第27話:桂川

27、


 中空を飛ぶ小鳥の案内の元、晴明と季国はどんどん進んでいく。小鳥が飛ぶのは京の西方面、右京の方角だ。住宅地から畑なども広がる一帯を通りながら、彼らはその先を進んでいた。

 だが、最初は張り切り気味というべきか、強張りを見せていた二人の顔が、徐々に進む中で不安の翳を落とし始める。理由は、進んでも進んでも小鳥が西へ西へと飛び続けるためだ。このままでは京を出てしまうのではという不審が、少しずつ二人の中に浮かび始める。

 その不安は、的中する。二人は小鳥の案内に従った結果、右京の果てにある河川・桂川まで到達してしまった。京の西を流れ、その下流は摂津国せっつのくに(現在の大阪府)から湾まで伸びるその川に、二人は着く。

 ここに到り、晴明と季国は顔を合わせる。小鳥は、猶も西へ飛ぼうとしていた。


「まだ、樹神殿の居場所までは着きませぬか?」


 流石に心の裡で不安を隠し切ることが出来なくなったのか、季国が晴明に尋ねる。樹神が京の中から出たという可能性を考えなくもなかったが、式神が見つけた以上、一応は京の中にいるのではという先入観があった。

 それに、晴明は応える。


「今一度、式神を飛ばしてみます。探索が誤りであったとは思いませんが、もしかしたら移動しているかもしれませんので」


 そう言うと、晴明は別の式神を出し、京の内側へ飛ばす。小鳥が飛んでいくのを見送り、晴明は再び季国と目を合わせる。


「少し、この辺りを探してみましょう。見つけたのは、ここより西のようですが」

「では手分けして探しますか?」

「そうですね。その方がよいかと……」


 晴明は頷く。それは、特段おかしな判断ではない。二人並んで探すより、分かれて探した方が探索範囲は広がるし、見つける可能性は高まるはずだ。

 そう示し合せると、二人は分かれる。そして互いに樹神を探し始め――ようとしたところで、季国が、急に晴明の方へ戻ってきた。すぐに並んできた相手に、晴明は不審そうに眉根を寄せる。


「? どうしました?」

「よく考えたら、手分けして探すのには問題がありました。安倍殿は、一応我らが身を預かっていることになっております。もしもここで検非違使に見つかったら、いろいろと面倒な事態に発展しかねません」


 愛嬌のある壮年の面に困った色を浮かべる季国にそう指摘され、晴明も思い出す。

 そういえば、晴明は今満仲によって一応監視下にある身であった。もしそんな彼が一人で歩いているのを、京を巡察中の検非違使に見つけられた時には、厄介なことになる。晴明自身にも、また満仲の信用にもかかわることだ。

 この事を思い出し、晴明は思わず苦笑した。


「では、一緒に探しましょう。二手に分かれなくても――」


 探すことには変わりない、とでも言いかけた晴明は、その時素早く空を見上げる。そこには、晴明たちを先に案内していた式神の小鳥がいる。その小鳥が今、空をぐるぐると旋回していた。

 その動きを見て、晴明は目の色を変えた。

 またその表情の変化に、季国は敏く気づく。


「どうしました?」

「どうやら樹神殿が近くにいるようです。もしかしたらすぐそこに……」


 答えながら視線を周囲に馳せた晴明は、そこではたと気づく。脇を流れる桂川の上流方向、晴明たちから川の流れを隔てた向こう側に、人影が生じていた。それは、ここから徐々に離れるように早足で進みながら背を向けている。


「っ! 樹神殿!」


 気づいた晴明は声を張る。

 髪の艶、雰囲気、小ぶりな身体など、その後ろ姿を見ただけで晴明は正体を悟った。

 大声で呼びかけた晴明に、相手は反応を示さない。少しずつここを離れるように進んでいくその影に、晴明は駆け出した。


「樹神殿!」


 もう一度声を張って呼びかける。それでも、反応はない。背を向けたまま、彼女は慌てるわけではないがするすると北へと進んでいく。

 その背を見据えていた晴明は、そこでふと気づく。よく見ると彼女の向こう側に、小走りにこの場を遠ざかろうとする影がもう一つあった。それは小柄の少女のもので、その後ろ姿から晴明はすぐにその正体を推察する。彼女は樹神や梨花の仲間・杏ではないかと彼は思った。


 そう考える中で、しかし晴明は不審を強める。何故だか、様子がおかしい。二人は今行方不明になっているはず――ということもそうだが、彼女たちは親しい仲のはずだ。それがどうして、片方が慌てたように走り、もう片方が滑るように追いかけているのだろうか、と。

 まるで少女が女から逃げているような状況に、晴明は思考の端を困惑させた。

 胡乱がる晴明だったが、その横を並走する季国があることに気づき、目を剥く。


「安倍殿! 樹神殿が手に刃物を持っております!」


 そう声を掛けられ、晴明も気づく。樹神と思わしき女性の手には、一振りの包丁が握られている。しかも、それは何故か赤く輝いていた。未だ冷静な思考であった二人はすぐにそれが血ではないかと思い当り、咄嗟に理性を否定させる。ありえない。血で濡れた包丁を片手にして少女を追いかけているなど、まるで――


 そんなことに思い当たる二人の眼前で、逃げていた少女が足をもつれさせて転倒する。その彼女へ、女は滑るように歩み寄る。

 混乱する一方で、事ここに到り晴明は確信する。間違いなく、女は少女を追い詰めようとしている、と。

 そんな思考を晴明が巡らす中、転倒した少女は振り返って尻餅をつきながら後ずさる。振り向いた顔は、やはり杏であった。彼女はその顔を青ざめ、追ってくる女を見上げる。そして、何やら叫び声を上げた。晴明たちの許まで、はっきりとは聞き取れなかったが、何やら金切り声で言葉を発す。脅えているようで、また恐怖に満ちた声であった。


 尋常ではないその二人に、晴明たちはようやく二名の対岸まで到達する。二者の横顔が見える位置まで来て、晴明は息を吸う。


「樹神殿!」


 都合三度目の呼びかけ――それにようやく、女は反応した。少女に歩み寄る足を止めぬままこちらを振り向いた顔立ちは、やはり樹神だった。

 その顔に、思わぬところで晴明と再会した驚きはない。

 代わりに浮かんでいた表情に、晴明はぞっとする。


 晴明の知る限り、樹神はいつも温和で心安らぐような柔らかい表情を浮かべる女性であった。そこが魅力的であり、彼女の美しさを際立たせていた感がある。

 だが、今の彼女はどうだろう。その顔からはいかなる感情もが排斥され、ただ冷ややかな、あらゆるものを拒むような、無感情な能面のような表情が待ち受けていた。

 その鋭さ、あるいは違う意味での美しさに晴明が胆を冷やす中、樹神は彼から杏へ向き直る。まるで、一度確認する以上に興味はないと言った様子だ。

 そんな彼女に対し、杏も対岸の晴明たちに気づいたようである。


「た、助けて!」


 目に涙を浮かべ、裾が膝元まではだけるはしたない格好になっているのにも構わず、彼女は救いを請う声を上げる。その声はまさに必死の叫びで、かなり状況が切迫しているのを証明していた。


「理由は分かりませんが、どうやら彼女が樹神殿に襲われているようです」

「くそ! 何が起きている⁈」


 季国が冷静に状況を解説する中、晴明は混乱しつつも川へ向かおうとする。対岸にいる彼女たちに最短距離で向かおうと、彼は川を渡ろうとする。

 だが、それを季国が止める。


「安倍殿、無茶です! よく川を見て! 上流で大雨でも降ったか、かなり増水している! 徒歩で渡るのは危険です!」


 そう指摘しつつ、季国は晴明の腕を掴む。

 言葉通り、現在の桂川は増水していた。深さはおよそ大人の男の腰ほどであり、一見渡れなくないように見えるが、川には急な流れというものがある。急いで渡ろうとすれば、水圧に押されて流されるのはすぐに分かった。


「っ! 橋は!」

「これより更に北です。迂回するしか……」


 舌を打ち、晴明は川の水面を睨む。

 陰陽道の術には、川の上を歩くのを可能にする術もあるが、しかしそれはきちんとした装備があって初めて可能になるものだ。今の手持ちでは、川を渡るのは不可能であった。


「杏殿。逃げて! もう少しだけ逃げ切ってくれ!」


 仕方なくそう叫ぶと、晴明たちは北に向かって駆け出す。そこで杏は表情を凍らせたが、それを見る余裕は晴明たちにはなかった。彼らは一目散に、北の端に向かって駆け出していた。

 それを見送ると、樹神は杏を見る。その無感情な視線に、杏は気づいて顔を上げる。


「こ、樹神様……」


 わなわなと震えながら、杏は相手の名を呼ぶ。そこには、すぐに助けが来ない事への焦燥が混じっていた。


「どうしてっ? 一体どうしてしまったの?」

「………………」


 信じられないと言った様子の杏に、樹神は無言であった。そして冷たい目で、杏を見下ろす。そこには、普段彼女たちに向けていた時の温かみは欠片もなかった。

 するりと、樹神は杏へ歩み寄る。

 血で濡れた包丁を斜陽に煌めかせ、後ずさる杏の目前へ迫った。


「ごめんなさい、杏」


 ぽつりと、そう溢した樹神は包丁を振りかぶる。まるで見せつけるかのように高々と上げられたそれは、ぎらりと凶悪な紅の輝きを増させながら杏へ狙いを絞る。

 そんな相手へ、杏子は表情を凍らせる。彼女にはその瞬間、樹神が薄ら笑ったように見えた。


 その時。


 杏の後方から飛燕のように素早く宙を裂いた何かが、樹神の手にしていた包丁を弾き飛ばした。キン、と音を立てた包丁は、くるくると回転しながら桂川の水面へと舞って落ちた。

 包丁が弾かれたことに、杏子は一瞬唖然とするが、弾かれた側の樹神は慌てることなく視線を移す。静かにソレが飛んできた方向、杏の背後の方面へと樹神は視線を送る。

 晴明が駆けつけた、かに思いかけたが違う。彼らはまだ北の橋に到達してすらおらず、到達までまだ時間が掛かる。

 現れたのは、別の人物だ。


「――ようやく尻尾を見せたな、鬼女め」


 そう言いながら、彼は鋭い眼光をぎらつかせる。凶悪な人相であるが、この場では決して悪人じみてはいない。

 現れたのは、黒い装束に身を包み、鋭利な双眸を更に際立たせた男――蘆屋道満であった。

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