代理魔王の逆理世界

黄坂 祥

プロローグ

――まずい。


 うつ伏せに倒れた自分の身体から血が流れていることを、春斗は確認する。アスファルトの固い感触を全身で味わいつつ、何が起こったのかを確かめるべく全身に力を籠め、顔を上げる。目に入ったのは、黒い何かに覆われている人影。


 珍しく、というより、単位を求めて二ヶ月ぶりに大学へ行き、レポートを研究室まで届けた。

 たったそれだけだったのだ。なのにどうしてこんなことになってしまったのか。


 熱い――熱い、痛い、熱い、痛い、熱い、痛い、熱い。


 叫び声を上げようと口の開閉を繰り返すが、溢れ出るのは血塊(けっかい)のみ。腹部と口から止め処なく流れ出る血によって声を発することが出来ず、自分の行動が無意味だと判る。唯一機能する視覚すらもぼんやりと霞んでいき、抵抗を止め、自分の今のこの現状をゆっくりと確認していく。


 永近春斗(ながちかはると)は刺された。おそらく、今ニュースで話題になっている通り魔にでも刺されたのだろうか。

自分の人生を振り返る余裕もなく、腹部から流れ出た鮮血がついに全身が浸かるように広がっていく。


――人間ってどれぐらい血が抜けたら死ぬんだっけ。


 いつの日か学校で習った事を思い出しながら、唯一機能する視覚さえも停止するかのように、瞼(まぶた)が鈍器の如く重くなる。〝瞼を閉じてしまったら自分は死ぬ〟――そのことが判っていながらも、抵抗することが出来ず徐々に閉じていく。


 いや、まだ聴覚が生きているようだ。彼の耳元に靴音のようなものが聞こえる。自分を刺した人間だろう。


 人間の死亡率は百パーセントである。これはどうしようと変えられない、いわば世界の『確定事項』と考えるのが妥当だろうか。寿命にしろ、病気にしろ、交通事故にしろ、人間という生き物である間は必ず『死』が訪れる。不老不死などと言うことはありえない。


 そして今、永近春斗にも『死』が訪れようとしている。

 刺された場所とは対称的に、極寒に放り出されたように体温は低下していき、すでに目前に迫った死期を悟らせる。


「……ったく、たいがい、ついてねぇよな、おれ……くそっ、しにたく……ねぇなぁ」


 唯一呟くことができたその言葉すらも誰に届くこともなく、己の人生に後悔することも無く、永近春斗の人生はそこで終了を告げる――。


 誰も居らず、虫がキリキリと鳴く住宅街の一角で、


 長近春斗は命を――



 ――。

 ――――。

 ――――――。


『早く』


 死ぬ間際。

 いや、もしくはすでに絶命している長近春斗の脳内にそんな言葉が囁(ささや)かれる。


『早く来て。愛しの貴方』


 何を言っているのか。

 長近春斗を愛した人間は一人しかいないし、その人はもういない。

 長近春斗が愛した人間は一人しかいないし、その人はもういない。


『――ようこそ。新しい貴方』


 その優美な声音を最後に、長近春斗の生涯は幕を閉じた。

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