第2話 二つの出会い




 秋のある日の昼過ぎ。肩がけの鞄を持って男が一人、夕桜(ゆざくら)の街並みを歩いていた。


 男の名前は戌井冬吾(いぬいとうご)。百八十を越す長身で髪は短く、やや目つきの悪い強面で、パーカーにジーパンという簡素な服装をしている。筋骨隆々というほどではないが、それなりに厚い体格の持ち主だった。


 春に高校を卒業した十九歳であるが、その年齢とはいささか不釣合いな――平たく言うなら威圧感のある風貌のせいか、前から歩いてくる女や子どもはなんとなく彼と距離をとりつつすれ違うのだった。もっとも、冬吾にとっては慣れきったことなので気にしてはいない。


 十月半ばとなり、紅葉を纏い始めた街路樹の並ぶ道を、冬吾は電話をしながら歩いている。


「――わかったよ。帰りに食パン買ってくりゃあいいんだな?」

『うん、ちょうど切らしてたからお願いね。……お兄ちゃん、今、外にいるの?』

「ああ。今日はちょっと人と待ち合わせがあってな。学校はさぼ……休んだ」

『そうだったの? 帰りにパン屋さんの前通らないんだったら、無理に買ってこなくてもいいけど』


 家から冬吾の通う大学への道筋に、評判のいいパン屋があるのだ。食パンはいつもそこで買うようにしている。


「いや、いいよ。時間あるし、寄って帰る」

『そう? それじゃ、やっぱりお願い』

「おう。そろそろ待ち合わせ場所に着くから切るぞ。お前ももう休み時間終わるだろ」

『あ、はーい。じゃあね』

「授業中に居眠りすんなよ」

『もー、お兄ちゃんと一緒にしないでよねー』


 冬吾は笑って、最後に「じゃあな」とだけ言って電話を切る。


 ここらはいわゆるビジネス街と呼ばれるような区域で、周囲にはビルが数多く立ち並んでいる。そのため昼休みや終業後のサラリーマンやOLを対象とする飲食店も多くあった。やがて冬吾は、その中のある喫茶店へと入っていった。


「待ち合わせ、ここで合ってるよな……?」


 冬吾は店内を見渡す。カウンター席とテーブル席に分かれており、平日の、それも、昼食を摂るにはやや遅い時間であるせいもあってか、客はまばらだった。カウンター席に老人が一人、立ち並ぶテーブル席の手前側には買い物帰りらしい二人の親子連れ、奥側の方には若い女性が一人で座っていた。冬吾の目当ての人物は見当たらなかった。


「まだ来てない、か」


 とりあえず、適当な席に座って待っておくか。そう思った矢先、


「ああ、こっちだ」


 店の奥、角となった席に一人座っていた女性が手を上げ、誰かを呼んだ。


「……ん? んん?」


 後ろを振り返ってみるが、誰も居ない。冬吾の近くにいた誰かへ声をかけた、というわけではないらしい。


「何してる。早く来い」


 女性が急かすように言う。誰かと間違えているのだろう――そう思いながら冬吾は女性の座る席へ近づいていった。


「あの、すみませんけど」


 おそるおそる、声をかける。


 女性はコーヒーに口をつけたところだった。すらりとしたパンツスーツ姿で、背中まで届く髪をうなじのあたりで一束にまとめている。マニッシュな雰囲気の漂う美人で、コーヒーを飲む仕草一つとっても優雅に見えた。女性はコーヒーを机に置くと、涼やかな眼を冬吾へ向けて言った。


「――君が戌井冬吾君、だな?」


 どうやら人違いではないらしい。だが、どうして? こんな人が自分に何の用があるというのだ。返答に窮していると、神楽は片眉を上げつつ言う。


「おや、違ったか? 待ち合わせ相手を探しているようだったから、てっきりそうだと思ったのだがな」

「あ、いや……合ってます。俺が戌井です」

「そうか。安心した。まあ、座るといい」


 手で促されるまま、向かいの席へと座る。


 隣の席へ鞄を置きながら考える。この女性はいったい誰なのだろうか。冬吾の名前、そして、この店で待ち合わせをしているということを知っている人間といえば、当の待ち合わせ相手である岸上豪斗(きしがみごうと)くらいしか思い当たらない。


 電話越しにたった一回話したことがあるだけだが、声から抱いた印象として、岸上は自分より二回りは年上の男性のようだった。間違っても、目の前の見目麗しい女性が岸上豪斗であるとは思えなかった。


「ふむ」彼女は冬吾を観察するようにしげしげと眺めて言う。「背が高いな」

「はぁ、どうも」

「学生か?」

「……ええ。そう、ですけど」


 初対面の人間から年齢相応に見られることは冬吾にとって珍しい。なので冬吾は内心彼女の評価を少し上げた。


「今年から大学生です」


 平日なので今日も講義があったが、自主休講だ。


「いい時期だ。大切に過ごしたまえ」

「ええっと……」


 困惑する冬吾を見て彼女は笑う。


「そう不審がるな。――名乗るのが遅れた。私は神村(かみむら)という者だ。君と会う約束をしていた岸上豪斗の代理でここへ来た」

「岸上さんの代理? あなたが?」

「申し訳ないな。急なことなのだが彼は今、用事でどうしても手が離せない状態でね」

「……そうですか」


 落ち着いたように言いながら、冬吾は腹を立てていた。もとはといえば、冬吾を呼び出したのは岸上のほうなのだ。


 今朝、見知らぬ相手からかかってきた電話……。怪しいとは思ったが、あんなことを言われたら確かめないわけにはいかないだろう。


『――君の父親の死の真相を、私は知っている。それを君に話しておきたい』


 岸上豪斗と名乗った男は、たしかにそう言ったのだ。


 冬吾の父親は今から四年前に死んだ。名前は戌井千裕(いぬいちひろ)、県警捜査一課の刑事だった。周囲の人々は、彼を人望に篤く優れた刑事だったと、その死を惜しんだ。


 母を病気で早くに亡くしていた冬吾にとって、父の存在は偉大だった。人々を守るため、正義のため、日夜忙しそうにしていた父の背中は、冬吾の憧れであり、誇りだったのだ。それだけに、その死が冬吾に与えた衝撃は並大抵のものではなかった。それ以来、冬吾は今となってはたった一人の肉親である妹と共に二人で暮らしている。


 四年前の秋の日、千裕の遺体はこの街のとある裏通りで発見された。刃物で胸と腹を複数回刺され死亡しており、見るも無惨な状態だったという。


 犯行時刻は深夜と推測された。目撃者もおらず、死の真相は未だに明らかになっていない。通り魔の犯行のようにも思われたが、千裕が担当していた何らかの事件の関係者からの報復ではないかとも考えられた。


 四年もの間、警察ですら掴むことのできなかった事件の真相を、どうして岸上は知っているのだろうか? それに、どうして今さら? そもそも、岸上豪斗とはどんな人物なのだろうか?


 疑問は尽きない。急な誘いではあったが、その疑問の答えを確かめるためにも、冬吾は岸上から指定された待ち合わせ場所であるこの喫茶店へとやって来たのだった。しかし、代理の人間が来ているとはいえ、本人がいなければ意味が無い。


「すると……岸上さんは今日はもう来ない、ってことですか?」


 神村はその質問を待っていたかのように、微笑を浮かべた。


「それなんだが、君に提案がある。岸上の用事はそれほど長くはかからないはずだ。ただ、なかなか現場から離れることもできないという状態にある。それで、君をこれから岸上の元へ案内するように言われている。話はそこで、とのことだ」

「岸上さんは今どこにいるんですか?」

「職場だ。ここから五分ほど歩いたビルの中になる」

「……それって、会社の中ってことですよね。俺が入っても大丈夫なんですか?」

「ああ。それは問題ない。岸上は二人きりで話せるように取り計らうそうだ」


 それなら、一応問題はなさそうに思える。


「でも、外部の人間が歩いてると、目立ちませんか?」

「それも心配いらない。裏口から入れば人目にもつかないだろう。もちろんここまでの話は、君さえよければ、ということになるが?」

「……大丈夫です。行きます。俺としても、岸上さんからは是非話を聞きたいので」

「そうか。いや、私はその内容について知らされていないのだが……その話というのはいたく君の興味を惹いたようだな。――よろしい。社まで案内しよう。他に質問は?」

「ええと……あっ、そうだ」


 これは訊いておかねばならないことだった。


「ところで、神村さんは岸上さんとどういった関係なんですか?」

「……ふむ。どういった関係に見えるだろうか?」


 神村は冬吾へ試すような視線を向ける。質問に質問で返さないでほしい。……困る。


「……上司と部下、とか?」


 様子を窺うように口に出す。もちろん上司は岸上のほうだ。代理を任されているということや、神村がまだ二十代半ばほどにしか見えないということからも、逆ではあり得ないだろう。


「ふふ……。そうか、そう見えたか。では、そういうことにしておいてもらおう」


 面白がるようにそう言うと彼女は席を立つ。それでその話は終わりのようだった。質問を受け付けたからにはきちんと答えてほしいものだ。


「コーヒーの一杯でもおごってやりたいところだが、生憎、岸上からなるべく急ぐようにとのお達しだ。すまないな」


 神村は席を立ちつつ言う。


「気にしないでください。というか、俺コーヒー苦手なんで」

「そうか。……ちなみに、なぜ苦手なんだ?」

「……苦いからです」


 神村が肩をすくませ笑う。


「笑わないでくださいよ」

「いや、すまない。馬鹿にしたつもりはないのだが……。苦味というのは本来毒のシグナルで、動物が危険を感じる味だそうだ。そういう考え方でみれば、君は危険に敏感だとも言える。悪いことではないさ」


 そうだろうか。ただ単純に子供舌というだけだと思う。


「では、行こうか」


 神村は手早くコーヒー代の会計を済ませて、店を出た。しばらく彼女の後についてビル街を歩く。


 彼女の背中のあたりで艶のある黒髪が揺れている。その後ろ姿に冬吾は思わず見惚れてしまいそうになった。


 女性として、というよりは、一流の美術品を眺めているような感覚に近いかもしれない。行き交う人々の中にも時折振り返る者がいるほど、神村の美貌は卓越していた。背が高く、モデルとしてでも充分通用するだろう。


 歩く姿は威風堂々、それでいて流麗。まるで研ぎ澄まされた刀剣のような印象を受けた。


「どうかしたか?」

「えっ」


 突然尋ねられ、慌てた。じっと見ているのを気取られたか。冬吾は咄嗟に質問をすることで誤魔化しを図る。


「いや、ええっと、その。神村さん。これから向かうのは、どんな会社なんですか?」

「ナイツグループという企業だ」


 聞き覚えのない社名だ。名前からはどういった会社なのかも推測できなかった。ナイツ、とは騎士の意味だろうか。


「業務の主なところはサービス業、それに販売業といったところだな。まあ、少々変わったものを取り扱ってはいるが」

「変わったもの……?」

「自分で確かめてみるといいさ。さぞや驚くだろう」


 神村は不敵な笑みを浮かべる。


「……?」


 その笑みに、冬吾はうまく言語化できない、奇妙な不安感に襲われたが――ひとまず素直に神村についていくことにした。


「他に何か質問はあるか?」


 神村が言う。一応考えてみたが、なにも思い浮かばなかった。


「いや、特には」

「では、こちらから一つ訊いてもいいか?」

「え? ああ……どうぞ」

「その髪は、ファッションか何かか?」

「へっ?」


 神村は冬吾のほうを振り向いて、右の耳近くの髪を指さす。


「そこのところ。私には寝癖のように見えるのだがな?」

「あっ……」


 自分で触ってみてやっとわかった。毛先がハネている。朝に治したつもりだったのだが、寝癖がまだ残っていたようだ。


「す、すみません」


 慌てて手で撫でつけて治す。神村はそれを見て笑い、


「気をつけたほうがいい。せっかくのいい顔が勿体ないぞ」

「は、はぁ……どうも」


 冗談だとわかっていても、そう言われると悪い気はしない。我ながら単純である。


 それから二分ほど歩いて、神村は立ち止まった。裏通りに入ったところの、人通りの少ない……というよりは、殆ど無い場所だ。気のせいか、周囲より気温が下がったように感じる。


「着いたぞ。ここだ」


 腕時計を見ながら神村が言う。


「……ここが?」


 目の前にあるのは、無骨なビルだった。ざっと見たところで十階くらいの高さがある。ただし、ビルの横幅からして一階あたりの面積はそれほど広くはなさそうだった。一階ごとに三部屋か四部屋というところだろう。


 それにしても、普通はビルの入口やその周囲に看板や表札くらい出ているものだが、それらしきものは見当たらない。というより、そもそも入口が見当たらなかった。


「あの、どこから入れば?」

「そこの階段から一階分下るんだ。その先に入口がある。ここは裏口だが、表のほうも似たような造りだ」


 見ると、ビルの際のところに下りの階段があり、コンクリートの地面がそこだけくり抜かれたように窪んでいた。ひっそりとしすぎていて、言われるまで気づかなかった。


 階段を下っていく。両側はコンクリの無機質な壁になっていて、建物へ入ろうとする者の姿を周りから隠すかのようだ。奥まで下っていくほどに、段々と陽の光が遮られ薄暗くなってくる。まるで秘密基地に入ろうとしている時のような妙な緊張感があった。やがて、扉に行き当たる。


「岸上は七階の会議室で君を待っているはずだ。ああ、会議室といっても別に会議中というわけではないから安心してくれ。場所も……まあすぐにわかるだろう。もし、会議室に岸上が不在ならそのまま中で待機していてくれて構わない」


 神村はまた腕時計を見ながら言った。


「では、行ってきたまえ」

「あ? ……え?」


 不意をつかれたような顔をする冬吾に、神村は不思議そうに眉を上げた。


「ん、どうした?」

「もしかして、ついてきてくれない……んですか?」

「すまないが、私にも外せない用事があってね。すぐに行かなきゃならない」

「そ、そんな、困りますよ」

「なに、心配するな。入ってすぐのところにエレベーターがあるから、それに乗って七階へ移動するだけだ。五歳の幼稚園児にだってできる。それとも、坊やには保護者の同伴が必要か?」

「うっ……」


 自分にだってプライドというものがある。そのような言い方をされては、無理です、とは言えないじゃないか。


「――とはいえ、このまま送り出すのも些か不親切というものだな。ふむ、そうだな……紙とペンはあるか?」

「……? ありますけど」


 冬吾は鞄から百円のメモ帳とボールペンを取り出して神村へ渡す。彼女は壁を下敷き代わりにメモ帳へさらさらと何かを書き入れる。


「……よし。これを渡しておこう」


 神村はメモ帳からそのページを破り取ると、丁寧に四つ折りに畳んでから冬吾の鞄の中へと強引に押し込んだ。


「なんですか?」

「私の携帯の電話番号だ。困ったときはそこへ連絡してくれ。まぁ、必要ないだろうとは思うが、念のためにな」

「ど、どうも……」


 美女から電話番号を渡されるというシチュエーションに内心沸き立つものがないではなかったが、素直に喜ぶことはできなかった。


 こういうのってもっとこう、ロマンチックなものを想像していたんだけど。いや、自分がそういった感性に疎いだけで、これも充分劇的と言えるのかもしれないが。


 冬吾はため息をつき、困ったように首元に手をやった。


「なんだかな……」


 妙なことになったものだ。岸上という男に突然呼び出された結果、見知らぬ会社のビルに一人で入るはめになってしまった。


 だが、ここで帰ることなどできるはずもない。岸上豪斗が父の死について何かを知っているというのなら、何としてでもそれを訊き出さないことには、冬吾の気持ちは収まらないだろう。


 冬吾は目の前の扉のノブに手をかけた。


「よし……行くか」


 意気込んだそのとき、背後から神村の声がした。


「覚悟することだ」

「……は?」


 顔だけ振り返って後ろを見る。上からの逆光の中で、神村は冬吾へ語りかける。その姿はどこか異様で――まるで、妖艶に微笑む魔物のようにも見えた。


「この先、君は、未知の世界へと足を踏み入れることになる」

「え……?」


 なんと返したものか。たしかにここが知らない場所であることには違いないが、未知の世界とはちょっと大げさすぎやしないか。


「これはささやかな助言だが――最後まで諦めないことだ。そうすれば、あるいは幸運の女神が君に微笑むかもしれない」 


 神村の言うことは要領を得なかった。だが、どうやら自分を気遣ってくれているらしいということは理解できる。


「はぁ……えっと、わかりました」


 ……わかってないけど。


「ありがとうございました、神村さん」


 そう別れを告げ、冬吾は扉を開いた。背後で彼女の声が聞こえた。


「……健闘を祈るよ」


 裏口から入った先は、細長い廊下になっていた。人の姿はなく、静かなものだ。腕時計で時間を確認してみると、時刻は午後二時半を少し過ぎたところ。昼休みも終わって仕事中だろうか。迷惑にならぬよう気をつけなければ。


 十メートルほど進んだ先、右手側にエレベーターがあり、廊下はそこで左に折れていた。おそらく、廊下をそのまま進めば表口のほうへと繋がっているのだろうが、今はそちらへ行く必要はない。


 呼び出しボタンを押してしばらくして、エレベーターが降りてくる。中へと入り、扉横のパネルで階数を確認してみると、このビルは地下二階から上は十階まであるらしい。ここは地下一階だから、この下にもフロアがあるわけだ。


 さて、目的地は何階だったか。


「たしか――」


 パネルのボタンに触れようとしたその時、正面の廊下から誰かが走ってくる姿が見えた。


「すとーーーーっぷ! そのエレベーター、ちょっと待って!!」


 だかだかだか、と勢い良くエレベーターの中へ駆け込んできたのは、見た目、冬吾とそれほど歳が変わらないような女の子だった。すぐ後に扉が閉まる。


「はー間に合った! よかったー」


 彼女は壁にもたれながらほっと息をついている。冬吾は横目に彼女を見る。


 神村も相当な美人だったが、彼女もまたずば抜けた美少女だった。今日はなんだか、珍しい日だ。


 緩くウェーブのかかったロングの赤髪に、子猫のような愛くるしい顔立ち。デニムのショートパンツから覗く脚は眩しいばかりに白い。黒いブラウスの上からは、かなり使い込まれた様子のカーキ色のモッズコートを羽織っていた。


 ここの社員……のようには見えない。年齢的にも、服装的にも。どちらかというと渋谷あたりにいそうな今どきの女子高生といった感じだ。すると、自分と同じようにたまたま用事があって外部から来た子なのかもしれない。


 はて、それにしたって一体どんな用事だというのか。


「……ねぇねぇ」


 後ろから脇下のあたりを指でつっつかれる。


「わっ……!」


 驚いて冬吾は身じろぐ。


「な、なにを……?」

「よけーなお節介かもしれないんだけど……ボタン、押さないと動かないよ?」


 彼女はそう言って扉横のパネルを指差す。


「あ、ああ、ごめん。わかってるよ、もちろん。わかってるとも」


 冬吾はどぎまぎしながら七階のボタンを押す。歳の離れた神村と話す時にはまだ平気だったのだが、やはり同世代くらいの――それもこんな美少女が相手となるとどうしても緊張してしまう。


「ええと、君は何階?」

「あ、九階おねがい」


 九階のボタンを押す。エレベーターが動き出した。


「お兄さん、ここの人じゃないね? 何の用事?」


 彼女は初対面とは思えないほどフレンドリーに話しかけてくる。だがそれを不快には思わなかった。


「人に呼ばれてるんだ」

「なんて人? あたし知ってるかも」

「岸上って人なんだけど」

「岸上……岸上なにさん? ……あ、七階ってことは豪斗おじさんか」

「そうだけど、知ってるのか?」

「うん。名前はいかついけど、優しいおじさんだよね」

「そうなのか。俺はまだ会ったことないからわからないんだけど」

「ふーん……」

「そう言う君はいったい――」


 と、そこでエレベーターが停止して扉が開く。七階に到着したようだった。


「じゃねー」


 彼女はひらひらと手を振る。応えるように手を上げてから、エレベーターを出た。結局、彼女が何のためにここにいるのか聞くことはできなかった。口ぶりからして、ここへ来るのは初めてではなかったようだが……。


 多分、もう二度と会うこともないのだろう。その事実に少しばかり寂しさを感じつつ、冬吾は廊下を歩きだした。


 正面方向と右方向に廊下は分かれていた。正面奥のほうでは、更に右へL字状に折れていて、その先に何があるのかここからでは把握できない。


 右側の通路を向くと、左手側に手前から両開きの扉、片開きの扉と並んでいて、その先は行き止まりになっていた。両開きの扉のほうへ近寄ってみると、扉の上に『会議室』と書かれたプレートがあった。待ち合わせ場所は、どうやらここのようだ。


 ノックをする。間を置いて、もう一度。……返答はなかった。左右の扉にはそれぞれ真ん中あたりに縦一メートル、横三十センチほどの長方形のガラスが入っている。透明なガラスなので、中を覗けそうだ。右側の扉のガラスから中の様子を窺ってみるが、無人のようだった。


 さて、どうしたものか。


 神村の言葉を思い出す。岸上が不在なら中で待っていろ、とのことだった。ならば遠慮無く待たせてもらおうじゃないか。冬吾は二つあるうち右側のドアノブに手をかけ、扉を手前に開いた。


「失礼しまーす、と……」


 誰にともなくそう言ってから中へ入る。会議室の中は奥行き、幅ともに七、八メートルほど。折りたたみ式の長机が、いずれも長い辺の方をこちらへ向けて、部屋の中央にいくつも並べてある。合わさってそれは、一つの大きな机のようにも見えた。一番手前の机にはぽつんと湯呑みが一個だけ置いてある。


 机の行列を中心としてその手前側、そして左右に一つずつ、合わせて三つのパイプ椅子が置かれてある。必要になれば部屋の隅に立てかけられている閉じたパイプ椅子を加えるのだろうが、とりあえずは冬吾と岸上の分だけあればいいだろう。


「なんか、すげー散らかってるな……」


 床のカーペットの上にはあちらこちらで段ボール箱や資料らしき紙の束が雑多に山積みにされていた。うかつに触れると山を崩して悲惨なことになりそうだ。慎重に移動しなければ。


「なんだ……?」


 部屋の中央――長机の行列のほぼ中央でもある――に、なにやら見慣れない物体があった。白い四角形の板状の土台が、その四隅から伸びた四本の支柱で天井と繋がっている。土台は長机のすぐ上のあたりにまで降ろされていた。その土台の上に乗っていたものが何なのかわかると、すぐにそれが何のための機構なのか理解する。


「プロジェクターの……昇降機?」


 こんな低い位置に降ろされているのを見るのは初めてだったから一瞬わからなかったが、なんということはない。それは冬吾の通う大学でも使われている。プロジェクター、つまりスクリーンに映像を投射する機械を、天吊りにして使うための装置だった。普段は天井の中に収納されており、必要なときだけリモコンで操作して土台を下降させ、その上に固定されたプロジェクターを使うのだ。見ると、部屋の奥には幅二メートル強の大きなスクリーンがあった。おそらく会議かなにかで使った後で、そのまま放置されていたのだろう。


「にしても……なんか、変な臭いがするな……」


 入った時から異臭があった。例えるならそれは、学校の理科室にある薬品棚の臭いだ。その臭いは奥の方へ進むごとに強くなってきた。耐え難い、というほどではないが、不快だ。この部屋には窓がないから、換気ができない。かといって、勝手に入っておいて空調を操作するのも気が引ける。我慢するしかないか……。


 あちこちに置かれた荷物を踏んだり崩したりしないよう歩いて、ようやく部屋の真ん中辺りに差し掛かろうとしたところで、途端、『落ちた』。背中がなにかにぶつかって崩れる音がした。いや……落ちたのではない。


「あ、れ……?」


 なんで俺、倒れてるんだ?


 足から力が抜けて冬吾は床に崩れ落ちたのだ。身体に力が入らない。急速に意識が霞がかっていく。なぜだか、ひどく眠たかった。


 黒い闇が視界を覆っていって……やがて、真っ暗になった。

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