猪原許子は笑う。笑うしかない。


 思えば大学のメディア講義、いや、高校や中学の情報の授業ですでに出遅れていた嫌いはあった。他のどの教科も胸を張れる成績を積み重ねてきたし、今だってメールぐらいなら送れる。その程度のことは自慢にもならないのは熟知しているが。


「はあ……」


 幸せが逃げる。のがさんと右手で空を掴む。その指先に若禿な同期の後頭部。


「ねえ、小野ちゃん」

「えっ、うそ? はやくも、ちゃん付け?」


 昼休み。ぐったりと椅子にもたれ掛かっている許子のもとへ、小野おの慎二しんじは珈琲を片手に小馬鹿にしにきていた。薄くなりつつある髪を触り、オーバーリアクションを取る。彼のおっさん臭さに親密感を覚えている許子がいた。その後ろで、触られていないディスプレイ上をあの憎たらしいキャラクターが泳いでいる。


「まあ、社会人からが勉強っていうじゃん。頑張れよ。そんな難しいソフトじゃないから。むしろ慣れると使い易いぜ」

「ぬぁにが社会人からが勉強、よ」


 カチンときた許子は上体を起こし、端末の電源を探る。滑らかなフォルムにスイッチっぽいものはいくつも見受けられた。闇雲に伸ばした指は九字でも切るかのよう。


「ここね」


 小野は、ぬっと手を出して端末を立ち上げた。

 ディスプレイには相変わらず記号ばかり。すでに頭痛がしてきた。


「そうそう、ここの端末は初期設定がちょっと面食らうよね。プロンプトが剥き出しだったりして……ちょっと貸して」


 数分のレクチャーの後、小野が苦笑いだけを残してデスクへと戻っていく。許子がしかと覚えたのは電源の位置だけであった。またしても許子は、同僚の視線に耐えるばかりの、退屈にして辛苦な時間に戻ってしまった。


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