩けないのは、事故に遭ってたの?」


 聞きたかったことの一つを質問する。


「ええっ、小学校のとき脳内で循環障害が起って、下半身の運動神経路が動かなくなったと医者に言われたの」

「でも、そのうちに立って歩ける話になってない?」

「わからない。リハビリを続けてるけど動かない。動くまで続けるだけだって……」


 思いのほか元気ない答えが返ってきて、事故からだいぶ経っているので失言だと悟り後悔した。


「そっか、じゃあ、いつかは動いて立てるんだな。なんなら俺も手伝いに行くぞ」

 

 状況が良くなくてもここは肯定的な言葉で返したが、


「うっ、うん」


 と少し上の空の返事が来ただけだった。


「そのぶん、あまり外に出れてないから、まやかしイミテーションを有効活用してたわけだ」

「そんなわけはないけど、零翔ぜろかけは有効活用していると思ってます」

「その零翔ぜろかけだけど、今から思うと、もしかしたら使っていた? ……っていくつか心当たりがあるんだけど」

「えっと……」


 車椅子の中で萎縮する栞。


「まずは、学校によく見にきてた?」

「……忍君が 零の翔者しょうしゃの覚醒があってから、チェックを入れてました。ごめんなさい」


 栞は車椅子の中で平身低頭する。

 俺も一緒に肩を落としてため息をつく。


「でも、前も言ったけどプライベートな時間はのぞいてないからね」


 今度は慌てて、両手を前に振りながら自己弁護した。


「次に、歩道橋の大量の矢もそうだよね?」

「歩道橋の偽装は、味方になってほしくて自作自演で幻覚イリュージョンを行使しました」


 栞はまた話しながら、頭を下げて謝罪する。


「弓道場はどうやったの。とくに試合のときはみんな見てたけど」


 栞はしばらく思考にふけったあと、ゆっくり話し出す。


「試合のような多い人がいるときは、場所をイメージします。見たことない場所なら写真を取り寄せてネットマップのストリートビューを使います。対象の建物からイメージすると、その場にいる人々とアクセスができるようになるんです」


 残留思念でなく、遠隔透視、いや千里眼という能力のあらたな一面を見た気がする。


「そして、私がそこに存在するんだと発信するんです。一つのメールを一斉に関係者に送るカーボンコピーメールのようなものです。あとは大まかな行動と結果だけの発信で十分。細かいものは、それぞれの人々の脳があるいは潜在意識が勝手に補間してくれます。意識の共有で共同幻想が作られ、一人の弓道女子が出来上がるわけです。これを集団幻覚ファントムシンドロームっと名づけました」

「うーん、結果もイメージで作れるってことだよね」

「聞いて残念でしたか? 茶番だと思わないでください」

「こうなると最強のチートじゃないか」

「そんな万能じゃありません。弱点はあるから、うかつなことはできないです」

「そうなのか?」


 弱点とは俺や谷崎さんが会って情報交換することでばれることか。

 夢香さんの話とかも……。

 俺が車椅子を止めて栞と話してたので、高田は柴犬のロープを外して好きに駆け回らせて眺めていた。


「夢香さんの彼氏の金田先輩とその家族だけど、あの交通事故の関係者でいいんだよね」

「金田誠を知っているんですか?」

「バイト先で少しね」

「そう、駐車場で盗んだ車を乗り回して遊んでた末の事故です。運転ミスでもそれはもういいの。わかっていますから。ただ親は慰謝料払わず雲隠れ、本人は五年で鑑別所出てきたら、また無免許で彼女をつくってエスコート。就職浪人なのにH大の学生と名乗って女性を取っ替え引っ替えとか。保護観察官を出し抜いてやったとか自慢げに話してたとか。おまけに彼女が顔見知りの先輩だって、なんなのよって感じ。だから少し反省しもらいました」


 栞の情報能力に驚かされたが、零の翔者しょうしゃの芸当なのだろう。

 ただ、両親の加害者に対して『もういいの』との決別感が淡白に感じたが、両親への復讐心は時間が溶かしたのだろうか? 

 憎しみを持ち続けてなかったと安心しよう。


「反省か。危ないことはしてないよな? この間の興信所の社員が言っていた病院の話とか」


 入院患者の死亡は気になる。


「病院ですか……あれは偶然居合わせたんです。他にも沢山いましたし……」

幻覚イリュージョンで死んだんじゃないんだね?」

「ええっ」


 彼女は元気なくうなずく。

 当時のことを思い出させてしまったらしいが、栞はそれ以上のことを口にしなかった。

 柴犬がこちらに駆け寄ってきて、俺と車椅子の周りを歩き回る。

 栞から背をなでてもらうと、一声吠えて高田のところへかけていく。

 すると池の岸道が別の空間に変わったので、驚いて立ち止まり彼女を見る。


「これは?」


 周りを見渡してどこかの部屋らしいが、奥がやけにボケていて全体的に色があせている感じだ。

 だが、この部屋には見覚えがあった。

 そして目の前を小学生くらいの子供が通り過ぎる。


「シノブくんの視覚情報の記憶を引っ張り出サルベージして、忍君と共有投影しました」


 地面が近いのは、子犬の立ち位置目線だからか。


「へえーっ。同じものを二人で視れるのか」


 感嘆していると、部屋の映像は次々に現れては左右に流れて、別の映像に入れ替わる。

 どれも栞の昔の家の中だったが、ザッピングはある映像で止まる。


「えへっ」


 とはにかむ栞。

 そこは部屋が見渡せる中で、小さな栞と向かい合っている小さい俺が何かを唱えていた。


「こっ、これは……」


 俺は見る見る赤面してくる。

 目の前の小さい俺が、小さい栞の肩に手を置き、おでこにキスをする。


「羞恥プレイだ」

「失礼です。忍君。私たちが誓った素敵な思い出なのに」


 栞は口を尖らせて抗議してきた。


「いやっ、その……ああっ、そうだね」


 動揺しながらも肯定すると、映像は晴れて元の池の岸道に戻った。

 栞が車椅子のハンドリムを動かし、こちらに向けて俺を見る。


「物真似でしたが……あの誓い。私の宝物です」


 彼女の見上げる一途な瞳は、心臓の鼓動を早鐘を鳴らすほどの魅力を持っていた。

 その後も、栞は俺の質問責めに嫌がらず答えてくれた。

 まだわからないこともあるが、能力に対しての足がかりはついたと思う。


「そろそろ時間だから戻るよ」

「そうですね……今日の夕方、道場に来てくれませんか? 忍君にみんなを紹介したいです」

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