サイコ2
それは想像していたのと大した違いは無い姿をしている。背は高く痩せていて、頭から靴まで黒一色、陰欝な雰囲気を醸し出しながら、少し先を歩いている。しかし異様な早足で。
駆け寄ってきた後輩に、顔は見たかと訊くが見ていないと言う。気付くと先を歩いていたのだと。これは思ったより使えない奴かも知れない。しかし今は、女の尾行を優先すべきだ。
「いくら尾けたって」溜息を交えつつ「あの人は何処にも行かないんですよ」後輩が漏らす。
その言葉通りに女はただ摺り足で進むだけだ。空は橙に染まる七時十分。女は歩道を歩き続ける。確かに立ち止まらずに、しかしそれはどうやら信号を避けて歩いているようにも見える。そうしてただ同じ道を巡っているのだ。
「おい」
「はい」
「お前はこのまま尾行しろ。逆回りに行けば女の顔くらいは拝めそうだ。違う道を行ったら連絡してくれ」
そうして自分は来た道を辿るように走る。
後輩からの連絡は無いし、こうしていればいつか鉢合わせるはずだ、それも女のあの異様な早足からすればもう直に。思いながら例の妙な病院が望める角を曲がると、前方にあの黒い女と、その後ろを尾ける後輩が見える。女は摺り足で真直ぐにこちらに向かってくる。顔を覗き込もうとするが魔女は俯いているらしい。少し屈むとあと少しのところで「あ」という声が聞こえ女は踵を返すが後方には後輩がいる。女は立ち止まり、俯いたまま震えるように発声する、「何の真似ですか」と。
「あの、貴方が、その」
話し掛けられないのだと言っていたはずの後輩が口を開いた。
「学校で噂になっていまして……」
女は俯いたままでいるが、長い髪の隙間から僅かに横顔が窺える。真っ黒の髪と白い肌のコントラスト。細い顎、痩けた頬……。
「私が何かご迷惑を?」
「いえ、あの」
後輩は口籠もる。助けを求めるようにこちらを見てくる。
「言い方は悪いですが、最近になって不審者がうろついていると噂になっていて、貴方のことですが、沢山の人間が貴方を見かけているが僕は貴方を知らなかったんです。話を聞けば聞くほど魅力的に思えてきて、そこの奴は貴方に惚れているし、二人でどんな人なのか見てこようということになったんですよ」
そう言うと後輩はまた狼狽える。女は顔を上げてこちらを見る。眉を潜めているが美人だ。美人だが痩せすぎている。
女はその細い指で珈琲の缶を開けるのに苦戦している。取り上げてタブを起こすと金属の擦れる音がする。時刻は八時五十分。場所は高校の近くの神社の境内。黒く細い靴先は二つ揃って砂利に埋まっている。
女は後輩のした質問に答える。
「私はサイコと申します。ヒール靴で歩く練習をしていました。毎日練習しているけれど、巧く歩けません。」
機械的に話すが、女は、サイコは、表情を和らげている。
「その靴は?」
「はたちの誕生日に頂いた物です。」
後輩の表情はサイコよりも和らいでいる。いや、弛みきっている。
しかしサイコって女は、名前も妙だがヒールで歩いたこともなければ缶ジュースに触ったこともないとは、一体どんなお嬢さんなんだか。
「お家はあの辺りなんですか?」
後輩はでれでれだ。猿みたいな顔になっている。
「はい…お家というか、生まれた時からA病院内の施設で暮らしています。生まれも育ちもこの町なんです。」
「A病院?」
A病院は夕方に忍び込んだ廃墟さながらのあの病院のことだ。幾重にも目隠しをされた中で、世間知らずと言うか浮き世離れしていると言うか、そうしたサイコが育ったのだろうか。
彼女は今はたち。あの方針に従うのならば急患か紹介により院内に入り、生まれたその時からとすれば二十年、あの病院に関わっているはずだ。彼女は何か知っているだろうか。
考えている内にも、骨の抜けた後輩と黒い服のサイコは取り留めのないやりとりを続けている。サイコは後輩の言動によってか、ときたまくすくすと笑っている。訊けば答えるだろうか。
空は随分と暗くなってきた。口元に両の手をやってころころと笑うサイコに、隙を見て話し掛ける。
「A病院のことですが、貴方に会う少し前に、あの病院を尋ねて門前払いになったのですが」
サイコは黙り、そしてこちらを見つめる。痩せた顔の中で浮き彫られたように大きく開いた瞳は強く存在感を持っていて、その目で見つめられて何故だかぎくりとしてしまう。
「急患と紹介しか受けないと言われまして、帰るようにと…」
聞きながらサイコは瞬きし、身の竦みを見透かしたかのように発声を強くする。
「貴方は、病院に何か用がお有りなのかしら?」
特に用がある訳ではないが、あの佇まいと警備員の言葉、それにサイコみたいなのが育った場所だろう、気になるのが人ってものだ。
考えていると、横から後輩が口を出す。
「サイコさんはあの病院で暮らしているんですよね、今日もそこから外出したんですか?」
「はい」
「出掛ける時に先輩を見なかったんですか?」
そうだ、あの時、出口である正面玄関と正門は見えていたが誰も通らなかった。使えない奴だと思ったが、後輩がサイコを発見した状況を曖昧に報告したのは彼の無能に責があるわけではなく、例えば彼女は本当に突然現われたのかもしれない。どこからか。
「…本当は」
サイコは視線を落し、その先では黒い靴先が砂利を弄んでいる。
「本当は、私たちは外に出てはいけないの」
靴先が砂利に埋まり、爪先が砂利を掘り返して小石を弾き、また埋まり、
「けれど、私は見つけてしまったの、誰にも知られない道を」
靴底が砂利の上をざらざらと音を立てて滑り、二つの靴先は再び行儀よく並ぶ。
「ねぇ、あの病院に興味がお有りなの?」
彼女の横顔は唇の端だけ、笑っているように見えた。この女が呪文を唱えたなら、今ここでだって魔法は起こるのかもしれない。そんな馬鹿なことを思った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます