第42話:鬼との激突・前編

42、


 沸騰した茶瓶の口から漏れるような、湯気のような白い呼気を、巨大な鬼は噴き漏らしている。黒光りしている鉄のような肌は、筋肉が大いに盛り上がり、腕の太さは華奢な女性の胴部ほど、両脚は数百年の年月を重ねた大樹ほどもあった。口の端からは牙が剥き出し、鋭く血走りさせた双眸もあって、容貌はひどく恐ろしくおぞましい迫力がある。


「覚悟はいいな、貴様ら」


 巨鬼――それと化した頬白は、そう言って辺りを見回す。ギロリと鋭く威圧的な視線に、検非違使たちは怯えるように、満仲配下の武者たちは緊張の面持ちで、それぞれ一歩後ろへ退く。

 そんな大多数の反応に、頬白は内心満足しつつも、それをおくびに出さない怒りの形相で、続ける。


「俺をここまで追い詰めたんだ。貴様らは全員、皆殺しだ」


 そのように言うと、頬白は両手をぶらりと下げ、体勢を下げて前傾姿勢を取る。いつでも周りの人間に飛びかかれるだろう体勢に、周囲の緊迫感が更に増す。


「全員八つ裂きに引き裂いて、その死肉を平らげてやろう。安心して、俺に喰われろ」

「元々鬼だった、というわけではなさそうだな」


 今にも、地面を蹴って襲い掛かりそうな体勢の頬白の前へ、満仲が進み出る。検非違使たちの背後から進んで出てきた彼は、幾らか緊張を弛緩させ、しかし決して隙を見せることなく、先陣に打って出ていた。


「さっき呪符を飲み込んだのを見るに、満季らの矢を受けて瀕死になった上で囲まれたから、人の身を捨てて鬼になった、と見るべきか?」

「そうですね。出来れば転生などしたくはなかった……と言っていましたし、あれは人の身体を解脱して、鬼へと転生する術符に違いないと思います」


 満仲の推測に、背後にいた保憲が首肯して解説する。

 そのやりとりに、頬白は威嚇するようにギロリと目を向けるが、それに躊躇や逡巡しゅんじゅん、あるいは焦りや怯えを満仲は全く見せなかった。


「つまり、この黒鬼は転生して間もない――赤子の鬼ということか。勝機なら充分あるな。よし」


 そう判断を口にすると、満仲は周囲を見回す。


「各自、この鬼に対して距離を置け。しかし包囲は解くな。遠巻きに囲んだ状態で、敵の脱走に備えよ。この鬼の相手は、俺と満季、それに道士たちが請け負う――動けるな、晴明・道満」


 太刀を肩で担ぎながら、満仲は指示を飛ばす。

 彼の声を受け、背後で立ち上がり、また満仲に近づく気配が二つあった。

 そのうちの一人、晴明が口を開く。


「樹神殿と、山吹殿の身の安全は?」

「保憲殿、にお願いしたい。貴方なら、二人同時に守ることも可能でしょう?」

「えぇ。お任せください。守りは、得手ですので」


 満仲の言葉を受け、保憲は顎を引く。

 それを見ると、満仲は鬼・頬白へと正対した。


「と、いうわけだ。俺たちが相手するから覚悟しろ、鬼畜生」

「ほう。たった四人で俺に挑むと?」


 相手側の言葉からその陣容を察し、頬白は目を細めて口の端を獰猛に歪める。


「何とも命知らずであり、俺を舐めているな。たった四人で、俺を抑えられるなど過信に等しい。それに俺が、そんな貴様らの望みを聞くとでも――」


 頬白が、満仲に怒りをぶつけようとしたその刹那――この場で唯一、頬白の背後に陣取っていた満季が動いた。

 彼は地面を蹴るも激しい音は立てず、神風のような鋭さと苛烈さで頬白の背後に迫り、その気配を察して振り返ろうとした頬白へと飛びかかる。抜き身の太刀を振り上げた満季は、それを頬白に飛びつきながら振り下ろし、頬白の背中をズバンっと切り裂いた。


「ぐっ! 貴様ぁ!」


 背筋に一条の傷を走らせ、そこから血飛沫をあげた頬白は、振り返りざま裏拳を満季に放る。それに対し、満季は頬白の身を蹴るようにして後方へ跳躍、眼前で頬白に拳を薙がせながら、距離を置いて着地した。

 両者の間合いが開くと、頬白は怒り眼で満季を睨む。


「貴様、よくも背中を――」

「卑怯、とでも言いたいのか?」


 満季へ罵詈雑言を飛ばそうとしただろう頬白だが、その時彼はすぐ近くで声が放たれたのをみて振り返る。そこでは、満仲が頬白の懐、足下の間合いまで近づいていた。


「悪いが、これは殺し合いだ。命のやりとりでは、卑怯なんて言葉は存在しない。油断や隙を見せた側の負けだ。まして貴様は鬼畜生――正々堂々戦うつもりはハナからねぇよ」


 嘲笑混じりに言う満仲に、頬白は振り返りつつ拳を横殴りに放つ。轟ッと音を立てて迫る拳に、満仲は身を沈めながら前進、拳を掻い潜り頬白との距離を零にする。そしてその動きの流れに逆らわず、抜き身の太刀を掬い上げるようにして振り上げた。軌道としてはそれだが、その速度は目にも止まらぬ超速である。頬白にとっては死角の位置から放たれた斬撃は、見事にその腹部から胸部を裂き、その剣圧で頬白を後ろへよろめかせた。

 斬撃を浴びせられた頬白は、小さく呻きつつも踏みとどまり、そして満仲の位置を目視するや、尖った爪を縦に振り下ろす。たかが爪、といってもその鋭さは刃に等しい。掠っただけでも危険であろう凶爪の肉迫には、流石に満仲も受け止めるのは危険と判断、後方へ滑るように引き下がった。


 頬白の攻撃から満仲が退き、今度は再び満季が迫る。

 入れ替わるように距離を詰めた満季は、体勢を低くしながら頬白の足めがけて横薙ぎを叩きこんだ。低く鋭い斬撃は、後ろ向きになっていた頬白の腱をズバッと掻き切り、血飛沫と共に頬白の態勢をぐらりと揺るがす。呻き声と共に足踏みした頬白は、膝を折りながらも後方へ振り返ると、その動作と同時に裏拳を振り抜く。迫った拳に、満季は攻撃後すぐに回避行動に移っていたため軽々と回避、豪風で服をはためかせながら、頬白の腕の射程範囲から離脱した。

 前後から責めたてる源の兄弟――これまでの攻防から鑑みれば、今度は満仲の番だ。

 それは、攻撃を受けている頬白も理解していたのか、彼は満季への攻撃が不発に終わった時点で満仲の方へ振り向いた。そして、もし攻撃を仕掛けて来たならば返り討ちにしてくれるとばかりに、右腕を大きく振り上げていた。

 そこへ迫ったのは、満仲ではない。

 飛んできたのは、一羽の青い小鳥と、円盤のように回転する木札だった。


「オン!」

カツ!」


 二つの裂帛の気勢が吐かれた刹那、青い小鳥と木札は変化する。小鳥はその身を稲妻に、木札は発火して炎の奔流と化し、頬白の胸と腹部に襲い掛かる。二つの閃光は頬白にぶち当たり、その身を鋭く貫いた。

 鬼の絶叫が、辺りに響く。

 強烈な一矢、現代でいえば弾丸のようにその身を穿った二つの閃光は、頬白に痛烈な威力を発揮する。満仲と満季が軽々と斬撃で引き裂いたためにやわく映るが、実際の頬白の身体の硬度は石にほど近い硬度があった。それをやすやすと穿つほどの術の呪力に、頬白の身体には深刻な痛みを与える。

 ぐらりと身体を傾けた頬白は、なんとか左腕でその身を支えて転倒を避ける。

 だが、その衝撃で彼は三つの刀傷と二つの風穴から血飛沫を上げ、血煙をその周囲に漂わせた。人間であれば、すでに重体に陥っているだろう血の量に、戦いを見つめる検非違使や樹神たちに梨花等は息を呑む。


 戦況は、開戦から瞬く間に晴明や満仲たちの優勢となっている。すでに頬白は多大な傷を負っており、このまま追い詰めれば倒すのも容易い、そう思われた。

 だが、晴明たちはそう簡単に戦いが終わるとは思っていない。鬼、という敵は常にこちらの想定を上回ってくるもの――そう認識している彼らは、まだ頬白という鬼がその潜在能力を出し切っているとは思っていなかった。

 その推察は、当たって欲しくはなかったが、的中する。


「貴様らぁぁああ! よくも、よくもぉぉおお!」


 口腔から血を吐き出しながら叫んだ頬白はその手を敗れた衣服の懐へと突っ込む。そしてそこから、複数の術符を取り出した。

 それを見て、追撃に移りかけていた満仲が足を止める。


「ほう。鬼の分際で術符を使う気か?」

「黙れぇぇええ! 死ねぇぇええっ!」


 もはや語彙力を失った鬼は、そう叫ぶと術符を投擲してくる。迸った術符は満仲へ迫り、途中で発火し、炎の矢となって満仲へ迫った。

 襲い掛かる炎の奔流に、満仲は一息吐き出してから、眼前でその炎を叩き切る。目にも止まらぬ速さの斬撃は、炎の流れを引き裂いて左右に弾き飛ばし、自身の主へと炎が直行するのを食い止めた。


「危ねぇな。鬼は鬼らしくその不細工な身体を振り回していろよ」


 髭面にそう皮肉げな笑みを浮かべ、しかし目は油断なく光らせながら満仲は言う。言葉ほど楽観視していないのだろう、満仲は警戒の色を双眸に浮かべていた。

 鬼の脅威的な身体能力に、術符による攻撃手段が加わるというのはなおのこと脅威である。普通の道士ならば、術を使い辛い懐へと近づけば脆いという認識が通るが、鬼はそうはいかない。

 更に、加えて言えば鬼の脅威は身体能力の高さだけでなく、その耐久性にもある。

 実際に、


「満仲。その鬼の傷、気づいているか?」

「ん? あぁ、そうだな」


 晴明の問いかけに、満仲は頷く。

 頬白は、その身にいくつかの傷を受けていた。受けていた筈だが、その傷口では少しずつ流血が止まり、また薄らいでいくのが目視でも確認できた。再生しているのである。人間では到底ありえない速度で、鬼は傷を癒すものだ。その例に漏れず、頬白の傷も徐々に塞がりつつあった。


「長引けば、不利になるのはこちらのようだな」

「あぁ。あれはただの鬼と思わない方がいい。耐久力の異常な、道士とでも思った方がいいぞ」


 満仲のぼやきに晴明が応じると、「そうだな」と満仲は頷く。

 そうやりとりを交える中で、頬白は立ち上がった。足に受けた傷は大方癒えたのか、今度は自分から仕掛けようという構えだ。

 それを見て、正面側に立つ満仲・晴明・道満は身構える。

 彼らの構えを見て、頬白は口の端からまたも血混じりの湯気を漏らし、地面を蹴った。

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