第7話

 ローファーが床を蹴り、小気味よい音を響かせる。一拍遅れて、二つに結わえられた髪がリズミカルに揺れる。

 右手は胸の前で書類を抱きかかえ、左手は古い映画に出て来る兵隊の行進さながらに大きく振られる。

 無人の通路を闊歩するその様は、まるで決戦を前にした英雄のような凛々しさ……なのだが、本人にはその自覚はほとんどない。なぜなら、彼女は自分の歩き方を気にするほどの余裕を持ち合わせていないからだった。


(二度目の任務……頑張らないと!)


 アスカの初任務から7日、トウカを訪ねてから5日が経っていた。5日間というのは訓練期間としては短いものだったが、指導をしたトウカが言うには「新米にしては上々」くらいの実力は身に付いたらしい。

 そして今日、アスカに二度目の任務が通達された。前回と同様、米良野悠と二人での任務である。

 不安が無いわけではなかったが、今はそれを覆い隠すほどの高揚感がアスカの心を占領していた。

「……よし!」

 空いた左手を握り締めながら、アスカは一人頷く。気合は十分だった。


   ◆   ◆   ◆


「最近調子はどうだ?」

 第四層、かつて研究室の一画だった米良野悠の部屋に、女性の声が響く。それは少し低めで理知的な落ち着きを感じさせる声で、あの声とは逆方向の声だなとユウは思う。

「ああ、これといって異常はない」

 が、そんな考えを表に出す気はない。下手なことを言えば好奇心が尽きるまで詮索されるのは目に見えているからだ。

「まあ数値でも変わりないからそうだろうとは思っていたが。……しかしまあ誰に似たんだか必要最低限しか喋らないよな、お前は」

「あんたが喋りすぎるだけだろ」

 すると、答える声は不意に勢い付いた。

「そりゃあ喋りたくもなるだろう。私は研究者、お前は貴重なサンプル。それでいてお互いに意思疎通が可能ときた。だったら根掘り葉掘り聞きだすのが研究者ってものだろう! あ、そういえばお前のところに配属された新人とやらとはうまくいっているのか?」

「……別にいいだろ」

「お、その反応は無関心を装いながらの軽い拒絶だな? つまりは触れられたくない話題であると!」

「……」

 思わずユウは閉口するが、それでも追及は止まらない。

「ほう、沈黙するか。確かに黙り込まれては私も聞き出しようがない。沈黙は金とはよく言ったものだな。だが、お前がそう出るならこちらにも考えがあるぞ」

 そう言って覗き込んでくる顔から、ユウは慌てて目を逸らす。何を考えているか分からないが、ろくでもないことをしようとしているのは確実だ。

「そうだなぁ、例えば世の中には自白剤というものがあるんだが、お前にはどう作用するんだろうなぁ?」

 覗き込んだ格好からさらに身を乗り出し、もはや半ば覆いかぶさった状態だ。顔は笑っているのに目が冗談には見えない。

「ちょっとだけ、実験してみ――」

 その瞬間、けたたましい音と共にドアが開け放たれた。同時にやる気に満ちあふれた明るい声が飛び込んでくる。

「失礼します! 未熟者ですが、今日も一日どうかよろし……く…………」

 と、声が急に失速していく。見ると、全開にされたドアの前に真っ赤な顔の告天寺明日香が立っていた。その口はパクパクと開閉していて、そんな様子がまるで魚みたいだなと思った直後、

「……し、失礼しましたぁ!! ごめんなさいぃぃ!!」

 悲鳴じみた大声を上げて彼女は走り去っていった。


   ◆   ◆   ◆


「え、っと、そのぉ……」

 定位置となったテーブル前の丸椅子に、アスカは腰掛けていた。そしてその視線は向かいに座るユウ、の隣の人物をチラチラと窺っていた。

「そちらの方は……」

 すると、ソファーにもたれながら立っていた白衣の女性が、眼鏡の奥の狐目を細めて、にやりと笑った。

「ああ、自己紹介がまだだったな。私はここら一帯のラボを取り仕切ってる米良野めらの望深のぞみだ。専門はYS……あー、『黄の海Yellow Sea』に関する研究をしている。まあ適当にドクター米良野とか呼んでくれ」

「そ、そうですか……あ、あの、ちなみにお二人はどういうご関係で?」

「ん? ああ、親子」

「……おやこ?」

 さも当然と放たれたドクター米良野の言葉に、アスカは今更ながら事実に気が付いた。

 ドクター米良野こと米良野望深と米良野悠、二人の名字が同じだということに。

(いや、でも、この年の差で親子とかありえないですって!)

 アスカの心中の叫び通り、ユウはどれだけ無理して若く見積もっても10代後半なのに対し、ドクター米良野は30歳を超えているようにはとても見えない。

(しかもさっきの、あんなの絶対親子の距離感じゃないですし!)

 つい先程見てしまった二人の顔と顔が超接近していたあの光景が、アスカの脳裏に鮮明に蘇る。あんな距離感はアスカの知る限りではただ一つ。そしてさらに名字が一緒ということは、つまりそれは――!


 そんな暴走ぎみの思考の奔流を、ユウの相も変わらず冷静な声がばっさりと断ち切った。

「こいつの話は五割は嘘だ。適当に聞き流した方がいい。それと、俺は元々名字が無かったからこいつから借りてるだけだ。大した関係じゃない」

「あ、そ、そうですか……?」

「おいおい、もう少し冗談に付き合ってくれたっていいじゃないか」

 不満げな女研究者の声を、ユウは淡々と突っぱねる。

「知らん、出ていけ。仕事の邪魔だ」

 ドクター米良野はやれやれと苦笑し、白衣を翻してドアへと歩いていった。


「それじゃ、ごゆっくり」



 バタンとドアが閉まり、二人きりになった室内。元々人気の少ないラボ区画ブロックだからか、会話の途絶えた今聞こえてくるのは、遠くから微かに響いてくる何かの駆動音だけ。

 そんな静寂にも等しい空間に、アスカの声が転がり落ちた。

「あの」

 気付いた時には言葉が出ていた。

 ユウの目がこちらに向き、視線が重なる。訳もなく鼓動が早まるのを感じつつ、しかしアスカはその目を見つめ返して、口を開いた。

「もう一度、一緒に戦わせてください」

 アスカが腹を括って言った言葉には、しかしすぐには返事がなかった。代わりにユウの金色の双眸がひたすらにアスカを見つめてくる。それは磨き上げられた黄金のようで、何を考えているのかがまるで読み取れない不思議な瞳だった。

 そうして見つめ合ったまま何秒かが過ぎたころ、ユウは返事を口にした。

「上からの指示もない以上、やる気があるなら俺からは何も言うことはない」


 あまりにそっけないその台詞が承諾であると気付くのに、さらに数秒。

「え……あ、はい。頑張ります!」

「それで今回の任務だが――」

 そこからさらに数分、作戦会議という名のちぐはぐな会話が二人きりの部屋で繰り広げられた。

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