トーン

絆アップル

耳鳴り

 ドン、という音が鼓膜を震わせるより早く腹に響いた、それから一歩遅れて耳に届いた。それぐらい感覚的に時差があった。バリバリ、ギャリギャリというエレキギターの音は率直に鼓膜に煩わしく響いた、それより五月蝿く感じたのはボーカルの声で割れたマイクの音だった。PAがどうとかドラムの音が糞だった、とか帰りにボヤいている人の声が難聴になった耳にぼやけて聴こえた。その辺のことはよく分からないと思いながらライブハウスを出て駅に向かって歩いて電車に乗って家に帰ってベッドに潜りこんで寝た。


 僕が理十さんに出会ったのは大学の教室でだった。地学の講義で広い教室に生徒はまばら。ピンマイクを付けた教授がぼそぼそと喋る活断層がどうのとか言う話に退屈して、なんとなく教室の中を見渡していたときだった。栗色のボブカットの女性が目についた。僕の知らない女性だった。緑色のチェックシャツを着て中の白いTシャツがちょっと見えているその人はスマートフォンにずっと指を当てていた。

 ゲームをしているのかメッセージのやりとりをしているのか分からない。とにかくずっと講義を聴いていなかった。講義をまともに聴いていないのは僕もだったけど理十さんは教科書さえ机の上に出していなかった。僕は知らない女の子がいるなあ、というだけで退屈しのぎに女性を眺め続けるようなそんな男ではない、と自負するけれどその時はなぜか理十さんから目が離せなかった。彼女の栗色のボブカットと指先をずっと見ていた。


「いとうりと」

「いとうり…?」

 僕が名前を聞き返したとき理十さんはごそごそと紺色のリュックから何かを取り出し、それは食品を冷凍保存するためのジップのついた袋で、それを開けるとたくさん入っていた小さな紙の一枚を取り出してこちらへ渡した。伊藤理十と書かれていた。名刺だった。

「このアドレスは?」

「サイトのアドレス」

「サイト?」

「雑貨を売ってるの」

「雑貨屋さんなの?」

「屋さんっていうか…ハンドメイドのものを売ったり、写真に撮って公開したりそういうの」

「すごい、売るって通販で?」

「通販もあるけどイベントでも」

「イベント」

「即売会」

 ソクバイカイ。聴き慣れない単語に僕が黙ってしまっていると理十さんは手をくるくるさせながら、広い会場に出展するサークルがいくつもあってハンドメイドや発注して作ったものや色々なものを売るイベントがあるのだということを教えてくれた。

 理十さんの手は「サークル」でくるっと一回転し、「ハンドメイド」で両手をくるくるとさせ、「イベント」でぴったりと両の手の平を合わせた。

「へえ。うちの大学にそんなサークルあったかな」

「だからそのサークルじゃなくって」

 理十さんの云うサークルを理解するまでの間に僕は理十さんが同じ大学じゃないことも知った。じゃあなんであの日も先週も今日も地学の講義に来ているんだろう。僕は聴こうとしたけれどなんだか聴きづらくって言葉を飲み込んだ。

「何しに来てるの?」

「暇つぶし」

「雑貨を作るのは忙しくないの?」

「うーん、じゃあ息抜き」


 「じゃあ」という言うときに理十さんはまた両手をぴったりと合わせた。これは理十さんの癖らしい。

 僕は自動販売機で買ったカップのコーヒーの残りを飲んだ。理十さんはレモンの炭酸ジュースを一口飲んだ。この寒い季節に理十さんは冷たいジュースの入った五百ミリリットルペットボトルを平気な顔で全部飲む。寒いとは一言も言わない。この食堂があったかいせいもあるだろうけれど体は冷えると思うのに。

 僕が初めて理十さんを教室で見かけた次の週に同じ講義にまた同じ席に理十さんが現れたので僕は講義が終わるのを待ってから思い切って話しかけてみた。教科書無いなら貸しましょうか、と言ったと思う。理十さんはスマートフォンからゆっくりと顔を上げて僕の顔をゆっくりと見上げてそれからゆっくりとした声で「取ってないから」と言った。


「裁縫が得意なの?」

「服とかはまだ作ったことないけれど小物なら」

 理十さんの趣味はどうやら大学に入った頃からのものらしい。理十さんはまだ二年生なのでつい最近ということになる。新しい学校に新しい趣味。いいなあ若いってって僕は思ってしまった。僕だって大して歳は変わらないのに。

「でもびっくりした」

「何が」

「誰かに話しかけられるなんて思ってなかったから」

「あー…俺は結構誰にでもなんか、いや誰にでもってわけじゃないけど、すんなりというか」

「へえ、藤堂くんはコミュ力高いんだね」

 フジドウ、と理十さんが発音する度に僕は変な気持ちになった。その声はフジドウと発音するのに慣れていなくて初めて言葉を覚えた子どもの声のように聞こえた。さえずり方を覚えた鳥の声のように聞こえた。みんなは何気なく「フジドー」と僕のことを呼ぶけれど理十さんが言うと「フジドウ」と聞こえた。一音一音確かめるように。もし理十さんが僕のことを下の名前で呼んだら、「元」と呼んだらそれは「ゲn」といつもみんながローマ字の打ちかけ見たいに呼ぶのとは違って「ゲン」と聞こえるんだろうなと思った。

 ハンドメイド、ソクバイカイ、フジドウ…。

「藤堂くん」

「はい」

「そろそろ帰るね」

「うん、気を付けて」

 理十さんは毎週地学の講義に来て九十分間スマートフォンをいじって僕と食堂で一時間くらい話して夕方五時半になったら帰った。バイトがあるらしい。僕は次の講義も取っているからそれからしばらく食堂でひとりで暇を潰した。彼女の手がくるくると回る様子やぴったりと合う様子や「フジドウくん」と発音する声を思い出しながら。

「なんで」

 僕はつい独り言を口に出してしまっていた。なんで理十さんは息抜きに地学の講義を聞きにきて、それから僕と一時間も喋ってバイトに間に合うギリギリの時間で帰るんだろう。地学が好きなのかもしれない。全然聴いてないけれど。それはまだいい、なんだっていい、わかる。でもそれから僕とお茶をする理由はなんだ。これでもう三回目だし僕は集まりを強いた覚えはないし、そもそも今日は誘ってすらいない。なんとなく僕がいつもどおりカップの自動販売機の飲み物を買っていると理十さんもジュースを買ったのだ。ガコン、という音がして栗色のボブカットが下を向くのが見えて理十さんがジュースを買ったんだなと分かった。そのまま帰るのかと思ったら理十さんは食堂に向かって歩いて行ったし一度僕の方を振り返って「あっちの席でいい?」と聞いたのだ。

「なんで」

 知らないことだらけだった。ソクバイカイがどんな場所なのかも僕には分からないし理十さんについても謎が多いし、それから理十さんは僕についてほとんど知らなかった。僕に興味がないのかもしれない。それならそれでいい。だけど理十さんは僕とお茶をしてから帰る。ギリギリのバスに乗ってこの寒い中バイトに向かう。栗色のボブカットの下に赤いマフラーを巻いて口元を隠している。スマートフォンをコートのポケットに突っ込んで両手をポケットに突っ込んで廊下を歩いて去っていく。その後ろ姿は小動物みたいな歩き方じゃなくてかなりしっかりとした歩き方だった。存在がそこにしっかりとはっきりあって「伊藤です」と言わんばかりに歩いていく。みんな理十さんのことは知らない。振り返りもしない。でも理十さんは堂々と歩いていく。そして僕には理十さんだけ切り取ったように見えた。あとのものは全部こんにゃくか寒天だった。

 

 僕が自分のスマートフォンで時間を確かめるとそろそろ次の講義の十分前だった。そういえば僕は理十さんの連絡先を知らないな、と思った。理十さんのハンドメイド雑貨サイトは知っている。そこからブログも見つけた。でもそれだけだった。

 今週の日曜日に理十さんの参加するフリマイベントがあるらしい。そこに行ってみようかなと思う。行ったら理十さんはどんな顔をするだろうか。会場は女性だらけなんだろうか、理十さんはどんな風にその場にいるだろうか。やっぱり「伊藤です」という顔をして堂々とそこに立っているだろうか。

 僕を見て何と言うだろうか。


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トーン 絆アップル @yajo_gekihan

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