第56話 決心
書斎のドアを閉めるとき、昨夜の激しい雨はすっかり止んでいて、窓から太陽に照らされた庭がはっきりと見えましたので、おそらく朝なのか、それとも昼なのかと考えながら歩いているうちにリビングに到着しました。
リビングの扉を開けると、ミツコはソファーに腰掛けていて、私を待ちわびていたかのような表情をしておりました。
ミツコは自分の隣のソファーを指差し、「ここに座って」と言いましたので、言われたとおりにソファーに腰掛けました。
ミツコはしばらく無言で私を見つめたあと、
「疲れたでしょう?」と言いました。
「いや・・・ 大丈夫です」
「すこし、休む?」
「いや、ほんまに大丈夫です。それよりもミツコさん・・・・
このことを、瑞歩に内緒にすることはできないんですか?」
ミツコは悲しげな表情で、「それは無理ね・・・」と言いました。
「なんで、無理なんですか?」
「それはね、探偵の調査が、ある程度まで進んでしまっているし、瑞歩はあなたに黙って、探偵の調査を続けるつもりなのよ。あの子は私に、涼介から探偵の契約を解除しろって言われたけど、ここまで来たから、そのまま続けるって言ってたわよ」
「じゃあ、瑞歩を説得して、探偵の調査を止めさせたらいいじゃないですか」
「そうね、でも、仮に瑞歩が納得して、探偵の調査を中止にしたって、あなたに黙って、また依頼したら同じことよ」
「じゃあ、その探偵社に僕が行って、二度と瑞歩の依頼を引き受けんとってくれって、頼みますよ」
ミツコは少し、呆れた表情で、
「あなたねぇ、瑞歩の元彼が紹介したワールドパズ社って、本社はアメリカなんだけど、世界中のセレブを相手に商売している、世界一の調査網と情報収集と分析能力を備えた会社よ。例え、どんなに圧力をかけられたって、絶対に屈しないというプライドがあるし、いくら莫大な金を積まれたって、決して依頼主を裏切ったり、寝返ったり、不利益になるようなことなんて、何があっても絶対にしないのよ。だから、依頼した本人以外の誰とも、交渉なんて絶対にしないわよ」と、世間知らずな私に言いました。
「じゃあ、僕が絶対に瑞歩を説得して、調査を止めさせますから、それやったら、瑞歩には何にも話さんでいいでしょう?」
「・・・・・」
ミツコはしばらく沈黙したあと、
「確かに、あなたが真実を知ったことで、探偵の役割は終わったから、これ以上探偵に真実を知られることは避けるべきだし、もしも万が一、情報が外に漏れることを考えたら、一刻も早く契約を解除するべきなんだけど・・・ でもね、それでも残念ながら、瑞歩に隠し通すことはできないのよ」と、とても苦しそうな表情で言いました。
「それは、なんでなんですか?」
「白鳥美智子が、瑞歩に会いたがっているのよ」
「!・・・・」
一瞬、言葉に詰まりましたが、
「そんなん・・・ あんまりにも勝手過ぎるじゃないですか」と言いました。
「そうね・・・ 勝手すぎるわよね」
白鳥美智子に対して、激しい怒りを覚えましたが、口に出しても仕方が無いと思い、「アキちゃんは今、どこで何をしてるんですか?」と訊ねました。
「アキはいま、白鳥美智子を説得する、っていうか、瑞歩に会いに行かせないために、石本加代と一緒に白鳥町にいるわ」
「白鳥町って・・・ 小説に出てきた、四国のですか?」
「そう・・・ 白鳥美智子は愛子が亡くなったあと、神崎と別れて、生まれ故郷の白鳥町に戻ったのよ。それで、白鳥美智子はアキに、瑞歩を白鳥町に連れてきてほしいって頼んでいるのよ・・・・・
だから、アキも石本加代も身動きが取れなくなっているんだけど、二人ともいつまでも四国に居るわけにはいかないし・・・」
「・・・・・」
私は話すべき言葉を、思いつくことができませんでした。
「だから、あなたが瑞歩に内緒にしたって、いずれは白鳥美智子が何らかの形で、瑞歩に連絡をするはずだから、どうしたって瑞歩に隠し通すことなんてできないのよ・・・それに、瑞歩に真実を告げることができるのはあなただけだし、あなたにとってそれは、残酷な役割だって事は、みんな百も承知していることなんだけど・・・ でも、あなた以外に、瑞歩のことを任せることができないのよ」
「・・・・・・」
これ以上、白鳥美智子のことを、あれこれと考えたり、ミツコと話したり、話題にすること自体が、とても無駄のような気がしましたので、何も言わずにミツコの話しを聞くことにしました。
「野間陽子はね、愛子が自殺したことで、白鳥美智子は責任を感じて、瑞歩のことはもう諦めたと思っていたのよ・・・
そして野間陽子はね、自分が愛子を死なせてしまったんじゃないかって、そう思っていたのよ。もし、あの時に自分がもっと違う方法を考えて対処していたら、愛子は死なずに済んだんじゃないかって思ったときに、自分が癌に侵されていることに気付いたのよ。
そのことがきっかけで、野間陽子は徐々に、体だけじゃなくて、心も病に蝕まれていったのよ・・・
映画やテレビを見ても、感動したり、笑ったりできなくなっている自分に気付いて、それからは段々と様子がおかしくなっていくことを、はっきりと自分で認識し始めたから、そんな姿を瑞歩に見せる訳にはいかないと思って、野間陽子は別荘に引きこもることにしたのよ。
それで、残り僅かな自分の人生を振り返るっていう意味と、どうしてこんな悲惨なことになってしまったのかを、検証するという意味で、小説を書こうと決めたのよ」
私はミツコが話している、小説に書かれていなかった事実に対して、何か話さなければと思いましたが・・・
ミツコの表情が、私のコメントなど求めていないように見えましたので、黙っていることにしました。
「それで野間陽子は、瑞歩を一人にしちゃいけないと思ったから、あの子に彼氏を紹介して、二人が付き合い始めてから、この別荘に来たのよ」
「えっ!・・・ 瑞歩の元彼って、野間会長が紹介したんですか?」
「そうよ。家が同じ芦屋の近所で、親同士の仲が良かったから、両家は二人を結婚させるつもりだったみたいだけど・・・
でも瑞歩は、そんな申し分の無いサラブレットなんて、初めからまったく興味が無かったし、結果的にはその彼氏も、瑞歩の心の病を止めることができなかったし、何の支えにもならなかったから、野間陽子は余計に気落ちしたのよ」
もしも、野間会長が生きていて、瑞歩がサラブレットよりも私を選んだことを知ったら・・・と考えましたが、思い直して考えることを止めました。結局のところ、答えを出すのは瑞歩であって、私と野間会長ではないと気付いたからです。
「野間陽子は、当てにしていた彼氏も駄目で、瑞歩の様子が自分と同じように、日に日におかしくなっていくことに気付いた時に、母親の愛子も、祖父の野間秀夫も、大伯母の白鳥久美子も自殺しているから、瑞歩が精神面でそういう部分を受け継いでしまっているかもしれないと思って、焦ったのよ。そんな時に弱り目に祟り目で、白鳥美智子から、瑞歩に会わせてほしいって、連絡があったのよ。
野間陽子はもう、怒る気力もなくなっていて、自分は末期の癌に侵されていて、もう長くないから、そっとしておいてって頼んだんだけど・・・
白鳥美智子は野間陽子に、あなたが死んだら、瑞歩に会いに行くって、宣言したのよ。
だから野間陽子は、瑞歩の存在と、愛子が亡くなったことを、どうしてもアキに話すことができなかったから、アキを避け続けていたんだけど、自分が死んだあとに、白鳥美智子から瑞歩を守ることができるのは、父親のアキしかいないから、なりふりかまわず藁にもすがるような気持ちで、アキを呼び寄せたのよ。
でも・・・ すべてを知ったアキ自身も、どうしていいのか分からなくなって、私のところに相談に来て、どうしたらいいかってことを二人で考えはじめたのだけど、アキは初めから、あなたにも力になってもらうつもりだったから、あなたを巻き込む、巻き込まないは一旦置いといて、いつでもあなたを巻き込めるように、アキがこの別荘を借りることにしたのよ。
そして野間陽子が亡くなる寸前に、アキは最後の決断を下すために、私のところに来たのよ。
アキはもうすぐ野間陽子が亡くなるから、自分は今から白鳥美智子のところに行って、瑞歩に連絡したり、会いに行ったりできなくするために目が離せなくなって、どうにも身動きが取れなくなるから、涼介を巻き込んで、力になってもらいたいって思ってたけど、まだ踏ん切りがつかなくて迷っていたのよ。
それで、二人で散々話し合って、最終的に私が、涼介を巻き込みなさいって、アキの背中を押して、あなたに手紙を送ったのよ」
私はしばらく目をつぶり、瞼の裏に浮かび上がってきたアキちゃんに、(ほんまに、俺を巻き込んだことが正解やったんか?)と問いかけたあと、ゆっくりと目を開けて、目の前のミツコにも同じことを問いかけました。
「正解かどうかは、これからあなたが証明していくことだから、私にはまだ分からないけど、私はアキの直感を信じているのよ」
「アキちゃんの直感?・・・」
「そう、アキの直感よ。瑞歩を救い出すことができるのは、あなただけだってことを、アキは本能で感じ取っていたのよ。
それにアキは愛子の時も、あなたを見た瞬間に、あなただったら愛子を任せることができるって、」と言ったあと、
「!・・・」
なぜかミツコは突然、声を殺して泣きはじめました。
私はミツコが急に泣き始めたことが、よく理解できなかったのですが・・・ ミツコは悲しい表情で私を見つめ、その悲しげな両目から涙を流しながら、
「涼介・・・ 愛子はあなたと出会えて、幸せだったと思うわ・・・」と言って、静かに涙を流し続けました。
「・・・・・・・」
自分と愛子のことで、ミツコが涙を流しているのが申し訳ないという気持ちになり、自分も泣かなければと思いました。
しかし、涙が出ませんでした。とても悲しいはずなのに・・・
やはり、私は愛子の死に深く関わっていた当事者として、どうしても素直に涙を流すことができませんでした。
ミツコはしばらく泣いたあと、近くにあったティッシュで涙をぬぐい、再び話し始めました。
「アキがね、私に何度も話してくれたことなんだけど、あなたが瑞歩を愛して、守っていくことを、誰よりも愛子が望んでいるような気がするって、そう言ってたわ」
「愛子がですか?・・・」
「そう、確かにアキはそう言ったわ。それはね、双子じゃない私たちには理解できないけど、双子にしか理解できないシンパシーのようなもので、不思議なことだけどたとえ相手が亡くなっていても、アキは愛子の存在や、意思のようなものを、はっきりと感じ取ることができるって、何度もそう言ってたわ」
「愛子の意思ですか?・・・」
「そう、愛子の意思よ。私は霊感なんて持っていないけど、アキが言っていることがなんとなく理解できていたし、こうしてあなたと直接会ってみて、本当に愛子がそう望んでいるんじゃないかって、私もそう感じたのよ」
「・・・・・」
私は心の中で、(愛子、ほんまにそう思ってるの?)と問いかけてみましたが・・・・・・
愛子は何も答えてはくれませんでした。
「でもね、たとえ愛子とアキがそう望んで、あなたが瑞歩と一緒に生きていくって決心したとしても、あなたが思っている以上に、これから先に瑞歩と暮らしていくことは大変なことだと思うわ。あの子は愛する人が傍にいて、その人からちゃんと愛されていることが確認できないと、いつまた精神を病み始めるか分からないわよ。
おそらく瑞歩はね、あなたから深く愛されるほどに、自分の運命を変えていく力を付けていくはずだから、あなたは余計なことは考えないで、瑞歩を愛することだけを考えればいいのよ。
だから涼介、瑞歩に真実を告げた後は、あの子に余計なことは何も考えさせちゃだめよ! あなたはひたすら、自分の本能的な直感を信じて、瑞歩を深く愛し続けなさい!」
「・・・・・」
私は自分に、本能的な直感などがあるのかなんて分かりません。
しかし、そんなものがあろうと、なかろうと、瑞歩を愛し続けていくことを自ら選択した証として、
「わかりました」と言いました。
するとミツコは、先ほどまでの悲しげな表情から、少しだけ穏やか表情になり、
「涼介、私から最後に言いたいことがあるんだけど」と言ったあと、
「物書きの先輩として、酷なことを言うかもしれないけど・・・
あなたと瑞歩が書いている小説は、あの子から大体の内容は聞いたんだけど、もうその小説の続きを書くのを止めて、あなたたちは今から始まる物語を書きなさい」と言いました。
「今から始まる物語ですか?」
「そう、あなたと瑞歩の二人で、白鳥の里の続きを書きなさい」
「白鳥の里の続き・・・・」
「そう、白鳥の里が、どういう結末を迎えるのかなんて、今は誰も分からないけど・・・ でも、ひとつだけはっきりしてることは、あなたと瑞歩以外に、この物語の続きを書く資格が無いってことよ。だって、白鳥の里は、あなたたち二人の物語なんだから、良い結末が書けるように、瑞歩と二人で一生懸命に生きていきなさい!」
改めてミツコからそう言われると、確かに白鳥の里は、瑞歩と私の物語であるような気がします。
しかし、その物語の行く末や結末の鍵を握っているのが、自分であるとは到底思えず、続きを書く資格があるのかさえ、よく分かりませんでした。
「とにかく涼介、あなたは余計なことは一切考えないで、瑞歩の心と体を優しく包んであげなさい」
「瑞歩の、心と体をですか?」
「そう、人は生きている限り、心と体を切り離すことなんてできないのよ。だから、瑞歩の心と体がバラバラにならないように、あなたがしっかりとつなぎとめて、あの子を一生懸命に愛してあげなさい! わかった?」
私は黙って、ミツコの目を見ながら小さく頷きました。
「じゃあ涼介、そろそろ迎えの車が着く時間だから、私は東京に戻るわね」と言った後、「それと、すべてが落ち着いたら、瑞歩と一緒に、私のところにいらっしゃい! 何か美味しいものでもたらふく食べさせてあげるわよ!」と言って、ミツコは帰っていきました。
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