流星

鉈音

流星

 初めて見たのはたぶん四歳の時で、その時は頭を噛まれた。


 あの時の私と同じように、怯えて泣いている女の子がいた。獅子に頭を噛んでもらうのは、厄除けだったろうか、とにかく縁起の良いこととされている。

 その光景を微笑ましいと思えるようになれば、私も大人になったと言えるのだろうが、あいにく、私の目には幼児を虐めているようにしか映らない。験担ぎには興味がないのだ。こうして祭りを見ていることにも、懐かしむ以上の気持ちはない。


 大山祇神社は、山と海の神、大山祇神を祀る神社だ。ここに納められている国宝や文化財は合わせて八十を超え、おかげでここ大三島は「国宝の島」として知られている。


 拝殿の前に佇む獅子は、獰猛な獣にはとても見えない。剽軽なあの造形が、しかし幼少の頃には酷く恐ろしかったことを覚えている。

 獅子の前に少年が歩み出て、右手に握った軍配を翳した。すると獅子の方も、姿勢を低くして臨戦態勢に入る。もちろんこれはなのだが──道化の掛け声で、祭り囃子の雰囲気が一変する。

 太鼓は力強く。笛はせわしく。金属質な音を立てているのは、小さなシンバルのような楽器だ。

 獅子が音楽を味方につけ、少年に襲いかかる。しかし少年の方も、小さな体で果敢に受け止め、あっさりと投げ飛ばす。

 暴力的に高まるテンポと金属音、そしてボルテージ。一種呪術的な高まりを見せながら、獅子舞は唐突に終わる。獅子に入っていたのがかつての同級生だとわかって、上手くなったものだなあと感心した。

「あの男の子は獅子止めと言うんだ」

 隣の男性が訳知り顔で言う。私に話しかけているらしかった。

「……山から降りてきた獅子を、彼が調伏する。そして獅子は山へと帰っていく」

 獅子舞の筋書きだ。うろ覚えだが、そんな感じだったはずだ。

 元同級生に声をかけようか迷ったが、今さら知り合いと顔を合わせるのは気がひける。私もそろそろ帰ろう。

「おやおや、教わる側になってしまった。物知りだね」

「以前、をやってましたから」

 もう何年も前の話だ。獅子頭は重いし、布の中は暑いし。もう二度とするつもりはない。

「ほう。この辺に住んでるのかい」

 境内を出ても、男性はついてくる。私の話に興味があるのだろうか。そう身のある話はできないのだけれど。

「帰省しているんです、今は」

 石段のすぐ下の屋台はたい焼き屋だった。暇そうにしているおばさんに、ふたつください、と千円札を手渡す。

「この島が好きかい?」

 それは難しい質問だった。私は答えるかわりに、彼にたい焼きをひとつお裾分けした。

「祭りはいいものです。人々の喜びが、その土地独特の空気と渾然一体となって、目から、耳から、私たちの心に届く。あるいは匂いや味といったかたちで」

 たい焼きにかぶりつくと、餡の強烈な甘みが口いっぱいに広がる。少し遅れて、優しい香りが鼻腔へと流れ込んだ。

「でもそれは、つまり上澄みに過ぎないんです。それも、いちばん澄み切った部分です。その土地の全てをあらわしているわけではないんです」

「好きなところばかりではない、と。そういう意味かな」

 彼はたい焼きを裏表にひっくり返しながら検分している。何をしているんだろう。まさか初めて見るという訳でもあるまい。

「たぶん、嫌いなところのほうが多いですよ。だから島を出たんです」

 いつも何かの気配が潜んでいる森。少ない娯楽。堆肥や鶏糞の匂い。地域との密接すぎる繋がり。そのどれもが、私には合わなかった。

「しかし好きなところもある」

「それは、もちろん」

 この島は素敵な場所だ。それは否定しない。ただ、私の魂というか、性格が、ここで生きるには適していなかったのだ。

「だからこうして、お祭りを見に来たんです」

 男性は顎を撫でて思案気に、

「君はこの島を愛している。少しばかり臆病だが」

 と言った。

「臆病?」

「土地の愛し方はそれぞれだ。出て行ったからといって、負い目を感じることはない。君はこうして戻ってきた。わずかな時間であっても、この島を愛でるために」

 かつての友人と会わないのも、祭りを最後まで見ないのも、負い目を感じているから。そうかもしれない。島での暮らしを捨てたことを、私は恥ずかしく思っているのだろうか。

「君の人生だ。前を向きたまえ」

 その言葉とほとんど同時に、風が吹いた。森の匂いの風だ。私は思わず目を覆い、砂埃が治まるのを待った。

 その間に、男性はいなくなっていた。私は辺りを見回したが、それらしき人影は見当たらなかった。

「……なんだったのかな」

 少しその場で待ってみたが姿を見せないので、首をひねりながら、ふたたび歩き始める。

 彼はなんだったのか? なぜ私に声をかけ、話をし、如何にして忽然と姿を消したのか。渡したたい焼きは食べてくれただろうか。

「……島の神様とか」

 ただのおじさんと考えるよりは、いくぶん愉快だ。自分の頬が緩むのを感じて、気が楽になった。私は彼の言葉を反芻しながら、海沿いの道を歩いた。

 負い目を感じる必要はない。この島に住むことはもうないだろうけど、また祭りを見に来よう。次は友人と連れ立って。そして、あの元同級生と思い出話でもしよう。


 あれこれ考え事や、寄り道をしながらの帰り道は思ったより長く、家に帰る前にすっかり暗くなってしまった。

「そういえば、夜空を見上げるのなんて久しぶりだな」

 ここには、都会とは違う時間が流れている。少しだけゆっくりしていて、それを退屈に思うこともある。けれど今は、息を飲んで、満天の星々を見つめた。

 夜空の片隅に、流星が流れた。私の家まで、あと二十分はかかる。

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流星 鉈音 @QB_natane

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