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許子は時計をちらりと確認する。午後七時半。役所に残っているのは自分だけ。そろそろ用務員が、のらりくらりと点検に来る頃だろう。許子は背もたれに寄りかかり、身体をグッと伸ばす。
「少し休憩を取ろうか? 長丁場になりそうだ」
「いいですよ。みなし残業にならなければ」
「手当は考えておくよ」
横に置いた映像端末には九条の姿。東京から戻ってくる新幹線の中。昨日の夜から飛び出して一昼夜、モニタを通して彼の少し疲れた表情が映る。彼も彼で二羽の鴉の復旧に忙しいようだ。フギンとムニン。変な名前だ。
彼自身も変人ではあるが、それなりに心配されていることぐらいはわかる。いくら左遷とはいえ、ここまで機械音痴の部下ではやりにくいことこの上ないだろう。早くこの件を終わらせて、少しでも仕事を覚えなければならない。
「よし、治ったぞ」
モニタの上部に二羽の鴉が出現する。許子は調べていた記事から視線を上げた。
《ただいま戻って参りましたぁ。フギンです》
《手酷くやられたもんだな、ノイン》
車内を旋回する二羽の鴉。きっとあちらからは役所内を廻っているように見えていることだろう。そういう作り、というか仕様は、何となく掴めてきた。
「記憶デバイスがやられなくてよかったな」
《へへん、造りが違うからね。そんじょそこらのAIと一緒にしてもらっちゃ困るよ》
「そりゃどうも」
仲が良い。ちょっと羨ましかった。
いつものやや不機嫌そうな表情に戻った九条は、咳払いひとつして、許子に語りかける。
「さあ、終わりにしよう。フギンたちも復旧したことだし、もう一度潜ってくれ。遠隔サポートも出来る用意がある」
「え、この時間からですか? 遭難しますよ」
「
オンラインで入り込むのか。未だに勝手がよくわからない。
「私、自慢じゃないですけど、相変わらず苦手ですよ、パソコン」
「指示通りやってくれればいい。どうせ君しか入れないんだし、ヘタに今からアカウントのユーザをいじってバグらせたら目も当てられないからな。決戦と行こうじゃないか、猪原さん」
決戦といわれ、緊張感の出てきた許子。
「フォーラムに直接入るんじゃ、逃げ道を用意しておいた方がいいかもしれない。一階の事務の所の、一般端末から接続してくれ」
二羽の鴉が滑空する。スープ内の自治体管理フォーラムのアーカイブス・ソースコード――説明されたが右から左に抜けていった――を視覚化した空間を飛び回る。HMDを頭に被って、モニタを視ていると、擬似的な浮遊感すら覚える。
ぶよぶよした建物の谷間を、フギンの背中に乗って飛ぶ。
それ自体の内側に壁が入り込んだ、奇妙な楕円形のタワーが、何本も何本も空高く聳え立つ。塔と塔を繋ぐ大小の渡り廊下が、視界を遮るように密集している。床も天上も霞むほどに遠い。存在しないのか。
「クラインの壺で出来た宇宙みたいだと、いつも思うんだ」
「クラインの壺ですか?」
それなら見たことがある。表裏の区別がない、不思議な物体のことだ。現実世界では物理的に再現は出来ない。
「ネットワークの構造に始終を見ることは出来ないさ。海の始まりはどこで、空の終わりがどこか規定できないのと同じように。瞬間毎に産まれていく情報が、交換され、蓄積され、付着していくばかりだ。ピンキリが無いのであれば、ビル群の比喩では解釈しきれない。流石にこの視覚化プログラムを作ったのは僕じゃない。米国の企業だが、これでもかなり無理をしている」
「凄い技術ですね。ゲームの世界に入り込んだみたいな」
「一種のブラウジングだ。ついこの間までは、みんな窓をカチカチとマウスでクリックしてたんだもんな」
それなら学校でやったことはある。特定のサイトまで行きましょう、で躓いたのを思い出して頭を振った。話題を戻そう。
「これは全部フォーラムなんですか?」
そうだね、と呟き、少し間があってHMDのイヤフォンに返事が来る。
「さっきも説明した通り、いまは絞っているが、実際はフォーラムだけじゃない。企業や学校のローカルエリア・ネット。一動画のタブやコメント、ウァーブル内のひとつのつぶやきに対する返事のログ、昨日やり取りしたフレンドとのメール―スープで交わされた、情報の軌跡、そのあらゆるものがここには在る」
「……宇宙ですね」
終わりも、始まりもないモニュメント。それらが複雑に絡み合ってできた宇宙。神の視野からそれを鳥瞰したとき、はじめてそれが
「見えてきたぞ、二ツ山村のフォーラムだ」
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