向かいの窓の影を……
朝立 朗
第1話 葉状の狭間で
「もう一杯!」
「あはは、よく飲みますねえ」
こんな夜は冷えたビールよりも、圧倒的に熱い焼酎が良い。
若い客の集まるこの店には、これが出る事はないらしい。
まだこの酒のうまさを知らないに違いない。
シックな木目のカウンターには座席が八個ほどある。楕円状になっており、カウンターには店主がいる。普段は若者で埋まっているが、今は試験があるとかでここには疲れ切ったサラリーマンがぽつりぽつりといるだけだった。
不動産業界に憧れて就職した訳じゃない。
自分の親父が不動産業を営んでいた。世間がバブルだなんだって騒いでいる最中に、土地ころがしに失敗したなんてうちぐらいだろうと思っている。
高値で売ると言った土地や物件を、全てやくざに騙されて持って行かれた。それでも何とかなるんだと親父は話していた。母は悲しみに暮れて、一週間もしない間に実家へ帰ると言ってとうとう帰ってこなかった。
中学一年生のがきでも、それくらいの事は分かっていた。
「強く生きなさいね」
と言ったのが最後の母の言葉であった。
日本には言霊信仰っていうのがあるらしい。
声や、言葉にすると、それが不思議な力を持ち、時にはそれが現実のものになるらしい。
俺はそんなものを信じていない。
何故なら、その俺が強く生きれる訳などなかったからだ。
てめえだけは、勝手に力強く生きているのかもしれないが、残されたこっちはそんな事、到底出来るはずなどなかったからだ。
親父が酒浸りになる事はなかった。親父は下戸だった。
借金の取り立ても家に来なかったところを見ると、きっと残った資産や会社の債務整理で上手く立ち回っていたからなのだろう。
気づくと、店には俺一人だけになっていた。
酒に酔った事は何度もある。
けど、そのたびに止めようと思った事はなかった。
「何か、やりましょうか」
店主の声で我に返る。
ぐるりと店の壁を見回す。
炭火の灰で薄汚れたメニュー表が、所狭しと貼り付けてある。
タレなのか香辛料なのか、それともそれらの混ざったものなのか、やや香ばしい匂いのするメニュー表だった。年季が入っている事は分かった。
「どうでしょう。厚焼きと、モモ二本」
「鳥ですね」
「ああ」
ここには数回来ている。
自宅からやや離れたここの店は、一人になるには何かと都合が良い。
あとは、ホテルを探してそこで残された仕事をするのみだった。
明日で丁度、親父の年齢を超える事になる。
母がいなくなってから数か月後、いつもと変わらぬ顔で出かけていった。
どこへ行ったのかは知らないが、親父の兄が言うには自殺だったということだった。そんな風には思えなかった。
だからこそ、不動産業なんかやりたくなかった。
学校の教員は『夢を持て』とはやし立てた。
「お父さんに負けない不動産会社を作りなさい」
と、冗談か本気かは知れないが、そう俺に言った。
これだから教員は世間知らずだと言われるのだ。
結局、その叔父の家で俺は何不自由なく暮らした。
どことなく気を遣われている様でもあったが、逆にそれが俺には精神的に楽だった。公立高校に行き、真ん中の成績で卒業した。
だが、大学受験では失敗した。所謂、三流大学に合格した。浪人して早稲田や慶応に行きたいと願った事もあった。
ただこれ以上お金を使わせる事は出来ないと思った。
大学に入り、仮面浪人として再び再起を誓ったが大学生活に光と希望を感じてしまった俺は、この大学で良いと満足してしまった。結局のところ、俺はどっちつかずの人間なのだ。
「モモね」
店主が俺のカウンターの前に先程注文した、鳥のモモ肉の串を置いた。
何も言わずとも、塩を振った状態で出されるあたり、よく客の好みを覚えているなと感じた。
「うん、こいつァ柔らかくて良い肉だ」
急に隣から手が伸びたかと思うと、俺の獲物を横取りする奴がいた。
こういう人間は死ぬほど見てきているし、たかが百五十円のことで文句を言う事も今はばかばかしいと思った。
「ええ、そうでしょ」
と言いながら、もう一本も差し出す。
顔つきからは四十過ぎだろうか、もしくはそれよりもっと高齢かもしれない。鼻は高く、目は垂れて恵比寿様のようになっている。髪は白髪交じりだが、しっかりと整っている。昔で言う紳士、という部類なのだろうか。
「いやあ、良いよ。俺はもう十分。マスター、アサヒね」
「そうですか」
と言って、もう一本を皿に置いたまま水にも口を付ける。
酒はあまり得意じゃない。
しかし、いつの間に隣に来たのだろうか。
正直、二人しかいないのだから席は向かい側でも良い。にもかかわらず、隣に来る当たり、面倒な客なのか、俺と同じ様な人間なのかと考えた。
「良い時代になったもんだ」
「そうでしょうか」
雰囲気もあったかい訳ではない。
ならば、こちらから話を切りたいのでわざとぶっきらぼうに返事をする。
「ああ。この辺もな。昔はもっと交通の便が悪かった。
やたら話したがるこの紳士に、俺はそろそろ嫌気が差してきた。
「そうですか。でも、今じゃシャッターばかりですけどね」
「近くに大型の複合施設が出来たわけでもねえけどな。この町が嫌いなんだとよ。明るいネオンの明かりさえ感じられねえ。若けえ奴だってすぐいなくなっちまう」
「でも、若者はよく見ますよ」
「ああ、そりゃ大学があるからだろ。だが、それがなくなりゃ終わりだ。大体、多少は交通には良いがあみゅーずめんとってやつ。あれがねえんだ。そりゃ学生しか来ねえよ。今どきの若者なんていねえぞ」
そう言いながら、男はコートを脱いだ。
手にビールを持つと、わざと音を鳴らしながら半分以上をその胃袋におsめていく。
「しけた顔してんな、お前さんな」
見ず知らずの男から、言われる筋合いはない。
酒に酔った悪漢ならばそう言うのも理解できるが。
素直に嫌な男だと思った。
「晴れ晴れとしていますよ。わかりませんか」
「お前さんあれか。死ぬ気だろ」
心臓がどきっとした。
店主がその会話を聞いてか、こちらを見つめている。
カウンターには、いつの間にか置いてある厚焼き玉子があった。
俺はそれをゆっくりと手に取った。
「人聞きの悪い、変な事言わないでくれませんか」
「ああ、そうかい?俺はそんな顔した奴をよく知ってるからな。良いか、決して死ぬんじゃねえぞ」
「あなたは人を見る目がないようですね。そんな事はしません。それにね、仮にするとして、あんたに言われて考えを変える事はありませんね」
そう冷静に話しながらも、卵焼きを割く箸の先端は震えているのだった。
向かいの窓の影を…… 朝立 朗 @sanara7
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