第36話 婚約解消

 それから2日後の午後、久美子との話し合いを終えた加代が、中野のアパートに戻ってきました。

 秀夫と美智子は玄関で加代を迎えましたが、二人は彼女のただならぬ姿を見て、一気に緊張と不安が高まりました。

 このとき加代は四十路前で、決して普段から老け顔というわけではなかったのですが、彼女は初老を通り越して、一気に老婆となってしまったようにやつれ果て、顔には深いしわが刻まれておりましたので、加代がこの2日の間に、どのような気持ちで久美子と話をしてきて、どのような苦労を重ねてきたのかを、二人は今更ながらに理解し、こちらからは一言も話すことができませんでした。

 加代は美智子が入れた熱いお茶を一口飲んだあと、二人を見据えたまま、余計な話をする気力もないといった疲れた表情で、前置きも無く久美子との話し合いの結果を、単刀直入に話し始めました。

 まず結論として、久美子は秀夫と美智子の言い分を、条件付で全て受け入れたと言いました。

 その条件とは、一度は結婚を約束した相手に対する最後の礼儀として、二人で一緒に白鳥町の親のところに行って、自分を送り届けた上で、両親に婚約を解消すると話してほしいということでした。

 婚約解消の理由を、自分の心の病が原因とし、親には余計な心配は掛けたくないので、美智子との関係を内緒にして、折を見て自分が両親に話すので、それまで待ってほしい、ということと、久美子の両親への最後の挨拶は、できれば1ヶ月後のクリスマスイブにしてくれれば、賑やかな世間が暗い話題を少しでも軽減してくれるかもしれないので、是非そうしてほしい、ということでした。

 そして、今回のことを野間家に知られて、大騒ぎになることを避けるために、加代はまったく知らなかったことにしてほしい、ということでした。

 すると秀夫と美智子は、加代のやつれた様子から予想していた、こじれた話と掛け離れた意外な展開に戸惑い、お互いに顔を見合わせましたが、加代はそんな二人を無視するかのように、淡々とした口調で久美子の心境を話し始めました。

 久美子は秀夫と美智子の関係を早くから気付いて、遅かれ早かれこうなることは覚悟していたので、決して自分の心配はせずに、二人で生まれてくる子供を大切に育てて、幸せになってほしいと願っていると言ったあと、加代は抑えていた感情を口にすることなく、代わりに目に溜めていた涙を流しました。

 二人は加代の話を聞き終えて、あらためて自分たちが犯した罪を深く反省すると共に、心を深く傷つけたにもかかわらず、久美子が自分たちに示してくれた、最後の思いやりに深く感謝しました。

 このとき初めて美智子は、幼い頃から姉に対して抱いてきたわだかまりを捨て、心の底から溢れてくる悲しみと謝罪の気持ちを、声を上げて泣くことで表し、秀夫は俯いて絶句したまま、静かに涙を流し続けました。

 全ての作業を終えた加代が白鳥町に帰ったあと、秀夫は久美子を失った喪失感を痛感すると共に、心の中にぽっかりと大きな穴が開いてしまったような気持ちになりました。

 改めて久美子との再会から始まり、二人で一緒に書き上げて投稿した小説などを思い起こし、もしかすると自分は、取り返しのつかない、間違った人生を選択してしまったのではないか、という焦りと、今更どうすることもできない、という諦めが、彼の胸を交互に締め付けました。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る