第57話 空間

 ミツコが帰ったあと、再び書斎に戻り、『白鳥の里』が置かれた机に就きました。

 一晩中、寝ないで読んでいたせいか、ひどく目が疲れていることに気付き、深く瞼を閉じたときでした。

 なぜだか急に、愛子と一緒に暮らした部屋を思い出し、その部屋の鍵を、最後にかけたときの情景を思い出しました。

 愛子と入籍したあと、二人で不動産屋を廻り、愛子が気に入って決めた、縦に細長い2LDKの部屋でした。

 そして愛子が出て行った後、私が2年間独りで暮らし、ひたすら愛子の帰りを待ち続けた部屋でもあり、愛子の帰りを待ちくたびれて、もう二度と愛子は戻っては来ないと諦めた部屋でした。

 私はこの部屋で営まれ、積み重ねてきたことを全て無かったものとして、出て行くことに決めました。

 愛子の思い出と一緒に、荷物をひとつ残らず運び出したあと、最後にドアの鍵をかける前に、玄関から細長いもぬけの殻の空間を見たときでした。

 10年近く暮らしていて、ただの一度も広いと感じたことはなかったのに、その空間はあまりにも殺風景で、ひどく広いように感じたことを憶えています。

 私にとって、その部屋がただの寒々しい空間へと変わってしまった時の記憶は、とても辛い記憶の中のひとつでした。

 しかし、私にとって、愛子との思い出の中で、その空間の記憶が一番悲しかったわけではないはずなのに・・・・

 これから先にもう二度と、その空間には何一つとして運び込むものはなく、その空間が再び、暖かい部屋に生まれ変わることはないだろうと思ったとき・・・


 なぜか生まれて初めて、大きな声を上げて泣きました。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る