37


 九条は、ただ一人駆けていた。

 永遠の夕暮れの中で、果てしなく広がる向日葵の野辺。

 真か偽か。二重写しの世界の中で、定かならぬ風が黄色い幻影の内を裂いていく。


《ノイン、思考迷路だ。村に投影していたホログラフィーが全部、このヒマワリのテクスチャに変わっている》


 ムニンが遠く空より、左肩へと降りてくる。


《ノイン! こっちは大丈夫、村の人も目を醒ましたよ。猪原さんが処置してる》


 フギンが端末から姿を現し、右肩に止まる。

 二羽の鴉を従え、九条は無限に咲き続ける太陽を見通した。

 開かぬ左目。偽りの陽が入り込む余地はなく。


「上松、上松祐。これ以上は無意味だ」


 九条は歩き、左右に伸びる花を踏み越えていく。


「そんなにも守りたかったのか? この國を。探ろうとするライターや、真実を知っている技師を殺してまで――」

「アイツらは死んで然るべきだ!」


 問いかけに対し、空気をつんざいて上擦った声が聞こえた。村に仕掛けられた音響装置を通しての声であった。


「あの藤崎という男は言うまでもないが、馬淵もまた、あのAIの持つ可能性と、神託の尊さを理解しなかった!」


 九条は立ち止まり、周囲を見回す。一向に上松の姿は見えない。


「そんなにも尊いかね」

「当たり前だ。あれを作った馬淵は、人間としては到底理解できなかったが、実に良い技術者だった」


 自嘲めいた声が響く。


「あのAIは、もう少しで完全なるAIとなる所だった。単なる管理AIではなく、人間を理解し、神託というシステムを用い、社会の存続を選んだ。どのような管理AIも突破できなかったチューリングテストを、信仰という側面で補強して突破する。信仰は人間を機械化させ、機械を人間化させる。あれはまさしく、人間に迫る完全な知性を持とうとしていたのだ」


 微かな祈りにも似た、恍惚に近い調子で言い遂げた。


「アンタ、神託の、御詞の正体を知っているのか?」


 その言葉に対し、全方向から響く声は僅かな沈黙を持った。


「正体など」


 やがて返って来た言葉は、どこか諦念を感じさせるもの。


「あれが何故、あんな少女の姿を取っているのかも、理解はしているんだろうな」

「知らん、知りたくも無い。どうせ馬淵の趣味だろう。しかし、あれが自然発生的に人々に与えた神託は――」

「何が神託だよ」


 九条の足元にルーン文字が広がっていく。高度に暗号化されたプログラム。

 ちりちり、と空気を痺れさせるように向日葵の像が揺れていく。画像パターンの高速度での変化による、視覚野への攻撃。視界の補正を行っていなければ、その場で嘔吐し、やがて筋肉の痙攣を引き起こすだろう。上松が組んだ、最後の罠。


「お前らなぞ来なければ良かった。そうすれば今でも、この國は仕合せだったのだ。ああ、これは罰だ。お前はそのままそこで、思考迷路に迷って脳廃にでもなれ。俺はまた別の、似たような場所でAIの神性を再現してみせる」


 AIの神性か。

 九条の周囲に広がるルーン文字が、向日葵畑の中を一直線となって伸びていった。


《トレース完了。対象のルートを検出》


 厳かな老人の声。

 九条は答えず小さく手を払うようにすると、次の瞬間、地表のルーン文字が形を変え、巨大な槍の姿を取る。


 それは、劫、と空を破り。

 自然の音ではなく、細かなエラー音がコンマに満たない一瞬で再生と停止を繰り返したもの。このひまわりの國という世界が上げた、断末魔の悲鳴だった。向日葵のテクスチャは破れ、元の村の風景に立ち返った一条の道が現れる。


「一つだけ、あのAIに嘘を吐いたんだよ」


 九条は悠々と、出来上がった道を歩き出す。

 その歩みの先、禿げ上がった向日葵の中で固まる上松の姿。


「僕は確かに神を信じちゃいないが、いない訳じゃない」


 九条の背後に、膨大な量の画像化されたルーン文字が像を結ぶ。

 隻眼異貌、揺らめく影に伸びた白髪を纏わせ、画像化された記号によって体躯が表現される。それは槍を構えた巨大な人間の姿。


 ――オーディン、とだけ告げると、それは手にしていた槍を中空に向け、次の一瞬には無数の鴉の姿となって空中に飛び立っていく。残されたルーン文字が雨のように、周囲の欠けたテクスチャと結合していく。


「お前、何が目的だ」


 ようやく言葉を発した上松は、不気味なものを見るように視線を九条に這わせる。


「お役所仕事だよ」


 言いつつ、九条は上着のポケットに捻じ込んでいたそれを取り出し、上松の方に投げて寄越す。

 それは一冊の、小さな手帳だった。


「ああ?」と、上松は訳も分からぬ風に呻いて、足元に落ちた手帳に目を遣る。さすがに即座に開く真似はしない。


「開いてみると良い。別にトラップなんて仕掛けてない」


 石で打たれた山犬のような、怯え憎んだ表情を浮かべる上松。電子的な装飾が施されていないと解り、その手帳を取ってパラパラと捲る。そこにあるのは意味すら散逸した、文章とも言えない言葉の羅列。


「これは……」

「神託の原典だよ」


 上松は九条の言葉に一度は顔をしかめ、直後、何かに思い至ったか驚愕の表情を見せる。


「よく読んでみると良い。あの管理AIがさえずっていた神託とやらの、オリジナルがそこにある」


 ――私の聲は届かなくて。

 ――未だ何も知らぬ幼子のように。


 上松が諳んじている。

 彼自身、AIがフォーラム参加者を管理する為に、言語プールから自然に選んでいたと思い込んでいた詞。その数々、その全てが、微妙な差異を伴いながら、この小さな手帳に書き連ねられている。


 ――おはよう、セカイ。昨日までのワタシ、さよなら。

 ――ねえ、君はどこにいるの。探してる。

 ――何もかも厭になった。逃げだしたくて。ひたすら。


「なんだ、これはッ!」

「だから詩だよ。ただの詩。自己愛の激しい子供が、誰しも抱く全能感と焦燥感に塗れた時期。その時の自分を表現した言葉の数々だ」


「そうではない、なぜ、これが神託にッ!」

「だから――そもそもが神託なんかじゃないんだよ」


 上松の目が見開かれる。死に瀕した猛禽類の、苦渋に満ちた顔。


「馬淵が個人的に神のように崇拝していた、ホシミ@社会不適合者なんて名前の、女子学生の、ごく狭い界隈では人気の、まぁアイドルの成りそこないみたいのが居る。知ってたか?」


 この時の沈黙は、避けられ難い否定となる。


「そいつはな、多感な少女としてはありがちだが、自分で書いた詩をスープ上のフォーラムで朗読していた。ちなみに今は残っていないよ。スープ上の情報は全て残されるが、唯一の例外は権利者から削除要請があった場合だ。この詩もまた同様に、少女が大人になるに連れて、恥ずかしい過去へと変わり、スープからホシミ@社会不適合者という名前ごと姿を消した。それと共に、少女は自殺したものという噂が流れ、さらなる神格化が行われた。少女に心酔していた馬淵は、よっぽど入れ込んでたんだろう、自分の作ったAIのプログラムに、その詩を混ぜたんだよ。神の言葉が、失われてしまわないように」


 ――最初の狂信だ。

 その正体までは気付かず、上松はそれを新しい狂信の材料にした。上書きされ続けた信仰は、元の姿を失って、言葉だけが空虚に残った。


「運が良かったのか悪かったのか、管理AIの内部情報として暗号化され、閉鎖的な環境にあった詩は、スープ上では検索しても現れない。だから詩を書いた当人も及び知らず、削除の要請を出すことができないでいた」


 九条がポケットを探り、煙草を取り出すと口に咥えた。


「会いに行ったよ。その少女、馬淵にとっての神、そして教祖様とやらのオリジナル、美星さんにね。今では普通の女子大生。散々晒してきた過去を捨てて、普通に就職活動をしたい、だからとにかく、スープ上に残っている自分の痕跡は何一つ残しておきたくない……そうだ。だから未だに一部で詩が朗読されていると言ったら、血相を変えて消してくれと懇願された」


 煙草に火を灯す。

 捏造つくられた夕映えに紫煙が立ち昇って行く。


「その手帳も好きに処分してくれってさ。記念に貰っておいたらどうかな、上松導師」



 呵々、と。

 嗤笑が溢れる。周囲の向日葵の全てが、そしり笑うように揺れている。

 紙が千切れる音がした。



 間も無く、原典から作られた國テクステリアに夜が来る。






 外に出て直視した風景に許子は絶句する。


 いつまでも続くと信じられた夕方が、天上の方からゆっくりと夜に食まれている。

 太陽の花は枯れ落ちて、黒ずみ萎れた姿のまま、次々と姿を消していく。癒えぬ傷を覆い隠してきた、疫病えやみに侵された二ツ山村の夜が、露わになっていく。


 どこからか、甲高い笑い声が聞こえてくる。太鼓と鉦の音が、寄り添うように聞こえたかと思ったが、次の合間には全て掻き消えていた。


「これでええ」


 許子の後ろから、沈痛な面持ちで孝蔵が現れた。車椅子を押す妻も、何か全てを赦したような、強く、それでいて脆い、本当の意味で老いを受け入れたものとなっていた。


 言葉を返す事も出来ず、不安に駆られた許子は九条の姿を探す。

 遠く、夜の中で小さく火が灯り、九条の顔が浮かんだ。

 声を掛けようと思ったが、そのあまりの遠さに許子は足が竦んだ。何もかもが遠かった。


 煙草の灯りが蛍火のように、二ツ山村を移ろっていく。



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