33
ひとつのクラインの壺に近づく。直ぐ様、傍にアイコンが表示され、切り通しから眺めた村の全景が映る。二ツ山村フォーラム:おらが村ソーシャル。人口や戸数、特産物などの基本的な情報を読み飛ばし、鴉がフォーラムのアイコンをつついた。引き出しをこじ開けたように、飛び出てくる南京錠のグラフィック。鴉は器用に羽根を指のように動かし、付け根のあたりから鍵を取り出して捩じ込んだ。ガチガチと解錠されていく錠。
「花田のアカウントも生きてるな、問題ない。猪原さん、人差し指でモニタに触れてくれ。どうせ指紋認証だろう」
指示通り、指でモニタに触れる許子。ピロン、と可愛いSEが鳴り、引き出しが戻ってアイコンが左右に割れた。
そのときだ。
――音?
耳朶の奥の方から、やんわりと鳴っている音楽。民族音楽のような、語り口調の優しいフレーズ。日本語、なのだろうか。愛がどうとか、星がどうとか。そういえば、ずいぶん前から聴いていたような気もする。
「九条さん、何か流してませんか?」
「流す? 音楽のことか?」
「はい、イヤフォンの後ろの方から聞こえるんですけど。邦楽ですかね」
「邦楽……? ま、まさか!」
その瞬間、割れたアイコンの間からどす黒い
驚愕のあまり端末から飛び退る許子。その折に、HMDを落とす。イヤフォンが外れてしまった。慌てて拾おうとすると、モニタから九条の声。
「待て、猪原! 聴いちゃいけない。乗っ取られるぞ」
「の、乗っ取るって……」
「説明は後だ。端末の電源を切れ!」
だが、間一髪遅かった。眼の前のモニタの線を引っこ抜くも、代わりに市役所内の端末の電源がひとりでに次々と立ち上がっていく。異様な光景に許子は恐怖を感じる。モニタに映るのは。
――狐。
いや、狐とも名状し難い。白い
やがて数十匹もの狐が、役所内の一般端末に次々と映り込んでいく。
「く、九条さん、何ですかこれ!」
「市役所のデータ全体にハッキングをかけられてる! いいから片っ端から電源を落とせ、情報を改竄される!」
フギンとムニンが飛び出し、モニタ内の狐をつついて回る。狐はその腕――数多くの矢印――を伸ばし、次々とフォルダを開き、ファイルを開ける。そうして恐ろしい勢いで端末のデータを書き換えていく。慌てて電源を抜いていくが、コードが絡まってどれがどう繋がっているかわからない。手当たり次第落としていくも、狐は増殖を続け、暴食の限りを尽くす。
《対ウィルス、対スパイウェアファイル参照。マクロ型の亜種みたいだ》
《ノイン、データ上の二ツ山村のD率が急激に下げられてるよ! 塗り替えられてる!》
「市役所で使っているアプリケーションを一時的に格納、作成しているファイルを再生成」
《無理だよ、早すぎる! 次々と変更されていく!》
「当該ファイルの拡張子を変換。既に変えられた物はルートごと破棄しろ!」
《ルートディレクトリ削除。ダメだ、職員アカウント権限で拒否される!》
《人口データファイル変換、フォーラム管理権限領域に侵入。ダメだ、こっちじゃ、村人の総数が減ってくぜ》
《ブート領域にウィルス侵入、市役所内の電源系に障害、外部からの操作を受け付けない!》
許子は完全に翻弄されてしまう。鴉たちも焼け石に水だった。敗色濃厚、そんな言葉が九条の脳裏によぎる。
――連敗してなるものか。
ここで九条の頭の、最も冷静な所が動き始めた。
逆に云えば、これだけのプログラムをほぼラグ・ゼロで送り込んできているのだ。あちらのセキュリティ・ホールも空いているはず。
――ならば虎の子を、喚び出す時だ。
「猪原、抑止課のオフィスに戻れ! デスクの下にあるオレンジの端末を持ち出せ。ヤツはスタンドアロンだから、どれでもいいから接続しろ!」
「わ、わかりました」
オフィスに戻る許子。一望し、妙に目立つオレンジの馬鹿でかい端末を運び出そうとした。あまり使われていない様子だった。側面に指をかけ、力を込める。びくともしない。
「お、重い……」
腰が砕けそうだ。到底持ち上がりそうにない。許子は思わず手を放した。焦りで指に汗が溜まっていた。
「どうしよう、どうしよう……」
《早くしてくれ、持たない!》
《役所のデータも盗まれてるよ! こらぁ、ハッキングは犯罪だぞぉ!》
「どうしよう……わかんないよ……」
震える手で頭を抱え、その場にうずくまる許子。無力感に苛まれ、あまりのパニックから思考が止まる。喉が異常に乾く。奥歯をぎゅっと噛み締める。耳朶に流れ込んでくる音が、次第にシャットダウンされていく――私じゃ何も出来ない。何も。何一つとして。
「ご、ごめんなさい……ごめんなさい」
謝罪のうわ言を呟きながら、耳を塞ぐ許子。せせら笑う狐。羽根を散らす鴉。九条の声。
――その時、天啓が降りてくる。
ひとつだけ。
ひとつだけあった。出来ることが。
許子は飛び起きて、手頃な端末を手に取る。片手でも運べる軽さだった。オレンジの前まで戻ってくるとコードを引っ張って挿し込む。あとは端末を撫で回し、電源と思われるものを押し込み続ける。動いて、動いて! 動いて!
ピッ、と音が鳴り、端末が起動した。ファンが咳き込むように回り始め、頬に熱が当たる。
やった、動いた。
「よくやった、猪原!」
小躍りするのもつかの間、許子は画面に表示されたアイコンに気付く。
尖ったアルファベットに、アンテナのような図形、槍状の武器。冴えたデザインのアイコンだと思った。端末には他に画像もなく、操作できる余地もない。ただアルファベットがゆっくりと槍の周囲を回転している。
「あとは任せろ、狐狩りだ、オーディン」
九条の合図に触発され、役所中の端末が排熱を始めた。オフィスを飛び出し、慌てて一階の事務室に戻ると、狐たちを示す矢印がバラバラと画面内に散っていた。それを追い立てるように、備えられた端末が点灯し、例のアンテナのような図形と槍のアイコンが画面を覆っていく。一つ、二つ。だん、だん、と足踏みのような音を立てて、次々と端末が起動し、その内からスープの世界が零れていく。
市役所のデータを食い破っていた白いカーソル。それらは、今では逃げ惑う狐のように駆け回る。あるいは羽虫の群れ、波。やがて一つのモニタ上に集まった、何十億個もの数のカーソルは、互いに互いを食い合い、その内に処理が追いつかなくなってきたのか一つ一つ掻き消えていく。
そして最後に残ったそれを駆逐するように、図形に囲まれた一本の槍のアイコンが画面上に現れる。
後に残るのは静寂。
嵐が過ぎ去った後の役所は、紙っぺら一枚動いていなかった。予備灯の照る薄暗い事務室には、全てのモニタ――窓際の変光カーテンにすら――に図形と槍を組み合わせたアイコンが映されている。まるで全てが支配されたかのような光景だが、不思議な安心感がある。
騒乱が過ぎ去ったことを実感した許子は、へなへなとその場に崩折れ、助かった、と小さく呟いた。フギンとムニンが、彼女の肩に止まった。
《やっぱりオーディンは凄いや》
どちらの鴉だったか確認しなかったが、その声に促されて、許子もモニタに残された槍のアイコンに目を遣る。その画面上で輝いているのは、アンテナのような図形と踊るアルファベット。
「O、d、i、n?」
許子が呟くのと同じタイミングで、役所のドアが開く。
すくみ上がって飛び跳ねた許子は、その正体を認めて思わず涙目になった。
「く、九条さん……」
遅いわバカ、とは流石に上司には云えなかった。
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