国内最高齢のひぽぽたますのおもいで

雪之佳乃

君があれなと おもほゆるかな

 今年も薄桃色の花が咲いた。あの花は好き。寒かった冬の間、何もなかったかみねのお山が一斉に薄桃色に輝くから。そして間もなく散る。散った花びらが私の遊び場を染める。私はそれを水底からみているのが好きだ。薄桃色の先の青い空。水が揺れると空が揺れる。花びらが揺れる。光が揺れる。


 今日も朝から大勢の子供たちの声が聞こえる。この季節は毎年そう。お弁当を入れたリュックと水筒、そして画用紙を手に持った子供たちでここかみね動物園は賑わう。日立市内の小学生が集団で押しかけてくる季節。毎日のようにあちらこちらの学校からやってくるので隣のクロサイは興奮してドスドスと足音を立てている。少しイライラしているみたい。子供が嫌いなのかな。私は別に気にならないけど。子供たちに人気があるのはゾウやキリン、シマウマにライオンたち。賑やかなのは一瞬。すぐに好きな動物の前に行ってしまうから。

 子供たちがどこに行こうが何をしようが騒ごうが私はいつものように水に潜って空を見上げる。花びらの間から射し込む光が暖かく心地いい。風に水面がゆらりと揺れると花びらもゆらり光もゆらり。しばらく水の揺らぎに身をまかせて空をぼんやり眺める。水の中はいつでも静かだ。


 ひとしきり水底を楽しんだので水面に顔を出してみる。少し離れたベンチに少女が一人座っているのが見えた。こちらをじっと見ている。まわりに子供たちは誰もいない。手を動かしている様子も無い。何をしているのだろう。私は目から上だけを出して少女を観察した。

 ふっと少女の手が動く。おもむろに画用紙に向かう。少し戸惑いながら鉛筆が動く。そしてまたじっとこちらを見つめる。最初はゆっくりとした動作だったのに一度手を動かし始めたら迷いの無い力強さだった。なんだか見ていて気持ちいい。自信に満ちた少女の瞳に吸い込まれそうだ。風が耳をなでるたびに反射でぴくぴくと動く以外は、体を水につけたまま私はじっとしていた。

 クロサイの足音は聞こえなくなった。子供たちが離れたので落ち着いたのだろう。微かにサルたちの声に混じって子供たちの歓声が聞こえてくる。愛想のいいサルたちが子供たちの喜ぶようなポーズをとったのだろうか。それともゴリラのいたづらに子供たちが悲鳴をあげたか。

 ひとしきり画用紙に向き合っていた少女は絵具を塗り終えて満足したような笑顔をみせた。それは薄桃色の花のように輝いていてとても美しかった。

 そこに別の少女が現れた。少女の友達だろうか。後から来た少女が先の少女のたった今塗り終えたばかりの絵を指さして何か言っているようだった。私がいるところからは聞き取れない。後から来た少女が笑う。しかし、絵を描いていた少女は突然俯いた。その時の少女の顔を私はいつまでも忘れない。ほんの少しだけ眉間に力を入れて涙をこぼすまいとしている顔を。先の少女はすぐに顔をあげて絵の道具を片付け始めた。もう眉間に力は入っていなかった。絵の道具を片付けると少女たちはその場を立ち去った。

 二人の少女が去ったベンチに薄桃色の花びらが落ちるのが見えた。



「うーちゃん、これ何?」

後から来た少女が問う。

「カバ」

少女は笑顔で答えた。

「えー?これがカバ?」



 私も今年で五三歳。国内で最高齢のおばあちゃんカバになってしまった。たくさんの子供を産んでたくさんのお別れもした。いなくなったことを認めたくなくて水の中を探し回ったこともあった。今は末娘のチャポンといっしょに暮している。私よりも大きく育ったチャポンは礼儀正しいとてもいい子。

 誕生日には日本中の人がお祝いしてくれる。おからのケーキも美味しい。

 今でも薄桃色の花が咲くと水に潜って花びらをそしてその先の空を眺めるのが好き。そうしていると時々、あの時の少女の顔を思い出す。彼女は笑顔を取り戻せただろうか。



 「子供の頃ね、ここでカバの絵を描いたの。画用紙いっぱい水色に塗って真ん中に目と耳だけ描いたら、それはカバじゃないって笑われたんだよ」



 目の前の柵の向こうからそんな声が聞こえた。ふと目をやると、あの時の少女が立っていた。姿はもう少女ではないけれど間違いない。こちらを見ながら友達といっしょに笑っていた。絵具を塗り終えた後の満足したあの笑顔。あの時の目だった。私はホッとした。そしてあの日私がとても嬉しかったということを彼女に伝えたいと思った。あの日の私は、大好きな薄桃色の花びらを眺めて一番いい笑顔をしていたはずだから。私の笑顔を描いてくれてありがとう。私は彼女に伝わるように水から顔だけを出して彼女を見つめ返した。

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