先輩と女装

@ragy_cranks

女装

 過ごしやすい気候状況ゆえに、数多くの身勝手な枕詞とともに語られる季節、秋。

 例年のごとく夏明け直後の秋雨が去り、制服が冬服指定になる頃にはすっかり夏の暑さを忘れてしまったかのように、冷え性の女生徒がブレザーの中に何か着込んでもこもこし始める。

 それくらいの晩秋だった。

 我らが文芸部は既に文化祭での部誌の出品を終えており、これといった課外活動も控えていない。

 その無聊を読書の秋だから、と称して専ら無目的(目的のある読書というのをどのレベルで言っていいのか判らないけど、少なくとも僕がやってるのはそれではない)な多読で慰めてるような輩が半分。

 自分の作品に打ち込めるチャンスとばかりに、口々に理由をつけてはそさくさ家に帰り創作活動に勤しむ方々が半分で、活動方針が真っ二つに分かれていた。

 僕と先輩は部誌への寄稿以外ほぼ読む専で、当然前者に属する。

 尤も、先輩は今年の原稿を落としたせいで、最早何の為にこの部にいるのか不明な存在になってしまっていた。

 今部室にはそんな彼女と、元々部室の莫大な蔵書だけが目当てで、ハナから文章なんて必要なとき以外書く気にもならない僕しかいない。

 先輩がご家族の海外帰り土産だと持ってきた珈琲を一杯頂いて、これがなかなか良い味だったもので気分が良くなった。

 そのテンションのままさあ今からなにか読んでやるぞ、といかにも仰々しそうなタイトルの本を棚から手に取ってみたはいいものの、開始数ページでもう内容が頭に入ってこない。眼が古紙色に澱む。

 状況は先輩も似たり寄ったりのようで、江戸時代の性風俗についての解説書を広げてはいるものの、途中で頁を繰る手は止まっているようだ。さっきから同じ頁に潰れたゴキブリへ向ける視線を遣っている。

 お互い実りのない読書に飽き飽きしてきた、といったところだろうけれども、外はまだ陽の光が残っている。流石に帰るのにはまだ早いか? 先輩はどうなんだろう……と彼女を眺めているとやや視線が重なる。しかし彼女の方は僕の方を向いているわけでは無いようだ。

 僕が先輩を挟んで向こうにある窓の外を見ていたように、彼女は僕の頭上にある時計が気になったらしい。お互い時間を確認したところで、今度こそ眼差しがぶつかる。

 彼女は僕に気付くとそれが何らかの合図だと思ったか、唇に指を添えて数拍思考した。

「まだ帰らないよね?」

「ええまあ」

「よかった」

 彼女は大袈裟に胸を撫で下ろし、溜息を吐く。こういうのは正直ずるいと思う。たとえ帰りたくてもこうなってはもう駄目だ。

 そこからはもう、お決まりの流れだ。

「ね。女装って聞くとまず何を思い浮かべる?」

「……」

 彼女は突発的に意味不明な雑談を始める悪癖がある。入学してから今までの半年間、僕はそれによく付き合わされた。

 にしたって今日のは脈絡がなさ過ぎるし、話題がちょっと怖いな……先輩の不穏当な発言を聞き流すかどうか迷う。集中してますアピールをしておけばそれ以上の深入りはしてこない所は、彼女が奇人ではあっても狂人の域を手前で踏みとどまっている証だ。

 このまま読書を続けてもいいけれど、中年の延々と続く善悪語りよりは断然面白いだろう。僕は読みかけの古本を閉じ、こちらを試すような微笑みを向ける先輩に渋面を返した。

「質問がなんか漠然としてませんか?」

「そんなに深く考えなくてもいいよ。『女装』って言葉から連想するイメージ、映像、キーワード……なんかない?」

「うーん……」

 当然、普段女装について思考を張り巡らせているわけもなく、これといった何かとその言葉との関連が上手く見いだせない。苦し紛れに眼を泳がせたすぐ傍で、先輩の持つ古書に自然と行き着いた。

 あるいは古書の方が蛸壺のように僕の眼を待ち構えていたのかもしれない。先輩はそういう細かい人だ。

「ええと、じゃあ歌舞伎とか」

「『じゃあ』? ほんとに自分で考えて言ってる? まあいいけど」

 物言いは咎める風だけどまったくそんな表情ではない。先輩は適当に他人から貰ったお題に沿って即興トリビアを繰り出したいだけで、「僕の」連想が重要なわけではないからだ。あまりにもぞんざいな対応をすると拗ねてしまうが、流石にこの程度の些細な言葉選びを本気で気にかける人ではない。

 この辺の距離感は半年かけてある程度慣れてきたところだ。

「そうだね……まずは……歌舞伎がどうして女形なんてシステムを採用するようになったかは知ってる?」

「怪しいですけど多少は。確か元々はふつうに女性が演じてたけれど、規制が入って女性が舞台に出られなくなって、代わりに男性がやるようになったんでしたっけ」

「んん……合ってるような合ってないような。大筋としてはそんなところだけど、多分根本的に違う所がありそうだね」

 自信があった解答ではなかったので、指摘はすんなり受け容れられる。具体的にどこが、というのをそんなに聞きたいわけでもないが、先輩の話したげな様子は好ましかった。

「もしかしてさ、今の劇で女形がやっている役所を、そのまま女性に入れ替えたような芝居を想像してない?」

「その言い方だとどうもそうじゃないらしいですね……」

 そもそも歌舞伎についてもいままで何か考えを巡らした事はなかった。精々ニュースで歌舞伎俳優のスキャンダルを知るか、日本史の授業中に資料集で歌舞伎踊りの創始者、お国という名前を目にしたくらいか。田舎の高校生にとって歌舞伎など殆ど異界の出来事である。それに僕は日本史が苦手だ。

「うん。実を言うと歌舞伎が今でいうお芝居をやるようになった原因の一つが、女性の舞台起用禁止なの。それまでは、今みたいな長々とした劇はやってなかったし、歌舞伎の主役は女性だったくらいよ」

 ほら、よく言う出雲阿国も女性でしょう? と続く。

「それがどうして今の芝居の形に?」

「じゃあ、今から順を追って説明しようか。現代の歌舞伎の元になってるショービジネス、これはお国っていう踊り子が始めた歌舞伎踊りが広まって、遊女達がやるようになったのが事の起こりってことになっているわ」

 僕がどこかで聞いていた歌舞伎の成り立ちと、遊女というワードが結びついてしまう。

「あ……規制ってもしかして、そういう……」

「ええと勘違いしないで欲しいんだけど、別に元の歌舞伎踊りがストリップショー……紛いのことをやってたってわけじゃないからね? まあそれなりにきわどいものではあったらしんだけど……なんにせよ……芸の後、遊女達が芝居小屋に来た客とすることって言ったらまあ一択よね」

 一択と事も無げに言い切る割に、ストリップという表現には抵抗があったらしく、否定の声はやや強めだった。

「どちらかというと性の乱れって言うよりは、遊女を巡って客同士で刃傷沙汰に発展するまでの諍いが相次いでいた事の方が問題視されていたみたい」

「人を殺してでも奪いたい女性か……」

「時代的な問題もあるのかもしれないけどね。遊女歌舞伎が流行ってた頃は、まだ戦国時代が終わって十数年とかそんなくらいだし。……続けて良い?」

 もはや完全に門外漢の事項なので、挟む口もなく先輩に先を促す。

「で、それと時期を同じくして、元服前の少年が役者をこなす若衆歌舞伎なるものも出てくるわけ。若衆というとピンと来ないかもしれないけど、やっぱり演者は売春を生業にしてることが多かったらしいわ」

「? その時期っていうのは、幕府から遊女歌舞伎が規制される前からって意味ですか?」

「うん。ほら、衆道は侍の嗜みだったからね……しかもこっちでも、若衆をめぐって血みどろの争いが繰り広げられていたそうよ」

 じゃあ女装少年というわけでもなく――女性の代わりではなく――それそのものをダイレクトに好む層が既に一定数いた訳か。

 HENTAIサムライジャパンここに極まれりだな。日本の未来は暗くない。

「……といった事情もあって、公序良俗というよりは直接的に治安を改善させる為、ここら辺の歌舞伎が次々と禁止されていったの。これらを『踊り歌舞伎』とでも呼ぼうかな」

「踊らない歌舞伎って言うのは現代の歌舞伎のことですか? 結局演劇メインになった理由がまだ見えてこないんですけど……」

「簡単な話よ。正直に答えてみて。次の三つのうち、一番お金を払って観に行きたくないのはどれ? ①、綺麗なお姉さんの扇情的なダンス ②、美少年の色気ある踊り ③、①②に近づけようとするおっさんの踊り」

「……」

 身も蓋もないが腑には落ちた。

「そう。要するに踊りだけだと遊女歌舞伎や若衆歌舞伎に見劣りするの。演者が変えられてしまったから、舞台の内容もそれに併せていったわけ。性的アピールにとどまらない、それ自体に見応えのある演劇としてね……と、そろそろ時間かな」

「え」

 何の? と尋ねる前に背後のドアが開く。振り返った先には見慣れない女生徒がいた。ボウタイの色からして先輩の同級生かなにかだろうか、という予想はそう外れでもなかったらしく、「演劇部の友達なの」と僕に必要最低限度の説明を済ませると、先輩はその女生徒から何やら紙袋を受け取った。

 どうやら先輩が今の時間までここにいたのは、荷物を遣り取りする為の暇潰しだったようだ。

 見知らぬ女生徒は受け渡しの際、先輩越しに僕の姿の一通り眺めて意味深な笑いを残して行ったが、一体何だったのだろう。

「先輩、いま貰った物って……」

「これのこと?」

 無造作に紙袋から取り出されたそれは、何処かの高校の女子制服に似せた手作り衣装だった。それにしてもやけにサイズが大きい。

「ええと……」

「この前の文化祭の時、演劇部に演ってもらった、『性別逆転世界』の衣装。誰かに着せたら面白そうだからって、無理言って借りちゃった」

「へ、へぇ。そうなんですね……。 ? 演って、もらった?」


「ええ。あれの脚本私だから」


「」

 一瞬、言葉を失う。

 先輩、書く人だったんだ……何か書いてる素振りなんてこれっぽっちも見たことが無かった。

 ……他の部員が帰ったのって、これを知ってたからなのか?

 当然答える者は無いし、そんなこと後日聞いてもどうにもならない。

「着てくれるよね?」

 既に僕には選択肢は無い。



「おお……」

「……」


 嫌になるくらい体にフィットするブレザー……はいいものの、そのせいで肩のラインがカクついている。

 無防備に晒された膝……から下はストッキング越しに臑毛が激しく自己主張していた。


 その姿は女の装いであるだけで、一欠片も女を装えていなかった。僕も晴れてHENTAIサムライジャパンの仲間入りである。即刻ハラキリ致したい。


「どう? 感想は」

「どうもこうもないですけど……強いて言うなら足と首元が寒いですね」

 そのくせ耳と顔が妙に熱を持っていることで、余計気恥ずかしさが加速する。完全に悪循環に陥っている。

 屋内といえどざっくり開いた股と胸元の隙間から体温を奪われていくのを感じる。これなら冷え性でなくとも冷気に敏感になるのも無理からぬ事だ。

「でしょ? ほんと、機能性の欠片もない服だよね。まあでも、着てくれる人が増えて、話を考えた甲斐があったわ」

 ……いつか女装の秋なんて言い出したりしないだろうな、と少し心配になった。

 澄ました顔してそれくらいのことは言ってのけそうなひと女性だ。


 でもこの顔が見られるなら、そういうものに振り回されるのも悪くないかもしれない。

 そう思うのと僕が笑うのはほぼ同時だった。

 いや、実は笑う方が先だったのかもしれない。


 溢れた後の笑みの意味を思うように。

 山が色づいてはじめて秋の訪れを知るように。


 喜ばしさは常に僕の丁度一歩先を行くのだろう。

 そしてそういうことに気づけるのは、今みたいな秋の終わりなのだ。


 先輩が一歩先で待ってくれるなら、僕は何処へでも行けそうな気がした。


「あ、衣装は合わせたから次はウィッグとかも用意するね。今日はもう遅いし、明日からメイクとか教えるわ」


 ……前言撤回。明日なんていらない。

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