第40話:口戦
40、
頬白へ迫り、樹神と山吹を救い出そうにも、容易には動けない状況であると晴明たちは判断する。今の所、自分たちに対する頬白には余裕こそあれ油断や隙はない。距離は充分に離れており、仕掛けるには少なからず時間を要する。彼がどのような攻撃手段を持っているか分からない状況下で、今の段階では動くことは出来なかった。
行動に移れないことに、晴明などが小さく唸る中、頬白当人は彼らから身体を背けることなく、樹神へと目を向ける。
「それで、鬼神殿。そろそろ食べる気にはなりましたか?」
彼のその言葉を受け、その場の注目が彼らから樹神へ移る。そこでは、樹神がかなり大きな変化を見せていた。
軽く項垂れた彼女は、その口から大量の涎を流していたのである。まるで、食事を前にして我慢させられている幼児のように、あるいは獲物を目前とした獣のように、かなりみっともなくも映る姿だ。
だが、ただ品のないわけではない。彼女は、その状態で口元を歪め、目つきを鋭くして、微かにその身を震わせていた。
先ほどからの一連の会話で、彼女は一度も口を挟まなかった。助けてとも来るなとも言わなかった。それは、言わなかったではなく、言えなかったのだ。彼女はその身に襲い掛かる食欲という衝動を抑えることに必死で、口を挟める余念はなかったのである。
「……ぐ、ぐぅ……っ!」
「貴女も強情ですね。私が人化の封印を解いてなお、食人だけは拒みますか」
耐える樹神に、頬白はやや呆れた様子で言う。彼にしてみれば、鬼の癖に人を喰う事を拒もうとする樹神のことが理解出来なかったのだろう。
そんな樹神は、先ほどから瞳を揺らしている。一瞬その光彩を赤く輝かせ、しかしすぐに黒いものへと戻す。おそらく、人としての彼女と、鬼としての彼女が気持ちを揺らしているのだと思われた。
「耐えても苦しいだけですよ? とっとと、お食べ」
「……べ、たくない。食べたく、ないっ!」
甘い囁きに、樹神はその誘いを拒むように首を振る。身体を震わせながら言うその姿は、相当の衝動がこみ上げてくる中で、それでもこらえているのだと推測できた。
「絶対に、食べない……! 私は、私は……!」
「そうですか。ではこうしましょうか」
頑なにひたすらに、横たわる山吹を喰うことを耐える樹神に、やおら頬白は提案する。
「もし貴女が、私が十数えるうちに食べる気を見せなかったら、この娘はもう殺してしまいましょう。それが嫌なら、この娘を食べて下さい」
「ッ⁈」
目を見開き、樹神は頬白を見る。その視線に、頬白はニコッと笑った。
それは鬼のような、滅茶苦茶といえる提案であった。どちらにしても山吹を殺すが、それが樹神の牙か頬白の手か、どちらがいいかというだけのものだ。
まったくもって無理な提案で、どちらも選べるわけがない――はずなのだが、しかし暴れている本能を知性で必死に抑えている樹神には、それに対して正常に判断できるか分からない。現に彼女は、ひどく混乱した様子で表情を狼狽させていた。
そんな二人のやりとりを見ていられなくなったのか、晴明は動こうとする。袖から出した術符を握り直すと、彼は前進しようと体重を移しかける。
「動くな晴明、それに道満。あと少しで整う。俺が時間を稼ぐから、信じろ」
動きに入ろうとした晴明を押し留めたのは、満仲の囁きだ。
頬白には聞こえない程度の彼の声に、晴明は軽い驚きを浮かべ、一方で道満は小さく舌を打つ。どうやら焦る晴明と同じように、道満も動こうとしたようだが、二人は揃って満仲のその一言で行動を縫いつけられた。
二人が視線だけ向ける中で、満仲は真顔で顎を引いた後、一歩踏み出す。
「おいおい。随分馬鹿らしい提案をしてくれるじゃねぇか」
先の声とは一転、満仲は声を張って話しかける。話しかける相手は、頬白だ。
「どっちにしても人質を殺す気満々か。そんなことしてお前、自分がただで済むと思っているのか?」
そう言って、満仲は振り向く頬白に不敵に笑いかける。そして、手にしている太刀の切っ先を、彼に向けた。
「その時は、その瞬間にこちらが総攻撃をかけるぜ? それでもいいのか?」
「ふふっ。どうぞご自由に。もしこの娘を殺すことになった場合は、鬼神殿に別の贄を用意させますので」
満仲の脅迫に、しかし頬白は余裕を崩さない。その程度の脅しなどどうとでも思っていない、かのような言葉であった。
「いえ、用意する必要もありませんね。出来たら生きた人間の肉の方が、新鮮で美味しいものだと思いましたが、別に死肉でも人間の肉に変わりはありませんからね」
「山吹殿を殺した上で、その肉を樹神殿に喰わせると?」
目を細めて、満仲が問う。
それに対し、頬白は肩を揺らした。
「それも手ですが、そうですねぇ……襲ってきた貴方がたを殺して、それを喰わせるというのも手ですね」
「ほう。まるで、俺たちを簡単に返り討ちに出来るかのような物言いだな」
相手の言い様を聞いて、満仲は笑みを浮かべる。それは、楽しげな笑みではなく獰猛な笑みであった。憤りを抑えて、代わりに自信を漲らせた表情である。
「あまり舐めるなよ、在野の道士風情が。ここにいるのは、精鋭だ。俺自身は京で指折りの武人だと自負しているし、他にいるのは京随一の陰陽師に、その弟子とさらにそれと同等の道士だ。選りすぐった検非違使もいる。お前如きが、一人でどうにかできる布陣じゃない」
「ははっ。随分自分たちの力に自信があるようですね。しかし、それは過信ではないのですかね?」
「君に言われたくないな。そこまで強く言われた以上、私も黙ってはいられないな」
頬白の言い様に、黙っていられなかったのか保憲が進み出る。挑発と侮蔑が癪に障ったかのように、彼はその目をやや鋭くしていた。
そんな彼の珍しい態度に、晴明は軽い驚きを覚える。だが、すぐにそれも時間稼ぎだと理解した。
「君、確か頬白といったな。どこの出だ。全国の著名な同士の名は、私も幾らか聞き及んでいるが、君のような男の名は聞いたことがない」
「教えるつもりはないですよ。それに、別にそう名を謳っているわけではありませんので」
「なんだ。偉そうな口を叩きつつ、結局は無名なのか。井の中の蛙ってことか」
嘲笑うように言うと、満仲は太刀を肩で担ぐ。
何気ないその動作に、しかし晴明と道満は横目でそれを見た後、頬白へ目を戻す。密かに、足裏に爆発力を込める。
「確かに
「自らを鷹、ねぇ。そこまで言い切るなら仕方ねぇ……」
そう言って、満仲は大袈裟な動作で太刀を肩から振り下ろした。
「見せて貰おうじゃねぇか。そこまで言い切る、お前の自信のほどを」
「ふふっ。盛り上がりのところ悪いですが、こちらにはまだ人質――」
頬白が満仲の言葉に、返答を言おうとしたちょうどその時である。
ズドッ、と。
妙に小気味の良い音が、辺りに響く。
静かにだが耳朶を打ったその音に、頬白は視線を下げる。音の出元は、彼の胸から背中にかけてだ。
そこには――一本の矢が彼の背から胸を貫通していた。
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