第22話 添い寝物語
私はベッドの布団の中にもぐりこみ、仰向けになって天井を見つめながら、なぜアキちゃんと愛子に裏切られたのだろうと考え続けていました。
本当は裏切られたのではないのかもしれませんが、なぜ二人は私に、育ての親の名前を偽った上に、死んだという嘘をついていたのでしょう?・・・
わざわざ常識に照らし合わせて考えなくても、いくら血のつながらない育ての親とはいえ、結婚相手に会わせないのではなく、その存在自体を消し去ってしまうとは、いったいどういう事情があったのでしょう?・・・・
私に石本加代を会わせたくなかったのか、それとも逆に、石本加代に私を会わせたくなかったのか・・・
おそらくそのどちらかだと思いますが、どちらにしても、二人の話を何の疑いもなく信じていた私にとっては、会って欲しくない、会わせたくない、という選択権も選択肢も無かったわけですから、今となってはもうどうでも良いではないかと思う反面、だからこそ余計に、悔しいという思いもあります。
しかし、会わせる、会わせないの問題はともかく、なぜ育ての親の苗字を石本ではなく、福山と偽ったのでしょうか?・・・
そもそもアキちゃんと愛子の苗字は、なぜ石本ではなく福山なのかが分かりませんが、おそらく初めから私に、石本加代を会わせる気が無かったので、自分たちの育ての親である母方の伯母の苗字を、石本ではなく福山だと話し、後になっても私が確認しないことを見越した上で、わざわざ嘘の作り話をしたのだと思うのですが・・・
そして、何よりも私が一番悔しいのは、アキちゃんが私に嘘をついていたということです。私は彼が、決して約束を破らず、どんな些細な嘘もつかないことを尊敬していましたし、私は瑞歩にも、彼は風変わりですが、思いやりがあって、気の優しい、決して嘘をつかない立派な人間だと、自慢げに話しもしました。
はたしてアキちゃんと愛子は、私にそんな嘘をつく必要性があったのでしょうか?・・・
もしかすると、私が気付いていないだけで、二人は他にも嘘をついていたのではないでしょうか・・・
そう考えると、私は愛子が離婚話を切り出してから離婚に至るまでの間に、その理由の説明を求め続けましたが、何ひとつ納得することができない回答ばかりで、いま思えば結婚していたという事実さえ、もしかしたら誰かに植えつけられた、嘘の記憶ではなかったかと思えてきました・・・
ある意味で私は、愛子との離婚を境に、人生や社会に対する考え方が変な方向にゆがんで偏ってしまい、離婚と同時に当時勤めていた金融機関を無断退職し、これからは真面目に、まともな社会生活を送っていかなければならないという一般的な常識を失ってしまったので、今回のアキちゃんの失踪を皮切りに、誰かが私に何かを求めていて、そろそろ真面目に動き出せよということで、離婚と同時に止まってしまった、私の心の中の時計を、その誰かが動かし始めたということでしょうか・・・
しかし、次々と事実が明らかになるに連れて、より一層謎が深まっていくように思いますし、私はルールを知らずにゲームに参加してしまい、次々と負け続けているような気持ちになりました。
とにかく、私と瑞歩はこれ以上、この一連の騒動に関わるべきではないと思ったときでした。
「?・・・・」
私はそれが、ドアをノックする音だとは思わずに、ただ「トントン」という音がしているという認識しかなかったのですが、数秒後にまた、「トントン」という音がしましたので、今度は瑞歩が寝室のドアをノックしているのだと気付き、上体を起こして、
「どうぞ」と、ドアに向かって言いました。
すると、ゆっくりとドアが開き、薄いブルーに白の幾何学模様の入ったパジャマ姿の瑞歩が入ってきて、私のいるベッドのすぐ傍で立ち止まりました。
「どうしたん?・・・ 寝られへんの?」と私が訊ねると、瑞歩は私の質問には答えず、今にも泣き出しそうな顔で、
「これから、何が始まるの?・・・」
と言いました。
「・・・・・」
私はしばらく考えたあと、これから何かが始まり、現われ出ようとしているのか、それともこれから何かが終わり、消え去ろうとしているのか、そのどちらなのかさえ分からなかったので、瑞歩には何も答えることができませんでした。
瑞歩は私が何も答えてくれないことを確かめたあと、ゆっくりと瞼を閉じて、それからゆっくりと瞼を開き、
「涼介・・・ 今日、ここで寝ていい?」と言いました。
「!・・・・」
瑞歩の言葉に少し驚き、彼女が言った言葉の意味をしばらく考えたあと、(怖いの?)と訊ねてみようかと思いましたが、自分自身も見えない真実に対して、漠然とした恐怖を抱いていますので、瑞歩に対してそう問いかけるのは卑怯というか、適当ではないような気がしました。
なので私は、瑞歩がそばにいれば、自分自身の恐怖を少しでも和らげることができるのではないかと思い、隣のベッドを指差し、
「いいよ。こっちのベッド、今まで一回も使ったことがないから、こっちで寝ぇ」と言いました。
すると瑞歩は、まったくの無表情というよりも、光の当たる角度や見る角度によって、喜怒哀楽の複雑な感情を表現できる、能面のような無表情な顔で、
「いやや・・・ こっちのベッドで、涼介と一緒に寝る・・・・」と言いました。
「!・・・・・」
私は瑞歩が言った言葉の意味を解き明かそうとしましたが、なぜだか急に、あれこれと考えても仕方がないという、投げやりな思いと同時に、ただ隣で寝るだけなので、いちいち断る理由を考えるのも面倒だと思ったとき、瑞歩が両手をきつく握り締めながら、
「さむい・・・」と言いましたので、その言葉を合図に、左手で布団をめくり、重ねていた二つのうちの一つの枕を右側に置いて、
「いいよ、こっちおいで」と言いました。
瑞歩は無言でベッドに上がり、私に背を向けて頭を枕の上に乗せて横になりましたので、ゆっくりと布団を掛けました。
「・・・・・・・・・・」
その後、私たちは互いに無言で身動きひとつせずに、しばらく時間が経ちました。おそらく5分ほど経過したと思われますが、私は時間に対する観念が、頭の中で溶解していくように感じて、5分という時間が長いのか、それとも短いのかの判断がつかなくなっていることに気付きました。
私は沈黙に耐えかねて、瑞歩に照明を消そうかと訊ねようと思いましたが、この状況で明かりを消す事に、どこか後ろめたさのような妙な感情を覚えましたので、無言のままベッドの横のサイドテーブルに置いていたタバコを手にとって吸い始めたとき、
「なにか、お話しして・・・」と瑞歩が言いました。
私は瑞歩に、何を話せばいいのでしょう?・・・
この状況だと、何かを話さなければいけないのではないかという、何らかの責任や義務が生じたような気がする反面、話すべきことなど何も無いという思いもあります。
しかし、どちらにしても何かを話すのであれば、今の私の頭の中は、アキちゃんと愛子に対する疑念が渦巻いておりますので、それ以外の話題を思いつきそうな気がしませんでした。
「・・・・・」
私はしばらく考えたあと、瑞歩に話すためではなく、自分自身のために、アキちゃんと愛子のことを話してみようと思いました。
そして、私は自分自身がもう一度、二人のことを初めから思い出さなければならないような気がしましたので、アキちゃんとの出会いと、愛子との馴れ初めを瑞歩に話すことにして、タバコを灰皿で揉み消したあと、
「瑞歩、あのな、」と言って、過去の出来事を話し始めました。
私は高校卒業後、胸と声を張って名乗ることのできない、大阪の私立大学に進学して1年が過ぎたころでした。私が小学4年生の時の初恋の相手で、同じ小学校に通う1歳年下の
その当時、薫は芸能界入りを目指していて、女優やモデルを夢見て、12歳から大阪の芸能プロダクションに所属しており、なかなかチャンスが巡ってこなかったのですが、大学が夏休みに入ってすぐの頃に、私と薫にとっての転機が訪れました。
薫が関西限定のあるファッション誌のモデルに抜擢され、モデルデビューを飾ることになったのですが、その初めての撮影のときに、薫が不安なので、私についてきて欲しいと頼んできたのが始まりでした。
その頃の私と薫の関係は、キスまでは許してくれるのですが、その先はいつもお預けで、私は薫が一人暮らしをしているマンションに泊まりに行くことを夢見て、毎日が期待を膨らませてはへこむといった、蛇の生殺し状態でありました。
撮影当日、私は彼氏面してノコノコと付いて行き、その初めての撮影のときに現れたカメラマンがアキちゃんでした。
その頃のアキちゃんは、プロカメラマンとしてはまだ駆け出しの頃で、とにかく私がアキちゃんを初めて見たときの印象は、(こいつ、カメラマンじゃなくて、モデルやろう?)と思ったほど、彼は身長183センチの8頭身で、とにかくそのスタイルの良さと、男にもかかわらず綺麗な顔に驚いてしまいました。
男の私でさえそう思ったほどですから、薫の場合はほとんど一目惚れのイチコロ状態であったと思います。
そうして、ローカルファッション紙の名も無い新人カメラマンと新人モデルという、無名づくしの何の将来性も感じられない撮影が無事終了し、私と薫が帰ろうとしたとき、
「二人とも今から時間ある?」と、アキちゃんから声を掛けられました。
薫が時間はあると答えると、アキちゃんは私の名前を訊いてきましたので、私はフルネームを彼に教えると、
「涼介と薫ちゃんは付き合ってんの?」と、彼はいきなり私を呼び捨てにしましたし、尚且つ初対面の人にする質問ではないと思いましたので、(こいつ、いきなりなんやねん?)と思っていると、
「いえ、私ら付き合ってません!」と、なぜか薫はきっぱりと否定してしまい、今度は薫に対して、(こいつ、なんやねん?)と思っていると、アキちゃんは私に向かって、
「良かった! 俺な、今から妹を呼ぶから、4人でご飯食べに行こう!」と言いました。
私は(なんしに行かなあかんねん!)と思いましたので、断ろうとしたとき、
「はい! 行きます!」と、薫がはりきって返事をしたあと、「涼介、私、まだ福山さんに訊きたい事がいっぱいあるから、ついてきて!」と言われてしまい、私は惚れた弱みで仕方なく付いて行くことになり、私たちはアキちゃんの自宅近くの、近鉄上本町駅前の居酒屋に行きました。
席に座るとき、薫が自ら率先してアキちゃんの隣に座りましたので、直感で(あかん、盗られた)と思い、20分ほどは黙って我慢していたのですが、お酒の入った薫がアキちゃんにメロメロになり始め、アキちゃんもまんざらではないといった感じでした。
私は段々とアホらしくなってしまい、アキちゃんに向かって、
「福山さん、なんで薫と二人で来なかったんですか?」と言って、席を立って帰ろうとしたとき、
「なんでって、俺が涼介に一目惚れしたから、妹を紹介しようと思ってんけど、嫌か?」とアキちゃんに言われてしまいました。
私は訳の分からないまま、彼にからかわれていると思い、怒るべきか、それともそのまま無視して帰ろうかと迷っているときに、
「あっ、来た!」とアキちゃんが言いましたので、私は振り返って店の入り口に視線を向け、こちらへ歩いてくる愛子を見た瞬間、
「うそ~! なんであんなにキレイんですか~!」と、私の気持ちを薫が大声で代弁してくれました。
愛子は私たちの席に来て立ち止まり、すこし頭を下げながら、
「初めまして、福山愛子です。兄がお世話になっています」と言って、私の隣の席に座るなり、
「いやっ! 目の前で見ても、めちゃめちゃきれい!」と、またしても薫が、私の心の叫び声を大にして、愛子に届けてくれました。
「愛子、薫ちゃんと涼介」とアキちゃんが私たちを紹介すると、
「あっ、薫ちゃんと涼君、はじめまして」と愛子が言いましたので、私はいきなり涼君と呼ばれて、(この兄妹、どっちも馴れ馴れしいな)と、一瞬だけ思いましたが、その反面、涼君と呼ばれたことが、とても嬉しかったことを憶えております。(あとで愛子本人から聞いた話なのですが、このとき愛子は、アキちゃんが涼介と言った言葉がはっきり聞こえず、涼だけしか聞き取れなかったことと、明らかに私が年下に見えたので、咄嗟に涼君と言ってしまったそうです)
私はアキちゃんと愛子が良く似ていることに驚きながら、とにかく愛子の美しさに、ほとんどではなく完璧に一目惚れしてしまい、確かに薫もきれいでしたが、愛子の近寄り難いほどの大人の女性の色気と、高貴な生まれを思わせるような、透明感のある凛とした美しさの前ではすっかり霞んでしまい、もう薫のような尻の軽い女はどうでもいいと、心の底から思ってしまいました。
それから4人で食事を始めたのですが、アキちゃんがいきなり、「愛子、俺は涼介に一目惚れしてんけど、お前はどう思う?」とか、「愛子のほうが2歳年上やけど、お前らお似合いやで!」といった感じで、なぜか愛子に私のことを売り込み始め、愛子はその都度、
「もうっ、お兄ちゃん!」と言って、少し顔を赤らめていました。
私はアキちゃんが冗談を言い続けていると思いながらも、とにかく愛子のことが気になって、ほとんど会話の内容も憶えていませんでした。しかし、その時に一番印象に残っていたのは、愛子が妙なイントネーションの関西弁を話していたということでした。
(後にアキちゃんと愛子から聞いたのですが、二人はもともと横浜で生まれ、両親の死後に東京の育ての親に引き取られ、それからは東京で育ったそうです。その後、里親が貧乏であったために苦労が絶えず、育ての親の死後に、愛子が高校を卒業するのを待って、二人でいい思い出の無かった東京から大阪に引っ越してきて、何事においても器用なアキちゃんは、すぐに関西弁をマスターしたと、当時はそう話してくれたのですが・・・)
その後、私たちは2時間ほど食事をしていましたが、アキちゃんがとつぜん愛子に向かって、
「お前、お金貸してくれ」と言って、愛子から財布を受け取ったあと、今度は自分のポケットから鍵を取り出して、「涼介、愛子はお前のことを気に入ったみたいやし、俺は今日から薫ちゃんの家に泊まるから、涼介は愛子と一緒に、俺の家に住んでくれ!」と言って、本当に家の鍵を私に渡しましたので、私が驚いていると、アキちゃんは薫を連れて、勘定を済ませて本当に帰ってしまいました。
「!・・・」
その時、いきなり瑞歩が寝返りを打って体を反転させて、半身を起こしている私の顔を下から仰ぎ見るようにして、
「それで、それからどうしたん?」と言いました。
「それで・・・ その時、俺は実家暮らしで家が宝塚やってんけど、終電も出た後でタクシー代も無かったから、どうしようって正直に話したら、愛子も財布ごとアキちゃんに渡してしまったから、持ち合わせがなくて・・・ とりあえず店を出て、俺が朝までどっかで時間潰して始発の電車で帰るって言うたら、愛子が一緒に付き合ってあげるって言うてくれて、朝まで近所の公園で話ししてん」
「えっ? 家に行かへんかったん?」
「そんなん、初対面やのに、泊まりになんか行かれへんやろう?」と言うと、瑞歩は少しだけ首を傾げながら、
「そうかなぁ?・・・ 私やったら泊めてあげるけど・・・」と言いましたので、(そんなアホな!)と思いながら、
「そんなこと言うてるだけで、瑞歩も実際にその立場になったら、初対面の人を泊めたりできひんって!」と言いました。
「だから、私は涼介やったらって話やん。誰でも泊めるわけないやろう! それで、それからどうなったん?」
(なんじゃそれ?)と思いながら、
「それで、朝になって別れしなに、愛子が電話番号を教えてくれて、俺はいったん家に帰って寝てんけど、考えたらアキちゃんと愛子の家の鍵を返すのん忘れてたから、その鍵を返すことを口実に、夜になって愛子に電話してんな。そんだら愛子が、アキちゃんから電話があって、薫が俺の初恋の人で、俺が薫を好きやってことを薫がアキちゃんに話して、それをアキちゃんが愛子に話したらしいねんけど・・・ それでアキちゃんが、事情を知らんかったから、悪いことをしてしまったって、俺に謝りたいから、俺から連絡があったら家に呼んでほしいっていうことになって、今からでも家に来られへん?って愛子に言われたから、とりあえず家に行ってんやんか。
そんだら、家の中に入った瞬間に、いきなり玄関のとこでアキちゃんがごめんなさいって、土下座して謝りだして、俺がもういいですよって言うたらな。アキちゃんが、お前が赦してくれるんやったら、俺は今から薫のとこに戻るけど、涼介は今日からほんまにここで住んでくれって言うて、ほんまに出てってしまって・・・
そんだら今度は、愛子がアキちゃんの代わりに謝りだして、それからいろんな話をしてんけど、気がついたら電車が無くなってて、結局は家に泊まってんけど」と言った時、瑞歩が興味津々といった感じで目を輝かせて、
「それで、家に泊まってどうなったん?」と言いました。
「その時も、朝まで愛子といろんな話をしたな」
「えっ? また、朝までお話ししただけ? キスとかせぇへんかったん?」
「そんなこと、2回目でできるわけないやろう!」と言って、瑞歩の顔を見たとき、
「じゃあ、愛子叔母さんと初めてキスしたんは、いつ?」と、瑞歩は真面目くさった表情で訊ねてきました。
愛子と始めてキスをしたというか、愛子から不意にキスされたときのことを思い出し、
「愛子と始めてキスしたんは、それから2ヶ月くらいあとやったな」と言いました。
「えっ! キスするのに2ヶ月もかかったん?」
「・・・・」
確かに2ヶ月は早いとは思いませんが、決して遅いとも思いませんし、何よりも私から愛子にキスを迫ったのではなく、愛子のほうから仕掛けてきましたので、決して自慢するつもりはなかったのですが、なぜかとつぜん、瑞歩に自慢しようと思い、
「あのな、俺と愛子が初めてキスしたときな、俺からじゃなくて、愛子のほうから」と言ったとき、
「!・・・」
とつぜん瑞歩が右手を伸ばしてきて、私の口を塞ぎ、
「私は状況なんか訊いてない!」と、不機嫌な顔で言ったあと、口から手を離しました。
(自分から訊ねとって、急になんやねん!)と思っていると、瑞歩は不機嫌な顔のまま、私を少しにらみながら、
「もう分かったから、そのお話しはもういい!」と言いました。
「?・・・」
瑞歩が、何を分かったのかと訊ねると、
「パパが昔から、相当おかしな人間やってことが分かったし、涼介が初恋の人をパパに寝取られたってことが分かったし、涼介が意外と奥手やってことが分かった」と言いました。
「・・・」
確かに瑞歩の言うとおり、アキちゃんは昔から相当おかしな人間ですし、私は初恋の相手をアキちゃんに寝取られましたし、私も考えようによっては奥手なのかもしれません。
しかし、私が奥手かどうかという問題は、あくまで相手によりけりで、どんな名うての色男でも、愛子のような美しい女性を前にすれば、それ相応の時間がかかるだろうと思ったときでした。
瑞歩が私の目をまっすぐ見つめながら、
「それと、涼介のお話しを聞いてて、私はパパと愛子叔母さんが、涼介に嘘はついたけど、裏切ったんじゃないって思った・・・
確かにその当時は、どういう事情で苗字を嘘ついて、育ての親が死んだって言うたんか知らんけど、決して涼介を騙そうと思って嘘をついたんじゃなくて、何か理由は分かれへんけど、例えばドラマみたいに、石本加代が元犯罪者やったとか、よっぽどの事情があったから、その時は仕方なく嘘をついたんやと思うねん・・・
涼介もいま、私に二人のことをお話ししてて、そう思えへんかった?」と言いました。
「・・・・」
瑞歩にそう言われて、改めて考えてみると、不思議なことに先ほどまで頭の中で渦巻いていた二人に対する疑念が、まるで嘘のように消滅していることに気付きました・・・
確かに、アキちゃんと愛子は私にそんな嘘をついて、何かメリットがあったとは思われませんし、どの角度からどう考えてみても、私もその嘘によって、何か被害を被ったとも、不利益が生じたとも思いませんので、やはり当時の二人には、私に言えなかった特別な事情があったのでしょう。
「そうやなぁ、あの当時の二人は俺を裏切ったんじゃなくて、理由は分かれへんけど、俺にほんまのことを言われへんかった、よっぽどの事情があったんやと思うわ」
瑞歩は、私の返答に安心したのか、表情を和らげて、
「そうやろう。だから、私は愛子叔母さんのことはよう分かれへんけど、改めてパパを信じてみようと思うねん」と言いました。
やはり、私にとってアキちゃんはアキちゃんであり、信じるべき存在であるということを再認識したあと、
「俺も改めてアキちゃんを信じることにするから、いまどこで何をしてるか分からんけど、とにかくこれから何があるにせよ、すべてアキちゃんに任せてみよう」と言いました。
「・・・・・」
瑞歩はすこし間を置いて、「うん」と言ったあと、とつぜん柔らかな表情が曇り、私が今まで見たことのないぎこちない表情で、
「なぁ、もし愛子叔母さんが見つかったら、涼介はどうする?」と言いました。
「・・・・」
突然そんなことを訊かれても、どう答えていいのか分からなかったので、
「その時になってみな分かれへんけど・・・」と言ったあと、本当に愛子の居場所が分かったということを、しばらく考えてから、
「多分、愛子に連絡はするやろうけど、もしも愛子が俺に会いたくないって言うたら、俺から会いに行くことは無いと思う」と言いました。すると瑞歩は、複雑な表情のまま、
「私、初めて訊くけど、なんで愛子叔母さんと10年以上も一緒におったのに子供ができひんかったん? それは、作れへんかっただけなんか、それとも何かの原因があって、子供ができひんかったん?」と訊ねてきました。
私は愛子と子供について、何度も話し合ったときの情景を思い出しながら、
「何か原因があって、子供ができひんかったんじゃなくて、単純に愛子が、40歳くらいまで子供は欲しくないって言うたから、作れへんかっただけやねん」と言いました。
「そうやったん・・・ 愛子叔母さんって、子供が好きじゃなかったのかなぁ?」
私と愛子は2年の交際・同棲期間を経て、私が大学を卒業したと同時に入籍し、私は大阪の地方銀行へ就職しました。その後、順調に給料が上がっていきましたので、結婚3年目を過ぎたあたりから、私は愛子が子供を産んでくれることを望みました。
しかし、何事においても穏やかで、主義主張の少ないおとなしい性格の愛子が、こと子供に関することだけは一歩も譲らず、私はどうしても愛子を説得する事ができずに、結局は子供のいない夫婦のまま離婚してしまったので、いま思えば結果的には、子供がいなくて良かったのかもしれません。
「もし、子供がおったら、愛子叔母さんと離婚してなかったと思う?」と、瑞歩が訊ねてきました。
「それは、どうか分からんわ・・・ もともと俺から離婚しようって言うたわけじゃないし、もし子供がおったとしても、世の中には別れる夫婦がいっぱいおるからなぁ」と言うと、瑞歩はとてもさびしそうな表情を浮かべて、
「涼介には悪いけど・・・ やっぱり私、愛子叔母さんのことを聞けば聞くほど、何を考えてたのか理解できひんような気がする・・・」と言いました。
「・・・・」
どう答えていいのか返答に困っていると、なぜか瑞歩も私と同じく、困っているのか、それとも微笑んでいるのか、どちらともつかない奇妙な表情を浮かべて、
「涼介はまだ、愛子叔母さんのことを愛してる?」と言いました。
「・・・・・」
私は今でも愛子のことを愛しているのかと、自分の心に問いかけてみましたが、結局は自分でもどう思っているのか答えが出ませんでした。なので私は、
「別れて5年も経つから、愛してるかどうかは自分でも分からんし、そんな一言で片付けることが出来んくらい、いろんな思いがあるけど、今はほんまに、愛してるって感じじゃなくて、どこで何をしてるんやろうって心配はしてるし、愛子が無事で幸せに暮らしていてほしいと思う」と言いました。
「・・・・」
瑞歩は無言で、何か考えているといった表情をしましたので、おそらく私の答えに納得していないのだろうと思いましたが、私は自分が思っている正直な気持ちとして、
「それと、別れるときに色々あって、今も疑問だらけやけど、改めて愛子のことも信じてあげようと思う」と言いました。
「愛子叔母さんのことを信じるって、なにをどう信じるの?」
「それは、はっきりしたことは自分でも分かれへんけど、愛子が俺と離婚したことも、その後で行方不明になったことも、今回のアキちゃんの失踪と同じで、裏によっぽどの事情があったから、そうするしか他に道はなかったんであって、愛子が俺を裏切ったんじゃないって、そう信じてあげようと思うねん」と言いました。
瑞歩はぎこちない複雑な表情のまま、
「そう・・・涼介がそう言うんやったら、私も愛子叔母さんのことを信じることにする。それと、私は涼介のことも信じてるよ」と言いながら、布団の上に置いていた私の右手に自分の右手を重ねてきて、しっかりと握り締めて、
「もう眠いから寝る。おやすみ」と言いました。
「・・・・・・」
瑞歩に『おやすみ』と言うのを忘れて、しばらく何も考えられずに、彼女の柔らかく暖かい手の温もりを感じていました。
それにしても、この状況で私を信じているということが、どういうことなのかと、自から進んで複雑に入り組んで考えているうちに、いつのまにか瑞歩は、まるで安心しきった幼い子供のような安らかな表情で、静かな寝息を立て始めました。
私は空いている左手で、頭上の壁に取り付けられた読書灯を点けたあと、リモコンで寝室のメインの照明の明かりを消しました。
すると、月明かりのような淡いトパーズ色の読書灯に照らし出された、瑞歩の妖しいまでに美しい寝顔が浮かび上がりました。
「・・・・」
私は無言のまま、しばらく瑞歩の寝顔を見つめながら、もしも隣で寝ているのが瑞歩ではなく愛子であれば、どんなに気が楽だろうと思いました。
読書灯の明かりを消したあと、けっきょく朝まで眠ることができませんでした。
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