このティッシュ、水に流せます

いひとよ

家出

ティッシュ

 今年、中学三年生になる幾田美咲は自分の母親を世界で一番傲慢な女性だと思っていた。親戚や近所の母親達に自分の娘である美咲の成績や優秀さを自慢することを生きがいとし、 自分の理想と美咲の行動が食い違うと定規で腫れあがるまで美咲の頬を叩いた挙げ句、 部屋に監禁して……教育という名の拷問を繰り返す。そんな母親に対して、美咲は絶望しか感じていなかった。

 しかし幾田美咲という人間はそんな状況にありながら泣くことも怒ることもしなかった。”私は母親のアクセサリーで、いつかは使い捨てられるだけのモノだ”と自分に言い聞かせ、辛く苦しい毎日を耐え忍んでいたのである。

 だが、それも長くは続かなかった。


 ある木曜日のこと、なんとなく存在を忘れていてカバンに入れっぱなしになっていた塾のテストを母親に奪われ、なぜ隠したのかと1時間近く叱咤された美咲はとうとう我慢の限界を迎え、母親の暴言から逃げるようにして家を出た。

そう、ついに人生で初めての家出を決意したのだ。

 行くあても目的も……何もかも分からないまま、街灯だけが照らす夜道をたった1人で美咲は歩き、歩き、歩き。普段の彼女なら絶対にしないであろう信号無視を何度かした後、隣町の商店街へとたどり着いた。


 夜の商店街。そこは美咲が思っていたよりも綺麗な場所だった。

飲食店やゲームセンターの看板から色とりどりの光が発せられ、 それを夕方まで降っていた雨でできた水たまりが反射する。その光景は心が枯れ果てた美咲であっても素直に綺麗だと思えるほど美しかった。が、そんな小さな喜びはすぐに雨水と一緒にドブに流れ、美咲はぼんやりと商店街を眺めながらまた歩き始めた。


 すれ違う人々は一瞬心配そうな目を美咲に向けるも、関わりたくないのか目を逸らして自分の道を行く。居酒屋やサラリーマン目当ての客寄せは、視界に入らないようにしながら仕事を続ける。そんな光景を眺めながら、美咲は孤独だなと呟いた。

 誰も声をかけてはくれない、誰も自分を見てくれない。降り注ぐ言葉はほぼ罵倒か陰口。そんな毎日を送ってきたせいで当たり前と思っていた寂しさ。その凍えるような現実にさらされた美咲の心が結露してゆく。だが、当の本人はそれを邪魔だと言わんばかりに振り払った。

「もういいわよ。……今さら考えても何も解決しないし」

 感情なんて今は不要。そう自分に言い聞かせるように美咲は何度も何度も呟いて、さらに歩くペースを速めた。


 自分にこんな華やかな場所は似合わない。早くここから出よう。

自己嫌悪に似た決意を固め、美咲は目の前の水たまりを気まぐれに踏む。

瞬間、後ろから声をかけられた。


「ティッシュ……いかがですか?」

「え?」

 この商店街に来るまで人に声をかけられなかった美咲はその音に硬直する。 しかしすぐにその声の主が商店街でティッシュ配りをしている若者だと気付き、ゆっくりと振り返った。


 そこに居たのはインターネットカフェの宣伝が書かれている制服を身にまとい、必死にポケットティッシュを差し出してくる20代前後の女性。

さっきまで雨が降っていたせいなのか、深くレインコートを被っており、表情を伺うことはできなかったがどうやらティッシュ配りのアルバイトか何からしい。

「御嬢ちゃん、ティッシュ1枚どう?」

 女性はレインコートの中で黒い髪を揺らしながら、もう一度美咲に向かって声をかけて来る。ノルマがあるのかそれとも仕事熱心なのかはともかく、どうしても美咲にポケットティッシュを受け取ってほしいようだ。

「い、いえ……その」

 だがその誘いに美咲は顔をしかめた。

とにかく今は独りにしてほしい、そう表情で訴えようとした。


 ――が、同時にこうも思った。

どうせあと数時間も走り続けていれば心が耐えられなくなって泣いてしまうだろう。

それならみじめに自分の服で涙を拭うよりも、ここでティッシュをもらっておいた方がいいのではないか、と。

「また雨が降りそうだし、持っておいて損はないと思うよ?」

「…………」


 結局、お人好しの美咲は女性に流される形でティッシュを受け取ってしまった。

最終的にもらえる物はもらっておこうという結論に達したのだ。

「……まぁいいか」

 とりあえず美咲はもらったティッシュをポケットに入れ、ティッシュ配りの女性とすれ違うようにして、また夜の商店会をふらふらと歩き出す。 どこに行くのか、どこに行きたいのか。そんなことすら分からない道を、また歩き出す。

 すると、すれ違いざまにティッシュ配りの女性が美咲にこう囁いた。

「あぁ……そのティッシュ十分考えてから使って下さいね」

「……?」

 言っていることがよく理解できなかった美咲は、思わず後ろを振り返る。 しかしそこにはもう女性の姿は無く、代わりに小さな水たまりが地面に張り付いていた。

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