インペリアルホテルの逆襲

岩城忠照

第1章 大阪インペリアルホテル

第1話 「メェ~」と「ワゥ」

「人として大切なことは、『何を恥と思うか』、それだと思う」


 劇作家であり、演出家であり、小説家であった故・つかこうへいさんの名言と出会い、昨年まで勤めていた会社を退職しました。


 自分がやっていた仕事を、『恥』だと思ったからです。


 大学を卒業して10年、大阪の経営コンサルタントの会社に勤めていたのですが、就職した当時はまだ、経営コンサルタントいう仕事が現在ほど世間に認知されておらず、どちらかと言えばマイナーで胡散臭いイメージの職業、という印象を持つ人が多かったのではないでしょうか。

 私自身も勤め始めて2か月ほどは、自分の会社がいったい何をやっているのかさっぱり分からなかったほどなので、やはり経営コンサルタントいう仕事は世間一般のイメージ通りに、どこかすっきりとしない、霧に包まれたような後ろ暗い職業なのかもしれません。

 では、私にとって経営コンサルタント業の何が恥なのかと言いますと、業務内容が恥ずかしかったという訳ではなく、私は自分自身の未熟さが恥だと思ったから退職したのです。

 私が勤めていた会社は関西では名の知れた、立派な会社であったのですが、創業者である会長が2年前に他界されたことがきっかけで、社を取り巻く状況が大きく変化し、その変化に対応することが困難になってしまったのです。

 会長は狭い業界内では立志伝中の人物で、良い意味でも悪い意味でもワンマンで、カリスマ性を備えた人物であっただけに、その会長が亡くなられたことによって、それまで懇意にして頂いていた取引先が、次々と手を引き始めてしまったのです。

 私は10年も勤めていたにもかかわらず、信頼関係を完璧に築いていたと思っていた得意先の社長から、

「会長はほんまに立派な人やった。あんたもあと、会長が5年長生きしてはったら、立派な人物になれたのに・・・」と、取引の継続を解除されてしまいました。

 結局のところ、会社は会長一人で保たれていたということを痛感し、自らの力量不足を思い知った結果、一度自分のキャリアをリセットするという意味で退職したのです。

 しかし・・・ 

 餅は餅屋、雀百まで踊りを忘れず、と言いましょうか、自身の実力を恥と思いつつも、何名かの昵懇にしていただいていた取引先の方々の要請と協力を得まして、3ヶ月前に経営コンサルタントの会社を設立してしまいました。


 そんなある日、変な依頼が舞い込んできました。


 その日は朝から銀行へ行く用事があったので、出社をせずに銀行へ直行し、所用を済ませて車に乗り込んだときに、会社から携帯電話に連絡が入りました。

「おはようございます。マリです」

 電話は、設立当初から事務職員として働いてくれている、佐々木マリからでした。

「おはよう」

圭介けいすけさん、何時に出社されます?」

「今、用事終わったから、今からそっちに行くけど」

「分かりました。それでね、昨日話した、私の同級生が11時に来るから、なにか甘い物買ってきてくださいよ」

「了解。じゃあ、いつものアールグレイでいい?」

「やった~! 早く帰ってきてくださいね」

「はいよ!」

 マリは大好きなケーキのお土産と聞いて、彼女の弾んだ様子が目に浮かびます。

 おそらく彼女は今、デスクの上でアイスコーヒーを飲みながら、業務命令として読むようにと私が貸し与えた、大藪春彦の『野獣死すべし』を読んでいることでしょう。

 どうでもいい話なのですが、なぜマリに業務命令としてまで『野獣死すべし』を読ませているのかと言うと、彼女の中に眠っている野生を呼び覚ますためです。

 では、なぜ彼女の中に眠っている野生を呼び覚まさなければならないのかと言うと、マリが犬に似ているからです。しかも、誰彼なしに噛みついていきそうな、凶暴な大型犬に似ているからです。

 しかし、だからといってマリは不細工というわけではなく、健康的な小麦色の肌の、目鼻立ちのはっきりとした、身長170センチのナイスバディーな27歳のエキゾチックな美人です。

 面接の時に初めて彼女を見た第一印象は、

「佐々木さんがもしも犬やったら、口の周りが黒い犬っていう感じですね」でありました。

 マリは一瞬、私が何を言っているのか理解できないといった怪訝な表情で、

「それって、不採用っていう意味ですか?」と訊ねてきました。

「いえ、採用っていう意味です」

 マリは今まで見たことがない、得体の知れない動物を見るかのような不思議な表情で、私の目をまっすぐ見つめたまま、

「それは、私が犬に似ているから採用するっていうことなんですか?」と言いました。

「いえ、ただの犬じゃなくて、口の周りが黒い犬です」

「・・・・」

 マリはしばらく無言で、何事か思案中といった、小難しそうな表情をしていましたが、やがておもむろに口を開き、

「採用してもらえるのは嬉しいんですけど・・・ 2、3日返事を待っていただけますか?」と言いました。

「いいですよ。良い返事を待ってますね」


 そして二日後、マリから連絡がありまして、

「私、母に口の周りが黒い犬に似てる?って訊ねてみたんですよ・・・ そしたら、母がゲラゲラ笑いながら、なんとなく分かるような気がするって言ったあとに、その人のところで働きなさいって言われたんですよ・・・ だから、よろしくお願いします」

 以上が彼女との馴れ初めでございます。


 ということで、ここで話を本筋に戻しまして、日本橋の駐車場から車を出して千日前通りを東へ向かい、我が社が入る小汚い雑居ビルの前を通過して、上本町にある『なかたに亭』という、少し変わった屋号の有名なケーキ屋に寄りまして、大人気のアールグレイというチョコレートケーキを3つ買ったあと、元来た道をUターンして会社に向かいました。

 話を元に戻した直後に申し訳ございませんが、思いがけずに『変わった屋号』というキーワードが突然現れましたので、ついでと言ってはなんですが、ここで私の会社を説明させていただきます。

 私が設立した会社の名前も少し変っていて、『株式会社WALSON』という社名にしました。

 スペルを直読みすると『ワルソン』となるのですが、実は何を隠そう、『ウォルソン』と発音します。

 ウォルソンの意味なのですが、直読みのワルソン(悪損)に因み、

『悪い奴には損をさせてやる~!』、という願いを込めてWALSONとしたのですが・・・

 しかし、残念ながら実際の世の中は皆様ご周知の通り、

『悪~い奴ほど♡得をする~♪』という複雑な仕組みになっておりますので、私は自ら掲げた高潔な理想に向かって、一層努力して参ります。敬具。


 ウォルソンは谷町9丁目の雑居ビルにオフィスを構えておりまして、従業員はマリと、竹下たけした すすむという新卒の新入社員一人の小さな会社です。

 進は私の数少ないお得意先の大事な一人息子なのですが、彼の採用理由は次の通りです。

 通り一遍の面接が終了した後、

「当社に採用されたと仮定して、今後の抱負を語ってください」と質問したのですが、彼は現役の大学生にもかかわらず、

「ホウフって・・・ どういう意味ですか?」と、逆に質問されてしまい、私はデスクからメモ用紙とボールペンを手に取り、『抱負』と書いて彼に見せたのでが・・・

 進は聞き取れないほどの小さな声で、

「抱いて負ける?」とポツリとつぶやいたあと、「もしかしたら抱負って、プロレスでベアハッグされて、ギブアップするっていう意味ですか?」と言われてしまい、余りにも意外な珍答に、

「採用です。卒業後、4月1日から出社してください」と、私は思わず即決して、彼に握手を求めてしまいました。

 ちなみに進は現在、新人研修という名目で、私の知り合いの京都のお寺に預けておりまして、4日後の来週月曜日に戻って参ります。


 マリといい、進といい、どうも私は物心ついたころから、毛色の変わった珍妙な生き物が好きなようで、8歳の時に田んぼのあぜ道で初めて螻蛄けらを発見した時の感動を、今でも鮮明に憶えております。

 私が所有している税込み3024円の国語辞典によると、

『ケラ(螻蛄)地中にすむケラ科の昆虫。農作物の根などを食べて害を与える。オケラ』となっております。

 失敬な! 実に不愉快である!

 日本国民の6割以上が口ずさんだことがある、『手のひらを太陽に』に登場する螻蛄殿に対して、これではあまりにも説明不足だし、味も素っ気も無いので、彼らの名誉のために私が補填します。

『螻蛄はハヤブサのように空を飛び、マッコウクジラのように水中を潜水し、モグラのように地中に潜ることができる、陸海空を厭わない、国際救助隊サンダーバードのような、実に素晴らしい昆虫』である! 以上。

 車をビルの裏手にある駐車場に停めた後、10階建の雑居ビルのエレベーターに乗り込みまして、7階で降りて事務所のドアを開けると、案の定、マリは自分のデスクに座って、『野獣死すべし』を読んでおりました。

「圭介さん、おはようございます」

 私はいつか、マリから本当に噛みつかれるかもしれないと思いつつも、手に提げたケーキを手渡す直前、その日に彼女と初めて顔を合わせた時に行う、

「メェ~」

 という、いつもの朝の挨拶を返しました。

 しかし、マリは一瞬で笑顔から険しい表情になり、私が朝の大切な挨拶をしたにもかかわらず、

「もぅっ! それは止めて下さいって言ってるでしょう!」と言いながら、私からケーキを奪い取り、「絶対に返事しませんからね!」と付け足しました。

「メェ~☠」

「そんな寂しそうな声出しても、もう絶対に相手しませんよ!」

「メェ~?」

「もぅ~っ! 気持ち悪い!」

 こうまで言われてしまうと、私と過去にお付き合いをして下さった女性たちに申し訳が立ちませんし、彼女たちの名誉を守るために、ここは黙って聞き流すわけにはいきません。

「気持ち悪い? マリ、俺は女性から、『気持ち良い!もっとしてぇっ!』って言われることはあるけど、気持ち悪いなんか言われたことないぞ!」

「そういうとこが気持ち悪いって言ってるんですよ!」

「メェッ!」

「わかりましたよ! やったらいいんでしょう?」

「メェ~♪」

「ウ~、ワゥワゥ!」

 私たちが何をしているのかと言いますと、マリは口の周りが黒い牧羊犬で、私はマリに追い立てられながら放牧地へと誘導されている迷える子羊、という設定であります。

 マリは見た目が美しいだけに、おそらくこれまでの人生で男性からこういった扱いを受けたことがないでしょうし、本来はプライドが高い生粋のジャジャ犬(馬)なのですが、そこは調教師としての腕の見せ所と申しましょうか、とてもやりがいを感じている今日この頃でございます。

 まさかマリ本人は、自分が牧羊犬を目指してパブロフの犬のように調教され、訓練しているとは露ほども感じてはいないでしょうが、こうした日頃のたゆまぬ訓練と努力を積み重ねた結果、いつの日か彼女が立派な噛みつき牧羊犬面美人として立派に成長し、世の迷える子羊たちを導くことができるでしょう。

 私は人類と迷える子羊とマリ本人にとって、とても意義のある偉大なチャレンジを続けていくことを固く誓いました。あらかしこ。

 ほとんど話が脱線しっぱなしで、大変恐縮なのですが、私とマリとの間柄には、『メェ~』以外にも『マリ~!』というのがございまして、具体的に説明しますと、

「マリ~!」

 と叫んだあと、

『ガクッ・・・』

 という感じで頭部を真下にがっくりと垂れ下げる、いわゆる社会通念上の一般常識的な、『イった』時の動作なのですが、私はこのニューチャレンジを、3日前から1時間に一度のハイペースで、勇猛果敢にアタックしております。

 ということで、自分のデスクに就いた後、マリの入れてくれたネスカフェゴールドブレンドのブラックのホットを一口飲んで、精神を集中して本日一発目の、

「マリ~!」

 と叫んだ時、この3日間の成果、もしくは賜物と申しましょうか、明らかにマリは、『ガクッ・・・』を期待している表情(口を半開き)を見せましたので、

「ところでな」と、意地悪すると、

「もうっ! やるんやったら最期までちゃんと、ガクッってやってくださいよ!」と、意外にも催促されてしまいましたので、

(仕方ないの~)と思いながら、リクエストに応えて、

「マリ~!」と叫んだ後に、『ガクッ・・・』としたところ、マリはさも満足そうな笑顔で、

「この、ド変態・・・」と、最上級の褒め言葉を頂きました。

 調教メニューに『マリ~!』を追加した当初、

「これって、セクハラ通り越して、プレイじゃないですか!」と、怒りをあらわにして、気色悪がっていたのですが、自らおねだりしてきたということは、マリは確実に進化していると言っても過言ではないでしょう。

 しかし、マリがどこに向かって進化しているのか、調教師である私自身もよく理解していないのですが、今後も経過観察を怠らずに、温かい目で見守って参りましょう。

 コーヒーを飲みながらタバコ(メビウス10)を一本吸い、関西のビジネスマンにとっては必読の主要な3紙(日経、デイリー、大スポ)の新聞に目を通して、朝の日課が終了いたしました。

「ところでマリ」

「ワゥッ! あっ、違うわ、はい」

「今から来る同級生って、かわいい?」

 マリは挑戦的な微笑みを浮かべて、

「私の友達ですよ! 可愛いに決まってるじゃないですか!」と言い切った後、勝ち誇ったような笑顔を見せました。

「あっ、そう・・・ それで、どんな用事で来るの?」

「それがねぇ、私もはっきり分からないんですよ。一昨日の夜に、いきなり電話がかかってきて」と、経緯を語り始めました。

 マリの話によると、今から私を訪ねてくる原田はらだ千里ちさとという女性は、マリの大学時代の同級生で、彼女は卒業後、上京して東京のアパレル関係の会社に就職したそうなのですが、

「なんか、いろいろと事情があって、2か月前に会社は辞めたらしいんですけど、とにかく直接会って相談したいことがあるって言ってきたんですよ。 それでね、私は前から千里には圭介さんの話をしてたんですけど、千里ができれば圭介さんにも話を聞いてほしいって言ってきて・・・ 多分、就職の相談やと思うんですけど・・・」

「?・・・」

 私に聞いてもらいたい話というのが、どんな話なのか想像もつきませんが、マリが私のことを千里になんと言っているのかが気になりましたので、

「俺のこと、千里ちゃんになんて話してるの?」と訊ねました。

 マリは色黒なのでよく分かりませんが、おそらく顔を赤らめ、

「そんな恥ずかしいこと、圭介さんに言えるわけないでしょう?」と言いました。

「ということは、マリは千里ちゃんに、俺のことが好きって言うたんか?」

 マリは色黒なのでよく分かりませんが、おそらく顔を真っ赤にして、

「おっさんアホかっ! なんで私がおっさんのこと好きにならなあかんねん! セクハラで訴えられへんだけでも有難いと思え!」

 と、流石は大阪市生野区出身なだけに、下町風のパンチの効いた捨て台詞を吐きやがりました。

 ということは、おそらく千里が私に相談したい事というのは、先ほどマリが言っていた就職の相談か、もしくは私と結婚して永久就職を希望したいということなのでしょう。

「そんなことより、もし、千里がここに就職したいって言ってきたら、圭介さん、雇ってくれます?」

「そうやなぁ、俺もそろそろ朝刊だけじゃなくて、夕刊も配ることにするから、マリの言うとおりの良い娘やったら、仲良く一緒に新聞を配ってみたいなぁ」と言った時、

「ピンポ~ン」とチャイムの音が鳴りました。

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