まなざし

@budon

まなざし

 雪がちらつく冬のある日の街中。僕は手をあっためるために、手を摩ってみた。

 僕は冴えないからか、影が薄いようだ。仲のいい友人と一緒に居ても、その場にいることをなかなか気づいてもらえないことが多い。存在を認識してもらえない。たとえ長い時間を共にした人であっても、だ。自分の存在を知らせるために、接触しようとするとなぜか鬱陶しがられることもある。そんなの矛盾していると思うかもしれない。だが実感としてはそうだ。そういう事実に、僕はそんなに気を落としたりはしない。幼い頃に経験したことと比べると、屁でもない。

 幼少期のこと。僕は親にプールへぶち込まれた。泳ぎの練習をさせたかったのだろうか。生まれて間もない頃にそんなことをされるので、当然泳げるわけはなく、海底にいる貝のように底の方で沈んでいるほかなかった。僕が小さい頃について覚えていることは、そういったことと、プールの底から見えた親の歪んだ顔しかない。トラウマになってしまったので、あれ以来水には近寄れない体質になってしまった。

 手を摩ったので、だいぶ体があったまってきた。こんな寒い日には温かい食べ物があると最高だ。僕はベンチに座り、何を食べたいか考えながら、目の前の道で行き交う人々、そして道端に視線を移し、最後には隣にいる彼女の横顔へそれを向けた。この彼女すらも、僕のことをあまり構わない。度々ちょっかいを出すのだけど、その時は僕のことを意識してくれるものの、それ以外の時は空気のように扱われる。彼女はどういう思いで僕といるのだろうか。嫌われているのかもしれない。でも僕は、彼女と一緒に居られるだけで、僕は幸せなのだ。

 どうやら彼女は別の場所へ移動したいらしく、スマートフォンの地図アプリを開いてこの付近を調べている。僕は彼女がどこへ行きたいのかを知るために、彼女に顔を近づけ、スマートフォンを覗き込んでみた。でも、またいつものように嫌がる素振りを見せてくる。手で振り払う仕草をしたり、スマホの位置を変えたり。仕方がないので、今回も諦めた。


 もう十分羽休めができたと丁度思っていたところ、彼女も行き先を決めたようで、立ち上がって歩き始めた。僕はいつも、彼女が行く先行く先についていくだけだ。

 彼女はよく小洒落たカフェに行く。カフェとひとくちに言っても、人通りの少ないところにひっそりとある店や、ワイドショーで取り上げられるような人気の店まで、実に様々なカフェが存在する。僕も彼女と行くようになって、こんなにも種類があるものなのか、と驚いた記憶がある。

 彼女は店に着くと、まず自分の手帳を開く。そして何かを書き終えてから、メニューを確認して、注文をする。手帳は見せてくれないのだが、おそらく店の第一印象を文章に起こしているのだろう。なぜなら自宅へ帰ると、必ずパソコンに向かって、その日に行ったカフェの感想を、口コミサイトに書いているからだ。なぜスマートフォンを使って書かないのかはよく分からない。

 今日も、例に漏れずその流れが組まれていた。彼女が向かった先は、先ほどいた場所から徒歩数分のところにあったカフェだった。店に入って、窓際の席につく。今日の店は白色を基調とした店内で、とても開放感がある。天井にはシーリングファンと呼ばれる、空調機器が

回っていて、洒落た感じも演出されていた。店員が彼女にメニューを持ってきたが、いつものようにそれを受け取ってもすぐに見ることはせず、手帳を開き、文章を書き始めた。この作業は予想以上に時間がかかるようで、僕は彼女が書くのを眺めながら、書き終わるのをしばらく待っていた。彼女の横顔は、見れば見るほどうっとりしてしまう。

 しかし、僕がそんな彼女の横顔に見惚れていると、突然後ろから手が伸びてきた。かろうじて避けたが、危うく僕に当たるところだった。憤慨した僕は店員をにらめつけようとしたが、店員の方も苛ついた顔つきをしていた。それを見ただけで怖気付いてしまった僕は、彼女を連れてこの店を出ようとした。

 更に店員は僕に迫ってきて、ついには店から追い出されてしまった。これは予想外だった。これまでそんな仕打ちを受けたことはなかった。だが、一連の出来事が起こったにもかかわらず、彼女は素知らぬ振りをして店内に居座っている。それどころか、どうやら先ほどの店員と何やら話をしている。しかもやけに親しげだ。注文をするだけでそこまで親しそうに話したりするものだろうか。

 窓越しにその光景を見ながら、僕は嫉妬と悲哀の入り混じったなんとも言えない気持ちを抱いていた。


 どれくらい時間が経っただろうか。日が暮れてきて、街灯がつき始めた頃に、彼女はようやく店から出てきた。僕はというと、彼女が出てくるまで、店の外にある、客が待つときに座る用の椅子に座って、なぜ追い出されてしまったのか延々と考えていた。彼女は僕に気を止めず、軽やかな足取りで帰路に就こうとしている。顔つきもなんだか明るい。どうやら彼女にとって嬉しいことがあの店で起きていたようだ。

 彼女はずんずん進んでいき、僕を置き去りにして行く。自宅までは最寄りの駅まで電車に乗り、そこからは徒歩なのだが、歩いているときはもちろん、電車に乗っている時でさえ、距離は近いはずなのに、なぜか自分の届かないところに行ってしまったかのような感覚に襲われた。

 自宅に着いた。着いてすぐ。彼女はいつもより晴れやかな雰囲気を振りまきながら、パソコンの方に向かった。僕はソファに静かに座り込み、パソコンに向かう彼女の背中を見ながら、目の前の机にある夕飯を食べようとした。

 白米にまず手をつけようとしたところで、はたとあることに気づいて、動かしてした手を止めた。今帰ってきたばかりなのに、なぜここに夕食が用意されているんだ?そう思ったときには既に背後から影が近づいていて、何をしても遅かった。

 パンッ!


 「姉ちゃん、ここに蚊みたいなのがいたから殺しておいたよ。」

 「本当?ありがとう。そいつ、もしかしたら最近自分の周りをよく飛び回ってたやつかも。すごく鬱陶しかった」

 「ちゃんと体洗ってるの?臭うから寄ってくるんじゃないの?」

 「バカ言わないでよね。もしそんなだったら、男性から食事に誘われることなんてないでしょ」

 「え、まじで?誘われたの?誰に?」

 「カフェの店員に。今日行ったお店は初めて行ったんだけど、そこで店員をしてた人が、実は以前他のお店でも働いていた人で、向こうから話しかけてくれたの。で、思っていた以上に話が盛り上がったはいいものの、彼はまだ勤務中だったから、別の日に会う約束を取り付けたってわけ」

 「姉ちゃんを誘う人なんているんだな」

 「ん、何か言った?」

 「いやいや、なんでもないよ。それより早く母さんの作った夕飯食べてよ」

 「うん、わかってる」

 

 ソファの上で死んだ蚊は、潰れた際にできた羽の形だけを残して、ティッシュにくるめられ、捨てられてしまった。

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