第44話:宿業

44、


「――縛鬼伏邪百鬼消除……邪鬼呑之如粉砕……急々如律令」


 厳かに、保憲が詠唱を紡ぐ声が流れる。右手で印を刻み、突き出した左手の掌には術符が張り付いている。その手は樹神の背へ当てられ、淡い光を灯しながら、術の呪力を伝えていた。

 術を施されている樹神は、術の効果を受けるためか、背中を大きくはだけさせている。辛うじて胸は隠しているが、上半身の半ばまでを露わにした格好は、彼女の美しさもあって思わず目を奪われそうになるほど魅力的だった。

 そんな姿に気をやることなく、保憲は粛々と文言を唱える。


 やがて、彼の連ねていた言葉が終わった。

 その瞬間、強張っていた樹神の表情から力みが抜け、ほっと安堵するような色が映る。

 保憲が施していたのは封鬼の術式、鬼を人にするという呪文である。かなりの高等技術、また秘中の術であるため、彼らの周りの近くには人の姿はない。皆遠巻きにいるのみで、その施術の様子を晴明や満仲たちはじっと見守っていた。

 そんな彼らも、術が施し終えたのを察し、保憲に視線を送る。

 そんな周りの視線に、保憲は晴明たちを横目で見て顎を引いた後、樹神に目を戻す。


「……これで大丈夫だ。樹神殿、気分はいかがか?」


 保憲が訊ねると、それに対して樹神は首肯した。


「ありがとうございます。おかげで、人を喰らいたいという衝動はなくなりました」

「それはよかった」


 樹神の返事に、保憲は微笑む。

 それを感じ取りながら、樹神は服装を正す。はだけていた背中を隠すと、その目を伏せ、何やらひそやかな決意を目に灯して、だがそれをすぐに消して保憲に振り返る。


「保憲殿。一つ、お願いしたいことが」

「ん? なんです?」

「満仲殿から太刀を、いえ、小刀でいいので一本、お借り願いたいのですが」


 そのような彼女の申し出に、保憲は怪訝そうな顔をする。何に使うのか、というのは、誰だって感じるところであった。

 だが、彼は深く追及するようなことはしない。すぐに、視線をこちらへ歩み寄ってくる晴明や満仲たちに向ける。


「満仲殿。小刀を一振り、樹神殿にお貸し願えますか?」

「ん……あぁ、いいぞ」


 特に嫌がることなく、二つ返事で満仲は了承する。そして、樹神のすぐ傍らまで自ら進み出ると、脇差のような小刀を彼女に直接手渡す。

 一体何をする気なのか、それに周囲が注目していた。

 鞘から小刀を抜いた樹神は、しばらくその刃に視線を注いだ後、やがてその刃の向きを変える。

 そして、やおらに自分の胸へ突き立てようとした。


「おっと。何をしようとしてるんだ?」


 彼女が胸を自ら突き刺そうとした直前、その寸前で満仲が、がしっと樹神の手を握る。強い握力によって握られた樹神の手は微動だに出来ず、刃の切っ先が彼女の胸を貫くことはない。が、その行為に晴明などはぎょっとし、慌てて樹神へ駆け寄ってくる。


「こ、樹神殿⁈」

「樹神様⁈ 何を――」

「止めないでください、満仲殿。これは、私のけじめなのです」


 晴明や梨花の声を無視し、樹神は満仲を見上げて手をほどいてくれるように懇願する。

 だが、そう言われたからと言って満仲は手を離さない。


「ほう? 何がどうけじめになるわけだ?」

「……私は、今回の件で迷惑をかけました。多くの人を争わせ、死にかけさせ、また私自身も、大切な人間を殺しかけました。今回は、満仲殿や晴明殿たちに助けられて事なきを得ましたが、発端はすべて、私がいたからです」


 言いながら、樹神は頬を歪めて表情を険しくしていく。


「ですから、私が死ぬことで、今回の件のようなことが二度と起こらぬようにする必要があるのです。今回はよくても、また同じことが起こるかもしれない。その可能性の芽を、摘む必要があるのです」

「違う! そんなの違うよ、樹神様!」


 滔々と紡がれる樹神の主張を聞いて、梨花が思わず口を挟んだ。


「今までのことは、樹神様が悪いわけじゃない! 全部、樹神様を利用しようとした頬白っていう道士が悪いんだよ? 樹神様のせいじゃまったくない!」

「いいえ、そんなことないわ。確かに私は利用されただけなのかもしれない。ただ、利用しようとする人間が、あるいは私の力を使って何かしようとする人間が、まだ他にもいるかもしれない。そんな人間に利用されないためには、私自身が死んでおく必要があるの」


 言い返す樹神の目には、強い決意の色が灯っている。その輝きは、彼女を思い留めさせようとした梨花が思わずたじろいでしまうほど強く、梨花が躊躇う中で、樹神は続ける。


「今回は良くても、またいずれ同じ事が起こるかもしれない。だから私は――」

「それは逃げですよ、樹神殿」


 樹神の主張を聞いていて、今度口を挟んだのは晴明だった。彼は歩み寄りながら、目を向ける樹神に視線を合わせる。


「樹神殿、貴女が鬼――元・鬼であることは変わらない事実です。それは間違いありませんね?」

「えぇ、そうです。ですから――」

「それは、貴女が背負うべき宿業しゅくごうというものです。これから生きていく上で、背負っていかねばならぬごうです」


 珍しく、彼にしてはそうないことだが、晴明は言葉を遮る。何やら言いたいことがあるようだ、というのは周囲も感じ取り、保憲たちは晴明と樹神を交互に見比べた。


「宿業というのは、人生において常に付きまといます。それはおおよそ苦しいもの・悲しいものであり、しかしなかなか引き離すことは出来ない重荷です。ですが、それ自体が背負い主そのものを罪と結びつけるものでもありません」


 胸に手を当てながら、晴明は言う。


「俺の場合で言えば、生まれた家が貧しいから朝廷社会では出世が難しいというのが、その宿業です。けれど、それ自体が罪悪であるわけではないです。赤の他人から見えれば、それは分かるでしょう? 樹神殿が抱えている宿業というのも、貴方自身からみれば罪科に当たるかもしれません。ですが、我々からすればそうではないんです」


 晴明の語る論に、樹神は少し奇妙か怪訝に思ったのか、目を瞬かせる。だが、口を挟まずにいると、晴明は続ける。


「貴方が鬼であったことと、それゆえに他の人間に迷惑や被害を被ることは、必ずとも符合するものではないんです。今回の件は、それがたまたま重なっただけにすぎません。貴方が鬼神であった過去が事を呼んだわけでは、決してない」

「それは……そんなこと……」

「それに何より、貴女は己の宿業と戦った。そして今回、見事に打ち勝ってみせた。違いますか?」


 これまた珍しく、諭すように問い質しながら、晴明は力強く言葉をつく。

 その説得に、樹神は戸惑い出していた。晴明の論理に、彼女は何故か言い返すことは出来ない。


「かつて人食いの鬼であり、その衝動が再び頬白という悪人に唆された。しかし貴女は負けなかった。その衝動に耐え、人であることを証明しようとみせた。そして証明してみせた。それは、俺たちもしっかりこの目で見届けましたよ?」

「でも、それは晴明殿たちが助けてくれたからで――」

「手助けはしました。しかし、己の宿業に勝ったのは貴女に他なりません」


 はっきりと、晴明は樹神に言う。ここで退いてはいけない、ということは晴明も強く自覚していた。だからこそ、彼は断言して彼女の考えを否定しにかかる。


「せっかく勝った……だというのに、ここで己に負けたと思ってはいけない。負けたと思って、『人生』を投げ出してはいけない。それは、手助けした俺たちからすれば、もっともしてほしくない行為です」

「……ッ」


 息を呑みながら、言葉も呑む。

 初めは奇怪に思えた晴明の論理だが、事ここに到って線となって繋がり、理解できるようになってきていた。

 彼の論を理解し、黙り込む樹神に、晴明は最後の詰めを行なう。


「何よりも、ここにはそんな貴女の宿業を理解した上で、それでも一緒にいたいと思ってくれる人がいるじゃないですか。梨花殿、そうですよね?」

「うん! 私は、樹神殿に死んでほしくないし、ずっと一緒にいていたいです」


 晴明が梨花を見て問うと、迷うことなく梨花は頷く。先ほどまで少し戸惑い気味だった梨花だが、晴明の言葉を受けて勢いを取り戻した様子で樹神を見る。


「だから樹神様、そんなに自分を責めないで。悪いのは樹神様じゃないし、私たちも誰だって、迷惑を掛けられたなんて思っていないよ」


 そう言うと、梨花は樹神に歩み寄っていく。彼女の言葉に、樹神は目を揺らす。そこには、明らかな戸惑いがあった。

 晴明は言う。


「樹神殿。貴方が一番に大切にしなければならないのは、これからも生きていこうという意思です。死んで責任を取るなど、そんな謝罪の行為は些細なことですらない。一番重要視すべきは、貴女自身がどうしたいかなんです」

「私、自身が?」


 晴明は頷く。

 それを見て、樹神は視線を上下させて、近寄ってきた梨花を見る。そんな彼女に、梨花は背中ら抱きついた。それに少し驚く樹神に、梨花は言う。


「樹神様、大丈夫。樹神様は死ななくていい。そうやって責を取る必要なんてないんだよ。だから、私たちと一緒に帰ろう?」


 柔らかい、その言葉の破壊力たるや――樹神は握っていた小刀から手を離す。取りこぼされたその小刀を、満仲が拾い鞘に戻す。


「私は、私を許していいのでしょうか?」


 消え入るような小さな声で、樹神は訊ねる。


「私は、私が鬼であり、それゆえに起こした事態を、許してよいのでしょうか? 生きたい、と願っても許されるのでしょうか?」

「当たり前でしょ!」


 樹神の、少し幼稚ともいえる問いに、梨花は笑顔で頷く。

 それを見て、樹神は目を見開いて瞳を揺らす。


「樹神様が化け物だといったところで、私は樹神様を見る目を変えたりはしない。他の皆も同じだよ。晴明殿や満仲殿たちだっておんなじよ。ね?」

「あぁ、そうだな」


 梨花が確認すると、満仲と晴明は頷く。


「生きたいと言うならば、それを支持します。自分をもう一度信じて、人として生きていいのですよ、樹神殿」


 晴明が微笑を刻みながら言う。

 そんな彼の同意の言葉を聞きながら、樹神はそっとその瞳から雫を垂らす。


「そうか……私は、生きてもよいのですね……」

「勿論です」

「……よかった。本当に、本当によかった……」


 安心したように、心から胸を撫で下ろしたように、樹神は安堵の息をつく。それに伴うように涙を流しながら、彼女は背中から自分を抱きしめてくれる梨花の腕を掴む。

 その言葉と表情を見て、晴明も安堵する。内心は不安だったが、樹神が死を思い留まってくれたようで、彼も彼なりにほっとしていた。

 そんな中、である。


「しかし、晴明。お前、格好つけるならもっと大きく出たらよかったな」

「は? 何が?」


 不意に言われ胡乱がる晴明に、満仲がにやりとする。


「そこは、『これからは俺が守る』だとか、『俺が貴女を支えてみせる』とか言うべきところじゃないか? なんかそこのところ、誤魔化ごまかしてないか?」

「……悪いが、今の俺ではそんなことまで責任を取れない。そういう立場じゃないし」


 憮然として、晴明が満仲の揶揄に顔を背ける。そのからかわれ方、また冗談の内容に、彼は少なからず不満だった。

 だが、満仲はそんなつれない晴明の態度にめげたりしない。


「なんだよ、男らしくねぇな。それぐらいの大法螺吹いてみろよ、甲斐性なしめ」

「お前、他人事だと思って滅茶苦茶言っているだろ?」


 むっとして、晴明は言い返す。それに対する反応は――口笛。顔を背けて天を見上げながらそれを吹く彼に、晴明はありったけの苛立ちをこめて睨みつける。

 そんな二人のやりとりに、樹神は泣きながら笑う。彼女からすれば、晴明と満仲のやりとりは微笑ましく、いつも通りで愉快なものだったのだろう。

 彼女の笑顔に、それを横目にした晴明は、まぁこれも悪くないかと思った。

 それだけ、樹神の笑顔の綺麗さはいつもと変わらない、樹神にしか出来ない美しい笑顔だったから。

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