三題噺「白猫」「女の子」「冬」

鹿爪 拓

無題

 風の吹く、冬の夜。一匹のやせた白猫が星の光る寒空の下、とぼとぼと今晩の寝床を探して歩いていた。

「にゃあ」――寒いよう。

 これ以上細くはなれないだろう骨と皮だけの足が、歩くたびに冷えきったアスファルトに当たる。最後に口にしたのは、2日前に女性が道端でくれた、わずかに肉を残しただけの魚の骨だった。その骨を弱った顎の力で噛み砕き、余すところなく全てを胃に入れてからは、水さえも口にしていない。とんでもなく腹が減り、喉も乾いていた。

「みゃあ」――痛いよう。お腹がすいたよう。

 当てのない道を歩き続け、乾燥して硬くなった肉球が何ヵ所もあかぎれていた。一歩一歩と足を前に出すたびに痛む。あまりにも歩きすぎて、まともにバランスを取ることさえできない。何を望んで毎日毎日、フラフラと知らぬ土地からまた次の知らぬ土地へと歩き続けているのか。自分でもわからないまま、ただ今いる場所よりもまともな生活環境を求めて放浪していた。

 道端に一つ、何とか今夜をしのげそうな場所を見つけた。木の板で作られた、まるで自分が遠い昔に暮らしていた人間の家のようなつくりだった。古びた犬小屋である。遠くから見てもわかるほどに屋根には大きな穴があき、木材はささくれるほどに朽ちていたが、底の板はなくなっていない。冷え切った地面に直接うずくまるよりは暖かい。

――よかった、お腹はすいたままだけど、足も痛いけど……これでお日様が出てくるまで死ななそうだし、なにより今日はもう歩かなくてもいいみたい。

 とりあえず寝床を見つけられたことに安心してその穴に近づくと、大きな犬が眠っていた。犬は白猫を嗅ぎつけたか、目を開いた。その目は夜の青い光が反射して緑色に光っている。

 白猫は遠い昔を思い出した。母は鉢合わせた大きな犬に力強く噛みつかれ、遠くに投げられ、子供たちが立ちすくんで動けないでいるのを尻目に犬は母猫を好き放題に弄んだのだ。そして母が死んだと確信してからは、犬は子猫を追いかけ回した。白猫もその毛が赤や黒に染まるほどの大怪我をした。

 この犬はその時の犬だと白猫は思わずにはいられなかった。驚いて毛を逆立て、その直後には無我夢中になって逃げた。どれだけ走っても、耳には犬の吠える声が響いている。どこをどうやって行けばいいのかも理解しないまま、ただひたすらに走り続けた。

――なんで! どうして! どうしてあのわんわんがこんなところに!

 必至に走るといっても、ろくに食べてもいない体は思い通りには動かず、歩いて削れた爪では地面を滑ってしまい、ひびの割れた肉球は何度もアスファルトの上で悲鳴を上げた。走るうちに指先が擦り切れていく痛みが何度も襲うが、恐怖には勝てない。とにかく気の続く限りに走り続けた。

 恐怖に勝てず走り続ければ、乾燥した足は削れ、角を曲がるたびに傷だらけの肉球は踏ん張りに耐え切れず新しいヒビがはいる。そのうちの一度は平衡感覚を失って、運悪くも蓋のない凍った側溝に落ちてしまった。跳びあがり身震いして水を飛ばす暇もなく、また走り出す。

――痛い、痛い、逃げなきゃ、痛い、逃げなきゃ、逃げなきゃ、痛い、逃げなきゃ……


 そうして逃げる先に、暗い夜中をぼんやりと照らしている自動販売機を見つけた。その下にもぐり、小さく丸まって犬が追いかけてこないかをじっと見張っていた。

 やっと襲ってこないことに納得できた頃には、すでに空が白みはじめていた。アスファルトの上にも薄く霜が降り、ところどころ白くなっている。

――もう、こないよね。恐いわんわんは、もう諦めたよね。……よかった。

 安心が眠気を誘ったか、ふと睡魔が襲ってきた。

――だめだよ、この下はすごく冷たいよ。お腹壊すよ。カゼひくよ。足がもっと痛くなるよ。歩いて他の場所を探さなくちゃ。

 朦朧とした頭で、なんとか自分を奮い立たせようとした。それでも今夜はいつものように歩いただけでなく、全力疾走までしてしまった。体の水もふるい落としていない。体力の限界だった。

 結局、自分でもまったくわからないうちに、眠ってしまっていた。


 翌日。

 空が赤みを失うほどに太陽が高くなった頃、気温は小春日和ほどである。おかげで幾分か体温が上がり、白猫はいつもの空腹で眼が覚めた。足だけを地面につけて丸まっていたはずが、知らないうちに足を放り出して寝転がってしまっていたらしい。体の半分が地面に触れて冷たくなっているせいで、起き上がっても感覚が戻るまでに時間がかかった。

 自動販売機の下から這い出ると、誰かが落とした唐揚げがあった。半ば干からびていたが気にせず口に運び、出ない唾液に苦労して飲み込んだ。あかぎれた肉球を舐め、痛みを我慢して汚れを取り除く。乾いていなかった体の水も飛ばした。そして昨夜を生き延びられたことに安堵の声が出た。

「にゃお」――足はやっぱり痛いけど、よかった。カゼはひいてないみたい。ご飯も食べれた。よかった。

 しかし喉が渇いて仕方がない。歩き出して何かないかと探していると、いつもは夜まで凍ったままの民家に置かれたバケツが水を風に揺らせていた。白猫は人が出てこないかあたりを見回しながらゆっくりと近づき、その水を飲んだ。当然、氷が水に溶けたと言っても冬である。どうしようもなく冷たい。それでも喉を潤し、空になった胃をごまかすために必要以上に飲んだ。そして久々に重みを感じる腹に満足を感じ、まだ血のにじむ足先に刺激をできるだけ与えないようにそろそろとまた歩を進めた。

 それからしばらくして、白猫は自分の異変に気が付いた。頭が少しぼんやりとして、腹部はヒクヒクと勝手に痙攣している。

――何これ? ヒクヒク? お腹が……いたい…………痛い! 痛いよ!

 途端、激しい腹痛が襲ってきた。唐揚げよりも、寝相と水で体を冷やしすぎたことが災いしたのだろう。

土のあるところへ急ぎ、いつおさまるともわからない水下痢を流し続けた。そのうち嘔吐も始まった。どれだけ出しても、腹痛も吐き気も全く治まらなかった。脱水症状を起こしたようにもなり、途中からは意識も途切れ途切れになっていた。痛みで気を失い、痛みでまた意識を取り戻す。腹痛は続き、体液の全てを出し切ったのではないかという程の頃になっても収まらない。足にも力が入らなくなり始めた。

 それでも、暖かいうちはどこか日の当たる場所へ行って暖を取らなければならない。いたずらに体力を消耗してしまった今ではなおさらだった。痛みをこらえて立ち上がり、どうなるかも知れない意識の中で、わずかずつ前へ前へ、もう自由のきかなくなった足を運んでいった。

 そんな状態だから、すぐに歩けなくなるのは目に見えてしまっていた。歩くことも順調にはいかず、脇を通るアリに追いこされた。

――痛い、……痛い。お腹も、足も。でも、歩かなきゃ。そうしないと、死んじゃう。

 歩くたびに足が焼かれるようで、喉の奥に残っていた胃液が気管に入って2・3度咳き込んだ。歩かなくても足は震え、立っているだけで力の限り。顔を上げて前を見ることすらやっとのことであった。

――なんかもう、歩けないかも。

 気力も体力も限界だった。開いていた視界は閉じ、足は折れて先に進むことをやめ、道にうずくまった。動こうとしても動けなかった。

――死にたくない。誰か、助けて。……眠い。

 そして、意識がなくなるとき、上から声をかけられたような気がした。


 実際、声はかけられていた。学校へ行こうとしたはいいが、遅刻が確定してのんびり歩いていた女子高生が、普段は通り過ぎる自販機でたまには飲み物でも買おうと思ったとき、足元にポツポツと続く赤黒い血痕を見つけ、あとをつけると白い猫がうずくまっていた。猫が何かを捕まえたのだろうかと思ったその女子高生は、白い猫に声をかけてみた。

「何かつかまえたの?」

 おおかたネズミか小鳥をくわえた姿で振り向かれると思っていたのに、その白い猫は何も反応をしない。どうしたのかと思って自分からその顔を覗き込もうとしたとき、前両足の先が赤い血でまだら模様になっていたのを見てしまった。

「ねえ、もしかしなくても、この血って、そうだよね?」

 猫の両脇に手を差し入れて持ち上げると、驚くほど軽かった。その軽さに彼女は驚いたようだったが、体が暖かいことで死んでいないことを確認すると、気を失ったままの猫を抱き抱え、歩いてきた道を急ぎ足で引き返していった。


 夢を見ていた。

 自分はまだ小さな子供で、母のミルクを満腹になるまで飲み、あふれる幸せと母親の胸の中で眠っている。懐かしい夢だった。母の毛が柔らかい。春の日差しが差し込み、とても暖かかった。そんな夢の中で、不思議なことが起こった。いきなり母が大きな犬になり、自分の背中に噛み付いて宙に投げ飛ばしたのだ。視界が回り、体が前と後ろに引っ張られる。


 夢の衝撃で眼を覚ますと、不思議な場所にいた。自分は今まで味わったことのないほどの柔らかく暖かなクッションの上に横たわっている。空気が春のように暖かい。窓からは傾いた日差しが柔らかく差し込んでいる。クッションから少し離れたところにはミルクのような白い液体が皿に注がれている。しかもその皿の脇には焼かれている肉が置いてあった。

 腹痛は収まっていた。空腹で喉も乾いている自分を何とか皿のもとへ走り出したくなる気持ちを抑えて、おそるおそる歩いてクッションから降りると、足の痛みが多少軽くなっていることに驚いた。

「にゃー、起きた? 拾ったときも思ったけど、やっぱり元気ないねぇ」

 なにやら遠くからしゃがんでいる人間が、自分のほうを見ている。

――なに? あのお肉とかはあげないよ、こっちが先に見つけたんだもん。

「あ、そうか、ご飯は部屋のすみっこにおいておいたほうがよかったか。みたところ、野良だもんね、取られそうで気になっちゃうか。まあ、それでもここから見させてもらうけど。

 あ、そうそう。ミルクは頑張ったんだよー。スキムミルクにちょっと砂糖を足して、人肌に暖めて、って。へぇ、お肉はそうやって大事に遠くまで持っていって食べるんだ。安売りで買った豚バラなんだけど、気に入った? 足の傷もひどいなんてものじゃなかったから大変だったんだよ、血を留めるのにワセリンがいいっていうのは知ってたけど、うちには無かったから代わりにラード溶かして、冷まして、塗って。って」

 なにやら人間が言っているが、全部無視してとにかく食べることに専念していた。久しぶりの、とにかく久しぶりの暖かい食事だった。結局部屋の隅に持っていった肉は最初の一切れだけで、そのあとは全て皿の上で食べた。ミルクは数口を肉を食べる前に飲んだ、温かかった。最後にはどちらの皿もこれでもかと言うくらいに舐めまわした。

「みゃあ」――満腹、久しぶり。生き返った。

 食べ終わると、また別の場所へ行こうとするが、よく見ればこの場所は出口が無い。何もすることが思いつかない。

「おぉ、綺麗に食べたねぇ。じゃあ私はお皿下げて、学校に仮病の連絡でも入れてこなきゃ。もう、久しぶりに学校に行こうとしてたのに、さ」

 そう言って人間は肉とミルクのあった皿を提げて、どこかへと消えていった。

 ふと、少し前まで自分が寝かせられていたクッションを見た。あそこでもう一度くらいは眠っておきたい。またいつ辛い毎日が来るともわからない。

 ゆっくりと踏みしめて上がり、何か覚えのある柔らかさと温かさの中にうずくまった。

――やっぱり。あったかい。ふわふわ。

 睡魔が襲ってくる。人間がいつの間にか戻ってきていた。先ほどよりも近くで自分を見ている。

「みゃあ」――なんだかわからないけど、ありがとう。

 クッションで丸まり、眼を閉じた。

――何だかすごく幸せ。今なら、もしかしたら死んでもいいかも。……おかあさん。

 体がクッションの中へと沈んでいく。

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