七章

 目が覚めた。

 息苦しい。

 体が焼け付くように痛い。

 気がつくと僕、天神真也は、暗い場所に一人倒れていた。

 敵に撃たれて、それで……それから、なんとか防ごうとして、こころが熱くなって……それより先の記憶がない。

 気絶して、見知らぬ場所まで運ばれたのだろうか?

 いや、そんなはずはない。

 気絶していたのになぜわかるかとえば、それはここがどこからどう見ても現実じゃないからだ。

 これは夢だ。

 こんなセカイはあり得ない。

 赤い炎と暗い空。

 悪い夢から覚めることを願って僕は再び眠りについた。




 再び、目が覚めた。

 目を開けるとそこは相変わらずの暗い空が広がっていた。

 雲は見えるが光量が乏しい。

 乾いた大地に手をついて僕は立ち上がった。

 体を痛みが蝕んでいる。

 大地は見たところ緩やかなお椀型を描いて少し先の地面に続いていた。

 どうやら僕はクレーターのような場所の中腹に立っているらしい。

 振り返って見て、僕は驚いた。

 僕はよく感情が乏しいと言われるが、そんな僕でもびっくり仰天だった。

 大地は僕のすぐ後ろで途絶えていたのだ。

 いや、後ろが川とか、海だとかいう意味じゃない。

 浮遊島の端っこというわけでもない。 

 その大地の先にはただ、『無』が『混沌』が広がっていた。

 何もない漆黒の闇が広がっていたのだ。

 僕は恐る恐る大地の淵から離れて、情けなく悲鳴をあげて逃げ出した。

 少し走って、クレーターの外まできたあたりで力尽きて地面に倒れこんだ。

 おかしい、どうも身体能力が低下しているような気がする。

 それに、この痛み。

 体を毒が蝕んでいるように感じる。

 最悪の夢だった。

 僕はクレーターの外へ出て、改めて辺りを見回す。

 大地は乾いてカサカサだ。

 そして、干魃だけでは説明できないほどにあちこちがひび割れていた。

 空を虫のようなものが群をなして飛んでいる。

 地上に残ったわずかな草木は残さず燃えていた。

 赤い炎の生む光が暗い大地を妖しく照らしている。

 炎はどれも一向に消えないようだった。

 ふと、足元を見下ろすと、氷が地面を穿って落ちていた。

 目を凝らして周囲をもう一度見回したら、同じようなものがたくさん落ちている。

 そして、それがただの氷ではないのだ。

 その、それらの氷は血のように赤かった。

 触れるとひんやりと冷たく、溶け出す。

 僕は手を払った。

 気持ち悪い。

 不思議なことに、僕の体温では溶けるくせして、木々を燃やす炎の熱では溶けないらしかった。

 火のそばにも氷が凍ったままで落ちている。

 風景はまるでカットされたピザのような形であるように見えた。

 尤も、地平線の向こうがどうなっているかはわからないので判断のしようがないが、ともかく大地が、空が、六十度弱の角度の内部にしか存在しないことは確かだった。

 特進中学学習課程にいた僕は物理の授業でならった、宇宙の話を思い出した。

 先生曰く、「宇宙に果てはないが、宇宙の大きさが限定されている。それは『地球というものが二次元的に見て果てのない円であるが、三次元的に限りのある球である』ように宇宙は」ということらしい。

 このセカイはまさに地球の一部を宇宙の一部として四次元的に切り取ったように思えた。

 いや、何が言いたいのか自分でもわからなくなってきた。

 夢に理屈をつけるのは無駄だな……。

 とにかく僕は寝オチまでもう少しの間、この場所を探検してみることにした。

 不気味ではるけれど、何か面白いこともあるかもしれない。

 これが、悪夢でないことを祈ろう。

 どうせ、だれかの名前が僕に向かって何度も叫ばれるあの夢より酷い悪夢なんて存在しないだろうし……。

 空は夜のように暗いが、所々で火が燃えているので明かりには苦労しないだろう。

 本音を言えば、もう少し明るくして星のだが、空には雲が少ないにもかかわらず、星も月も出ていないので暗いが、仕方がない。

 とりあえず『混沌』から逃げるように僕は歩き始めた。

 そちらには進めない、いや物理的には進めるのだろうけど、嫌だし……。

 『混沌』には物理法則なんてものが通用するとは思えないが。

 正に夢のセカイというわけだ。

 だが、暗い大地を一人で進むのは心細い。

 迷子になった時はその場を動いてはいけないと言うが、残念ながらサービスカウンターのお姉さんに呼び出されることはなさそうだ。

 僕は地割れと、赤い氷に気につまずかないようにをつけて歩こうとして、そこで左手の中指に白銀色の指輪がはまっていることに気づいた。

 ソラスの指輪だ。

 夢の割に細部までしっかり再現されている。

 流石は僕の夢だ。

「ソラス、ソラス! 話し相手になってくれないか?

 ××えもんの歌を歌ってくれるだけでもいい」

 僕は喜び勇んで指輪に語りかけた。

 側から見れば異常者だが、ここは僕の夢だ。

 恥もへったくれもない。

 ソラスはどうやら時々、僕の夢に干渉しているらしいので、返事してくれるとしたら、その彼女は本物かもしれない。

 だが、彼女への隠し事は今更だった。

「××えもん、とはなんなのです? マスター」

「うぉぉぉおあぁ!?」

 不意に隣から話しかけられて僕は再び腰を抜かした。

 そして、首の骨が折れるかと思うくらいのスピードで横を見る。

 そこにはローマ風の着物、(たしかトーガ?)を着た白と黒の髪を持つ女性だった。

 年は僕とそう変わらないように見える。

「マスター。この姿では初めまして! ソラスです!」

 女の子はトーガの裾を両手でつまんで軽く持ち上げて見せた。

「は、はじめまして」

 挙動不審になりながらも、僕も挨拶を返す。

 夢のくせに、シルクハットは登場せず、完全にエアーだったが。

 彼女は左手で僕の右手を握った。

 そして、あたりを見回している。

「え〜と……。とりあえず、××えもんは崩壊前の日本国出身の人気アニメだ!」

 驚きで惚けていた僕は反射的に彼女の質問に答える。

 そして、とりあえずまっすぐに歩きながら、目下最大の疑問を彼女に尋ねた。

「いやいや……、そんなことよりソラスは実体化できたのか?」

「普段は剣の姿でしか実体化できませんよ? ここはマスターの精神こころの中のセカイですから、私も介入できたんだと思います。

 何せ私は救済者の監督役ですから!」

 えっへんと胸を……、今のナシ。

 えっへんと胸を反らしたソラスを見て呆れ気味に僕は言う。

「ソラス記憶がないって言ってたのに、なんでそんなことがわかるんだい?」

 そう聞くとソラスはやや困ったような表情になって、顎に可愛らしく手を当てて可愛らしく唸る。

「うむむむむ……。

 えー……、正確には記憶はあるんです。

 でも……、それは私があの台座でマスターに反応して目覚めた時に台座から受け取ったものであって、私のものかは微妙なんですよ……。

 ……いや、多分私のものなんですけどね。

 どれも記録って感じでそのときの事態に対する感情が全く思い出せないんです」

 ソラスはそう言って物憂げな表情で押し黙った。

 沈黙が痛い。

 体も痛い。

「そうだ、ソラス。

 これって夢なのか? 心の中って言ったよな?」

 僕は気まずい沈黙を破るべく、彼女にそう切り出した。

「いいえ、マスター。その表現は適切ではありません。

 正確には、ここはあなたの精神の中なのでしょう。

 セカイを囲む混沌はおそらく流動する精神エネルギーです。

 つまり、私たちは今、精神界の中にある謎の場所に来ているというわけですね。

 おそらくは概念化された大地と空……。

 まさに神の所業ですね」

「僕が知る限りで、最も大容量の概念化は初代四方院当主の方だ。

 その方でも建物一つを概念化しただけだったはずだ……。

 十分以上だけどな……。

 これだけの空間の空間を概念化することは不可能だろ?」

 僕の質問を吟味して彼女はそう答える。

 僕は彼女の言葉に問いで返す。

 それに概念化された空間なら、その概念が収束した時点で放出されて現実界に姿を現しているはずなのだ。

 精神界、魔術のプロセスに関する重要な概念だ。

 しかし、それを観測することはできないのではなかったか?

 そもそも、精神界はそれこそ先ほどの『混沌』のように流動し、固定されることを嫌うはずなのだ。

 魔術はその、魔術師が固定したイメージを現実界に押し出すという性質によって発動される。

「ソラス、それはおかしい」

 僕はそう、ソラスの言葉を否定した。

 そう、こんなセカイという固定された者が存在するのはおかしい。

 こんな莫大な固定概念の塊が精神界の中に存在できるわけがない。

「そうですね。ゆえにマスター、このセカイはおかしいです。

 ですが、ここが精神界なのは間違いないですよ?

 他ならぬ精霊である私が言うのですから!」

 そして、ソラスはそんな僕の反論を、難なく肯定した。

 部分的にだったが。

「ソラスって精霊だったのか!?」

「今さらですか!?」

 だが、僕が気になったのはまず、そこだった。

 ソラスが呆れたように叫ぶ。

 彼女は昔は人だったが、長く祀られるうちに精霊になったのだそうだ。

 ずっと、プログラムか何かだと思ってた。

 愛七に慣れてたからかな……。

「マスター、思いついたのですが、もし、ここが概念化された空間であるなら、マスターがそれを行った張本人なのでは?

 記憶を失う前のマスターが概念化を施したなら、納得できます。

 その場合、私がマスターにしか入れないはずのこの場所にこれたのも納得です。夢に干渉したのではなく、マスターの精神に干渉したんのではないですか?」

 愛七はブツブツと呟く。

 概念化された物質は、その主の精神の中に収められ、その後、主がそれに対すイメージを精神界の自身の精神の中で集めることで現実界に顕現される。

 そして、その具現化の作業の最中に主はその物質を幻視するほどに強くイメージする必要が有る。

 ソラスを顕現させる時に、使う指輪のように、具現化にそのイメージを生むためのアイテムを用いるのはそのためだ。

 そして、もし、その概念がとてつもなく大きなものだったとしたら、そのイメージを固めるのには長い時間がかかるのかもしれない。

 つまり、ソラスは僕が今、このセカイを現実界に顕現するための集中の最中ではないのか? と言っているのだ。

 ここが精神界内の僕に付属する精神の中ならありえなくもない仮説だった。

 なにせ、僕には記憶がない。

 もしかすると、記憶を失う前に世界新記録レベルの概念化を成功させたんじゃないの? と聞かれても完全には否定できないのだ。

 考え込んで、僕が黙ってしまったので、ソラスも黙って歩き続けた。

 二人は手を繋いだまま、精神の中のセカイを歩いていく。



 しばらく僕らは黙って歩いた。

 丘のような場所を登り頂上に来てみると、丘の先は海になっていた。

 その海の先は、少なくとも地平線まで海くらいしか見えない。

 いや、ちょっとショックのあまりスルーしていたが、謎の物体が浜の近くの海から突き出ていた。

 浜は普通だ。

 もちろん、一般的なビーチとは言えないが、砂浜と燃える草があるだけで、ものすごく違和感を感じるわけではない。

 違和感といえば、海そのものも異常だった。

 海水は、そう、赤黒く見えた。

 最初、遠目に見たときは光が乏しく、少ない光源が赤い光だからだと思ったが、どうもそうではないらしい。

 漂ってくる香りは、潮風のそれではなく、鉄臭い。

 ちょうど、血のような匂いだった。

 いや、ような、ではない。

 海水があるべき場所に大量にあるのは血そのものだったのだ。

 北欧神話あたりの巨人を殺せばこれぐらいの血が流れるのだろうか、と僕は現実逃避気味に考えた。

 どうやら、これは夢ではないらいしいけど、こんなものが無意識領域に存在する時点で僕は相当やばい人間なのかもしれない。

 とにかく、海は文字通り血の海だったのだ。

 そして、そんな異常な海の中にあって、大量の血の存在を霞ませるほどに異常な建造物がある。

「ソラス、あれ何かわかる?」

 僕は隣で僕と同じように呆然と立ち尽くしているソラスを見た。

 こんなときになんだけど、呆然としているソラスは綺麗だ。

「この感じ……まだ、何も終わっていなかった? 寧ろ、六つ目までは序の口にすぎなかったというのですか? 七つめが……こんな……」

 そして、彼女は僕の声が聞こえていないようだった。

 なにやらつぶやいているけど、意味がわからない。

 その表情からして、深く聴いてはいけなさそうな雰囲気があった。

「ソラス……、ソラス! とりあえず、海のそばまで行ってみないか?」

「マスター……。すみません。そうしましょう」

 素直なソラスの手を引いて、僕は海岸へ向かった。

 船の類は見当たらず、海中から立ち上がった十字架まで行けないのかと思ったが、よく見るとその交差点まで浜から伸びる透明の階段が見えた。

 黒と銀の十字架の十字架の交差点まで伸びる階段の上では、何かが黄金色の輝きを放っている。

 背景がちょっとあれだけど、ファンタジー系のゲームにありそうな展開だった。

 ボスモンスターが出現するかもしれないと、演技でもないことを考えながら、未だに、心ここに在らずといった雰囲気のソラスを引っ張って階段の方へ歩く。

 階段の正面まで行くと斜めに見えていた十字架も正面から見えた。

 そして、そこには何かが磔にされていた。

 それは人のようで人ではない。

 純白の六枚の翼を力なく垂らし、翼と同じように純白の髪を持ち、中性的なその体からは眩い紅の光が放射されていた。

 ソレの両手はキリスト像のように銀と黒の杭で同色の十字架に止められており、さらに同色の鎖がその体を柱に縛り付けている。

 そして、不思議なことにソレの口は黒い布のようなもので完全にふさがれていた。

 ソレが神々しいので、ただの猿轡さるぐつわには思えなかったのだ。

「兄上? 兄上っ!? こんなところにおられたのですか!?」

「はぇ?」

 不意に階段の上の方から声が聞こえたので、ソレに見とれていた僕は間抜けな声を出した。

「兄上! 私です!」

 僕は上の方から聞こえてきた声を聞いて困惑する。

 僕はその声に聞き覚えがあったのだ。

 しかし、なぜ、彼女が僕の精神の中のセカイにいるのかは不明だ。

 もしかすると僕の妄想かもしれないと思った。

 なにせ、彼女の声を聞いたのは十年前の一度だけにもかかわらず、毎日一度はその声の幻聴を聞いていたからだ。

 その声は僕をだれかでないと否定してくれた女の子のものだ。

 僕は声につられて階段へ足をかけた。

 ソラスはいつの間にか消えている。

 彼女の手のぬくもりだけが、右手の指輪を通じて、手のひらに今も伝わってきていた。

 透明の板が海の上へまっすぐに伸びている。

 下は血の海だが、恐れていても始まらない。

 透明の階段は途中で消えることも落下することもなく、僕を十字架の前の黄金色の光まで運んでくれるようだった。

 階段の一番上は、ある程度広い透明の床があった。

 そして、そのすぐ前に十字架の交差点があった。

 そこには先ほどのソレがいる。

 ソレは死んだように動かなかった。

 そして、その目の前には床から透明の祭壇のようなものが突き出ていて、その上には、まるで十字架に磔にされたソレに捧げるかのように黄金の長く伸びたラッパが置かれていた。

 そのラッパは磔にされたソレに負けないほどの光を放っている。

 そして、その光の前に彼女は立っていた。

「兄上、そんなところにいないでこちらへ、祈の方へ来てください!」

 黄金の光に映える桜色の長髪を持つ彼女はうっとりとした表情で僕の方へ語りかける。

 いや、正確には僕ではなく、僕の中の彼に話しかけているのだが。

 が、そこで、誰もいないはずの僕の背後から声がした。

「悪いけど、無理だよ。ごめんね、いのり

 その声はソラスのものではない。

 声質は……、僕と全く同じだ。

 彼が、どうして僕の後ろ、僕の中でない場所にいるんだ……。

「どうしてですか? 兄上! そんな偽物は消し去って戻って来てください」

「僕は偽物なんかじゃ……」

「黙れ、わたしは兄上と話しているのです!」

 少女の怒声に反論しようとした僕の口は、糸で縫いつけられたかのように動かなくなった。

 彼女は僕を憎悪の瞳で見つめている。

 涙が出た。

 涙が頬を伝って、顎で雫となり、透明の床に落下していく。

 僕は泣いていた。

 それは、嬉し泣きだ。

 彼女はやはり僕を間違えない。

 僕を彼と間違えたりはしない。

 僕に彼の影を重ねて見ない。

 僕は彼女に否定されることによって、少なくとも彼女にだけは存在を認められているのだ。

「祈、彼のせいじゃない。オレがやったことで、彼を苦しめている。

 悪いのは彼じゃない」

 僕は振り向けなかった。

 彼を見てしまえば、自分という存在の不確定を認めてしまうことになるから。

「消えて!」

 少女が叫ぶ。

 その声はあの時の家族とは違って、僕にかけられた言葉だった。

「消えてよ!」

「ありがとう」

 必死に、「兄上を返して!」と桜色の髪の少女は叫ぶ。

 その声に僕は礼を返す。

「消えるのは嫌だけどね」

「消えて! 兄上を返して!」

「でも、ありがとう」

 そうだ、僕は彼女の声を聞くたびに、僕が僕であると認識できる。

 僕を否定するその言葉が、僕が彼ではないことを証明してくれる。

「あなたは違う! 兄上じゃない!

 兄上を返してよ!

 わたしの兄上を返してよ!

 あなたは偽物なの!

 天神真也あまがみしんやなんて人間はこの世に存在しない!」

 彼女の言葉が僕の心に染み渡る。

 彼女が僕の存在を否定しても、僕に消えて欲しいと願っても、それは等しく嬉しかった。

「ありがとう、祈。でも、君のお願いは聞けない。

 僕は消えないし、消えたくもない。

 僕は僕だし、僕は彼じゃない。

 そう思えたのは君のおかげだ。

 僕に消えて欲しいと願ってくれてありがとう。

 そう思ってくれるなら、君が消えて欲しい僕は存在できる。

 ありがとう。本当にありがとう」

 そして、そんな僕の感謝の言葉を聞いて彼女は泣きながらセカイから消えた。

 僕はため息をつく。

 女の子を泣かせてしまった。

 それも、僕を救ってくれた女の子を。

「で、どうする?」

 と、そこで僕の後ろの彼が僕に話しかけてきた。

 僕と全く同一の声を持つ彼は僕に問いかける。

「とりあえず、なんで君が僕の外にいるかが知りたいんだけど?」

「ふむ。それはアレだな。オレと君はその……無意識領域、つまり固有精神を共有する仲なわけだから、精神も共有しているわけだろう?」

 質問に質問で返した僕の疑問に、学校の先生のように解説する彼。

「だが、授業で習った話だと、固有精神は自我を生む場所だろう? もし僕らが同じ固有精神を共有するのなら、僕と君なんて区別はできないはずじゃないか? ましてや、他人のはずの祈がこのセカイにいるのはおかしいだろ?」

「そうだね、まぁ、それはオレたちの精神が持つ特徴のせいなんだけど」

 僕の言葉を認めて彼は説明を先に進める。

 僕は生徒のごとく挙手して質問する。

「? 固有精神の特徴というと固有魔術か?」

「……、それ、オレが当てなきゃ手を挙げる意味がないんじゃないのか?

 いや、気にしないで……。そうじゃない。祈もオレも君もオレがやったことのせいで生まれたんだよ」

 彼は心底申し訳なさそうに言った。

 余計なお世話だが、彼を罵倒しても時間の無駄なのでやめておく。

「チッ……。

 とにかく、僕が気にしても仕方ない?」

「端的に言うと、そうなる。

 オレの方で解決策を考えておくから、あと数年は待ってくれ。

 君を消すのは最終手段だ」

「オイ、最終手段は禁止だぞ」 

 僕は結構本気で言ったのだが、彼は笑っていた。

 彼に任せるのは不安ではあるが、僕にできることではないので仕方がない。

 そして、彼は僕の後ろから僕の前へ歩いてきた。

 目をつぶってビビっている姿を見せるのも癪なので、意地を張ってガン見してやることにする。

 僕の視界に入ってきた彼はやはり、寸分違わず僕と同じだった。

 唯一違うのは、彼の紙の一部が真っ白なことだ。

 それ以外の外観は完全に一致していた。

「話が変わるけど、君の友人は敵に連れ去られたぞ」

 僕が落ち着いたのを見計らって彼が話しかけてくる。

 気遣いが鬱陶しい。

「僕のせいか? 僕が余計なことを言って敵の指揮官を怒らせたからか?」

「違うよ」

 僕は質問をうけて、彼は首を横に振る。

 これは気遣いではなさそうだった。

「なら、作戦が失敗したのか?」

「完全勝利を作戦成功とみなすならそうだが、正確には九割がた成功してた。

 最後の最後で、イレギュラーが発生して、颯太そうた優果ゆうか礼称れいあ翔朧かけるがさらわれた」

 なにがあったかを聞く必要はなかった。

 問題は四人が攫われたことで、やるべきなのは四人を助けに行くことだ。

「僕の体は動けるのか?」

「悪いな、それに関しても、オレのせいで撃たれてる。

 もうすぐ完治するけど」

 …………!? 撃たれた?

 キレそうになったが、もう治るんならまぁいい。

「なら、助けに行かないと!

 どうやったらここから体に意識を戻せるんだ?」

「完治すれば戻るはずだ。あと数分でな。

 境界のこちら側に来ているせいで、現実の感覚を失ってるだろうから向こうに戻っても十分強は動けないけど、間に合うよ」

 それは良かった。

 オレが全力で走れば敵に追いついて、四人を取り戻せるだろう。

「だから、オレに体を譲れ。オレが君の友人を救ってやる」

「何言ってる? 僕がやるよ。力不足か?」

「今回に限って言うならそうだよ。敵はAMP弾を持ってる。

 敵の部隊を回収に来た増援が装備している」

「クソッ!」

 僕は床を蹴った。

 最初に『檻』全体をAMPで埋めるために、敵はAMP弾を使い切ったと思っていたが、増援が来るなんて。

 さっき彼が言っていたイレギュラーもそれかもしれない。

 増援の想定は作戦にはなかった。

「なら、君はどうするって言うんだよ? AMPの中じゃ君だって無力だろう?」

 僕は彼に尋ねる。

 それとも彼は魔道が使えない空間で武装した相手に格闘術で勝つつもりなのだろうか?

「いや、オレは天使コイツを使えるから問題ない。『救済の制約呪せいやくじゅ』も効いてるから原罪オリジナルに拘束したコイツを使って敵を潰す」

「コイツってソレか? 救済のせいやくじゅ? オリジナル?

 何を言ってるんだよ?」

 彼は十字架のソレを指して、先ほどのソラスのように意味のわからないことを言う。

 だが、彼ならソラスと違って気にかける必要はない。

 根掘り葉掘り聞いてやろうと思う。

「説明している暇はない。もうすぐ目がさめるぞ?

 それに、セラフを操ってやっと救えるかどうかだぞ?」

「そうか、つまりそこの……セラフ? を使えば、僕がみんなを助けられるんだな?」

 僕は笑顔を浮かべて彼に尋ねる。

 そして、僕は答えは期待していなかった。

「バカ、やめとけ。

 オレが祈を救うためにコレに手を出したせいで、今、こんなことになってるんだぞ?」

 彼は思ったより必死に僕を説得してくる。

 その表情を見るのは少し気味が良かった。

「知ったことか、なら僕はあいつらを助けるためにソレに手を出すよ」

 そう言って僕はセラフが拘束されている十字架へ歩みを進める。

 彼が僕の正面に立ちはだかった。

「オレが代わりにやるから待ってろって!

 コレに手を出したらもう、戻れないぞ?

 制約呪に手を出すのは自殺と同じだ」

 どうやら、彼は心から僕のためを思って行ってくれているらしかった。

 制約呪とやらが何かは知らないが、AMPをなんとかしてしまうらしいセラフを操るほどのものだから相当な代償なのだろう。

 恐ろしくないといえば嘘になる。

 恐怖を感じないわけじゃない。

 死ぬのと同義だなんて、僕は死にたくない。

 逃げ出したい。

 四人を見捨てて、いや、見捨てなくても彼に一言頼めば彼が助けてくれるらしい。

 それだけで、自分は何もしなくていいのに、僕はここでじっとしているだけでいいのに僕は首を横に振った。

 それは彼に対する意地ではない。

 それは、責任感でもなんでもない。

「僕が本当に怖いのは死じゃないよ、真夜しんや

 僕が本当に怖いのは誰も僕を気にかけないことだ。

 誰も僕を知らないことだ。

 誰も僕を僕と見てくれないことだ。

 誰も僕を必要としないことだ。

 僕はそれが死よりも辛いことを知っている。

 それが死よりも苦しいことだと知っている。

 だから真夜、僕がやる。

 そのためにソレが、制約呪が必要なら仕方がない。

 僕は僕の価値を示さないと、僕を誰も必要とはしてくれないよ。

 なぁ真夜、僕からそれまで奪わないでくれ」

 彼はそんな僕の言葉を、懇願のようなものを聞いて、言った。

「いつか、必ず後悔する。それだけは言っておく。その時になってオレのせいにするなよ…………。……いや、その時は真也、君を止められなかった僕を恨んでくれ」

 そして、彼は道を開けた。

 彼は僕の後ろに回って言う。

「セラフに触れろ。そして、制約呪を受け入れるんだ。それだけでいい」

 彼は僕を見守っていた。

 僕は黄金のラッパが置かれた祭壇を超え、床の縁まで行って十字架の交差点へギリギリまで近づく。

 そこに磔にされているセラフは僕、人間と変わらない大きさだった。

 間近で見ると十字架も鎖も黒と銀の素材でできているのではなく、銀の素材の半分ほどを黒い文字が埋めているのがわかった。

 文字は見たことのない文字で、当然、仮名文字でもなく、アルファベットでもハングル文字でも中東あたりの謎の文字でもない。

 強いて言えば、漢字に似ているような気もしなくはないが、別物だった。

 僕はためらいながら手を伸ばす。

 僕の右手がセラフのほおに触れた。

『救エ』

 その瞬間にセラフを拘束する十字架から、鎖から黒い文字が僕の右手へ流れ込んできた。

 ソラスの指輪が火のように熱を持つ。

 そして、呪いに逆らうように発光する。

『救エ、救エ、救エ』

 頭が焼けるように痛む。

 このセカイを、セラフを封じ込めていた呪いが僕の右手へ殺到する。

『救エ、救エ、救エ、救エ、救エ』

 セラフの拘束が緩む。

 鎖が、呪いの文字を吸い出された鎖がセラフから発せられた灼熱の炎によって溶け出していく。

 雷光が走って、鎖を引きちぎろうとする。

『救エ、救エ、救エ、救エ、救エ、救エ、救エ』

 そして、セカイと共に拘束されていたセラフの精神が僕の精神へと流れ込んでくる。

 僕の右手から吸い込まれた制約呪が僕の精神を飲み込もうとするセラフを抑え込もうとする。

『救エ、救エ、救エ、スク……壊セ……救エ、救エ、救エ、救エ……壊、救エ、救エ救エ救エ救エ救エ救エ救エ救エ救エ救エスクスク壊セ壊セ壊セ救エ壊セ壊セ救エ救エ救エ救エ救エ救エ壊セ救エ救エ壊セ壊セ壊セ救エ救エ救エ滅セ滅セ救エ救エ壊セ滅セ救エ救エ救エ救エ救エ救エ救エ皆救エ救エ救エ殺救エ救エ滅セ滅セ救エ救エ救エ……救済セヨ…………』

 視界が白熱していく。

 頭がズキズキと痛む。

 体が熱い。

 指輪が指を溶かすほどに熱い。

 熱い、熱い、熱い、熱い、熱い。

 僕の意識が遠のいていく。

 そして、僕は意識を取り戻した。




「んや……しん……や……真也しんや!」

 誰かに揺り動かされて真也は目を覚ました。

 目を開くと、そこは夢の世界ではなく、現実だった。

 見回すと、砦から敵の部隊は消えているようだった。

 意識を失っている間に、かすかに聞こえてきた声によると、ここより少し南の西岸で敵は回収されるらしい。

 真也を揺り起こしたのは友希ともきだった。

 友希は真也を抱き起こして、必死にほおを叩いた。

「……大丈夫、起きたよ」

 真也は友希を見て、視てそう言った。

 その瞬間、真也は自分でもゾッとするほどの殺意に襲われた。

 思わず右手を自分を見下ろす友希の喉元へ突き出しかけて、ギリギリで静止する。

 友希は一瞬で真也をそっと地面に下ろして真也の手の届かない位置まで下がっていた。

「混乱してるのか? 友希だぞ、ここにはもう敵はいない」

 友希は真也の放った殺気を自分を敵と勘違いしたためだと思っている。

 真也は、自分の中から湧き上がった感情に驚き、恐れながら頷いた。

「四人が連れ去られたらしいことは把握した。

 だが、敵が痕跡をきっちり消しているせいで、どこへ向かったのかがわからない

 もし何かわかるなら話してくれ。

 かなりの怪我をしたようだし、急かしたくはないけど時間がない」

 友希は再び真也の近くまで戻ってそう言った。

 ズキズキとジクジクと痛む頭を必死に働かせて、記憶を精査する。

 体が熱く火照って思考が鈍っていた。

「すみません。もう少し考えるので、友希さんたちがどうやってここまで来たかを聞かせてもらえますか?」

 友希は頷いた。

 作戦関係の雑談を交えれば記憶が引き出されるかもしれないと考えたのだ。

「オレたちはまず、終湖つきこの捕まっている場所を見つけて、こっちの五人が時間稼ぎしている間に敵と戦って、終湖を取り戻した。

 終湖は今、特寮に帰して、湊と絵留を護衛につけている」

「よかった……」

 友希の報告を聞いて、真也はそう呟く。

 友希は頷いて先を続けた。

「本当はオレはアリサを神殿まで迎えに行くつもりだったんだけど、特寮に一旦戻る間にここでミサイルが爆発するのが見えたんだ。

 それで、嫌な予感がして雪乃ゆきのと戻ってきてみたら四人はいなくなっていて、真也がここに倒れてた。

 四人と敵の部隊が戦闘に入る所までの状況は、ここに来る途中であった響介きょうすけから聞いた」

「ミサイル? それでみんなやられたんですか?」

「いや、ただのミサイルならあいつらには通用しない。

 多分だが、AMP圧縮弾が弾頭に仕込まれていたんだろう。

 雪乃の計測結果によると最初にひかるが発散したままにしてはAMPの分布が固まりすぎているらしい。

 あとから、何かがAMP弾をここで使ったことになる。

 敵の部隊はもう持っていないようだったから、増援部隊かな」

 友希は一通り説明して、苦い顔をした。

 致命的なミスを犯してしまい、それを公開しているように見えたが、真也は追求しない。

 彼は必死に抵抗していた。

 心の底から湧き上がる強烈で、鮮烈で、圧倒的な激情をに。

 目の前に立っているこの男を生かしておいてはいけない。

 この男は殺さなくてはならない。

 殺せ。

 殺せ殺せ。

 殺せ殺せ殺せ。

 真也の心の奥にいるセラフが、制約呪を破って、友希を殺そうと必死にもがいていた。

 その感情のような、プログラムのような殺意はセラフのもので真也のものではない。

 しかし、真也はその殺意が精神の中の世界でセラフに触れた時に感じた、漠然とし破壊の意思や、人類への殺意より遥かに強いように感じた。

「おそらく、そのAMPで再び囚われて、連れ去られた。

 AMPの影響下でまともに戦えるのは四人のなかではおそらく颯太ぐらいだろう?

 その颯太だって三人が捕まった状態では戦えない」

 友希の話はもはや真也の頭に入っていない。

 真也はその殺意を抑えるのに必死だった。

「四人がどうなったかはわからないが、敵も二人の人質を失った以上、四人を殺せば日本側がためらいなく自分たちを潰しに来ることはわかっているだろう。

 オレが敵の指揮官なら四人を盾として使いつつ自国に連れ帰ってサンプルにするな。

 急いで救出に向かわないと手遅れになる」

 が、そこで友希の言葉が真也の心に刺さる。

 四人が助けを待っているというその言葉が。

 「助けないと……救わないと……」その言葉を心で呟く。

 その時、制約呪が活性化し、セラフの殺意が薄れていくのを真也は感じた。

「友希さん。確信は持てないんですが、ここより南の西岸で迎えの船に合流する、という指示が聞こえたような気がします。

 すぐそこの海岸に沿って南に降りれば出くわすんじゃないでしょうか?」

「よし、それで行く。

 雪乃は置いていけないが、もし動けるくらいに回復したら特寮に戻ってろ。

 可能なら増援を頼むが無茶はするなよ。

 多分オレと雪乃でなんとかなる」

 諭すように言う友希に真也は頷いた。

 友希は真也を地面に下ろして、真也に背を向けて海の方へ歩いていく。

 雪乃、と呼ばれた少女がそれに付き添っていった。

 真也は地面に横たわったまま、朦朧とする意識を総動員して友希を見る。

 雪乃と友希を見るたびに、心の奥から殺意が、害意が、圧倒的な憎しみが湧き上がる。

 なぜかはわからないがセラフは彼と、彼の横に立つ雪乃を相当に憎んでいるらしかった。

 セラフに人間的な感情があったことに真也は少し驚く。

 体が熱くなって真也の意識を薄れさせる。

「四人を助けなきゃ…………、僕が、僕がやらないと」

 口から執念が呟きとなってこぼれ落ちる。

 自分が助けなくては、四人は自分を必要とはしてくれない。

 自分の価値を生むには自分が四人を助ける必要がある。

 四人を助けて自分の存在を認めてもらわなければならない。

 真也の心を強迫観念が突き動かす。

「待って…………友希さ……。僕が……邪魔をしな……で……」

 ただ、仲間を助けるために二人で敵の部隊を追う友希と雪乃の後ろ姿を睨みながら真也は呟く。

「僕がやらないと……」

 制約呪の拘束が弛み始める。

 真也の異常なまでの存在を認めて欲しいという欲求が、四人を救いたいという目的を見失うほどに肥大化していく。

 制約呪を維持していた心が薄くなって、弱まっていく。

「僕が……」

 真也の中のセラフが常人を遥かに凌駕する強大な精神が生み出す、魔術を何倍にもしたような力を縛っていた制約呪を引きちぎってゆく。

 真也の体が紅く輝き、意識が白熱する。

 そして、真也は再び意識を失った。



 友希が砦を立ち去って数十分後、太陽が天神島を西から紅く染め、世界樹の影を島の外まで伸ばした頃、中華帝国の部隊が立ち去った砦でソレは目覚めた。

 ソレは天神真也という人間の体を使ってこの次元に顕現している。

 ソレは本来このセカイより数段高次に属する存在であり、三次元空間程度の視力しかもたない生物の器に収まる存在ではない。

 しかし、それは実際に真也の体を乗っとって現界していた。

 ソレは両の手を握ったり開いたりして、肉体と精神の親和性を確かめている。

 開かれた眼は紅く、その体からはこの世のものとは思えない真紅の輝きを放っている。

 神の光を纏ったソレの背には純白の三対六枚の翼が備わっていた。

 真也の身長の二倍はありそうなその翼を、ソレは折りたたむ。

 上二枚は眼前で顔を隠すように、下二枚は彼の脚を隠すように。

 そして、中の二枚の翼を大きく広げて震わせる。

「人類ゴトキガggagi『救エ、救』………ソノ罪の……ui深さヲ思い知ラ……せてヤ……。notbまだコノ忌々し……い呪イpre『救エ、スク』は解ケ……ぬ。

 時間ガ無い『救』……父gotの命を実行ス……ルには『救』御使いseraph……が足らヌ。ナラバ、せめ『救』て第二life……の禁忌forbidde……ニ触れし、アノ男『救エs』とその付属物ハ消『救エ救』し去ル」

 言葉が終わった直後、付近の精神界のイメージが爆発的に吸い込まれ、ソレは圧倒的な力を持って翼を羽ばたいた。

 爆風が砦を打ち崩す。

 風でコンテナの壁が一部崩れ落ちた。

 砦の上空で羽ばたきながら真也セラフは全方位を見回す。

 そして、セラフは自分よりやや南の海上に目的を見つけた。

「原罪origina……『救』ノミならず、新タニ罪に手を『救』染メルとは……。嘆カワしき『救ウ』獣therioの子ラめ」

異常な規模の魔術改変の予兆に反応して、その本体に天神軍の防衛システムが反応する。

 天神島、北部分島。

 東部と合わせて日本皇国、皇国軍の基地となっているその島から数十基の弾道ミサイルが発射された。

 そして、上空から幾筋もの白煙を上げて迫るそれらを見てセラフは呟く。

「「神炎よ、罪人を粛清せ『救』『救済セヨ』hgggg……この身を『救エ』」」

 セラフが何かを世界に命じようとして、しかし、言えずに命令を変更する。

 真也の意識を乗っ取っていても、制約呪の支配には完全に抗えてい無いのだ。

 制約呪というのは、それ自体は珍しいものではない。

 科学技術の発展はもちろん、魔法や魔術に溢れる現代では、約束を違えた際の罰則を与えることが難しくなっている。

 制約呪は「誓約」という、約束に反した者に決められた罰則を与える魔術の亜種で、対象の精神に仕掛けられて、そもそも約束に反する行動を取れなくする魔術だ。

 大英帝国をはじめとする魔術大国では国民を対象に法律を約束ルールにした「誓約」が施されていたりする。

 ただ、真也の精神にかけられていた制約呪は魔術と呼べ無いほどに強力なものだった。

 対象に許されたこと以外の行為をさせないほどに。

 本来、熾天使セラフという強大な精神概念は人間の精神の器には収まらない。

 魔術師ないし魔導師は普通の人間よりは大きな器を持っているが、超一流の魔術師の精神でも平均的な普通の人間の精神の五倍程度である。

 しかし、真也の精神の器それは格が違っていた。

 それは、精神界から流れ込む個人が保有する精神の量、つまり魔術の威力の格が違うということだ。

 そして、その真也の異常なまでに強大な精神を縛っていた制約呪の約束ルールは「救済」。

 何かを救うこと以外に精神を使用することを禁ずる呪い。

 もしくは、問答無用で救いのためだけに精神を機能させる呪いである。

 制約呪は魔術と呼ぶことさえおこがましいような、真也の力をほぼ完全に制御していた。

 両手に現れたこの世のものとは思えないほどに紅い炎でミサイルを一片のかけらもなく焼き尽くしたセラフは制約呪の解除を断念して、南西の海へ向かった。

 ソレに残された時間は少ない。

 金管楽器は未だに精神の牢獄に閉じ込められている以上、使命を果たすこともできない。

 セラフは西海にいる敵を見定めて飛び去る。

 セラフに付き従う雷が空気を焼き焦がしていく。

 神の炎と光を司る御使いが、破壊の天使が、雷を手に神の民を『救済』するべく動き出した。



 セラフは上空で止まり、眼下の海を見回す。

 海を一隻のVIP用クルーザーに偽造した駆逐艦が疾走していた。

 内部から複数の「助けて」の声が聞こえるはずのない上空の自分の頭に聴こえてくる。

 周囲の救いを求める感情が直接、精神に流れ込んでくるのだ。

 セラフは刷り込まれた感情によって駆逐艦の声の元へ駆けつけようとする体を引き止めた。

 「救済」の制約呪はセラフの意思をもってしても抗いがたいほどの強制力を持っている。

 セラフがそれに抗えたのはそれ以上に重要な強い意思があったからだった。

 主より賜った罪を犯した人類を抹消するという使命の遂行という強力な意思が。

 そして、セラフはその駆逐艦を追う小さなウォーターバイクに跨っている男を見つけた。

 その男は、罪人の中で最も深く、最も禁忌を犯している。

 セラフは迷わずに男めがけて急降下を開始した。

 風が翼で隠された顔の横を唸りながら吹き抜けていく。

 人間の体が急激な高度の変化に耐えられず軋む。

 内臓が悲鳴を上げて、口から血が流れ出した。

 そして、セラフはその全てを無視して斜めに落下し、背後から友希ともきに襲い掛かった。

 風の音と、セラフに付き従う雷が空気を突き抜けようとする轟音で友希はセラフに気づいて振り返る。

 が、遅かった。

「クソッ、少し待っ」

 友希が振り向いた瞬間、防御の暇を与えずにセラフの手に宿された断罪の炎がウォーターバイクごと友希の体に広がった。

 ポケットに手を突っ込んで何かを取り出そうとしていた友希は、真也を乗っ取るセラフの放つ炎によって十数メートル後方まで吹き飛ばされる。

 セラフはそれを見て、真也の顔に怪訝そうな表情を浮かべた。

 セラフは今のの攻撃を、友希を海中に自分ごと沈めて焼き切るつもりで放ったのだ。

 しかし、結果は彼が後方まで逃げきっている。

 本来に人間が持っているはずのない力が前方に収縮していくのをセラフは感じた。

 そこには燃え盛るウォーターバイクの残骸と一体の炭化した死体しかありえないはずだ。

 が、その炎の中で立ち上がる人影があった。

「オイ、真也? 何やってる? 痛覚があったらしんどいんだから、薬を飲む前に攻撃するなよ」

 中から出てきた友希は無傷だった。

 体だけでなく身につけている服にすら傷の一つも付いていない。

 セラフが乗っ取った人間に話しかけながら友希はポケットから取り出した注射器を自分の首筋に差し込む。

 なんらかの薬品が投与されるが、友希の見た目に変化はない。

「オーケー、準備完了だ。殺せるものなら殺してみろ、バケモノ!

 あいにく今日はあんたと殺りあってる時間がない。消耗戦がオレの十八番なんだがなっ!」

 セラフは友希の口上を聴き終えるまでに雷撃を放つ。

 友希は自分の下半身に向かって放たれたその攻撃を見て、そして無視した。

 友希が右手で何か黒い球体をセラフに向かって投擲する。

 直後、友希の下半身吹き飛んだ。

 腰のあたりで体が消えて上半身が落下する。

 傷口の断面は赤熱していた。

 電熱で焼き切られているのだ。

 そこで、セラフの視界にを黒球が変化してできた膜が覆う。

 セラフはそれに触れずに炎を放って燃やそうとした。

 が、火が触れた瞬間に黒い膜が爆発した。

 爆発は膜全体に広がって、上下左右前後ろ、全方位からセラフに殺到する。

 セラフはそれを体を包むように張った炎の膜で防いだ。

 炎は全てを焼き尽くし、内部に一切の熱や微風さえ通さない。

 しかし、先ほど友希はその炎の直撃を受けていたにもかかわらず彼は全く傷を受けていなかった。

 あのタイミングから回避できたはずはない。

 そんなことは人間の十倍弱もの身体能力を持つ吸血鬼でも不可能だ。

 しかし、彼は現に無傷だった。

 セラフの持つ魔術改変の強制力は人間のそれを遥かに凌駕する。

 仮に友希が魔術、もしくは魔法でセラフの炎を防いでいるなら彼の魔道は神に最も近い存在であるセラフィムに匹敵するということだ。

 セラフは友希の防御手段を探るべく、攻撃を重ねた。

 セラフの纏う輝きが本次元に対応して頭上で輝くリングとなり、神気を放出する。

 そして、セラフの右手が振るわれて、雷撃が海ごと友希の体を消し去った。

 今までとは一線を画する攻撃速度に友希の驚いた顔が雷撃の白光で消失する。

 友希に一切の対応をさせず、反撃もさせなかった速さの代償にセラフの左腕は本来ありえない方向にねじ曲がっていた。

「ああああぁぁっぁぁぁああっっっっ!!!!」

 激痛で一時的に真也が意識を取り戻す。

 が、すぐに体のコントロール権を取り戻したセラフが友希の反撃に備えて後方へ下がった。

 そして、自身が起こした破壊の後を凝視する。

 その空間には何も存在しないはずだった。

 セラフの起こした雷撃は友希を完全に消し去ったはずだった。

 そしてそれはほぼ、間違いではない。

 雷撃が破壊した空間には友希の姿はなくなっていた。

 彼がいた場所に拳大の真紅の宝石だけを残して。

 宝石がセラフの輝きに勝るとも劣らぬ光を放ち、同色の液体を放出する。

 真紅の液体は外気に触れた瞬間に黄金の粉末となって空間に舞う。

 直後、宝石の周囲で世界が断裂した。

 そして、宝石を中心に世界が世界によって上書きされていく。

 宝石周囲の空間から発せられる不可視のエネルギーに反射的に目を閉じたセラフが再び目を開けた時、宝石は消えていた。

 代わりに宝石のあった場所の周りに肉が生まれている。

 肉はみるみるうちに膨らみ変形して、そしてそこには何もなかったかのような友希が存在していた。

 彼の体には傷一つない。

 ありえるはずのない光景にセラフの息がつまる。

 度重なる驚きに人間の身体が反応してしまうほどにセラフは驚いていた。

 そして、再び友希によって黒球が投擲され、迎撃した炎によって爆発した黒球の撒き散らした爆煙がセラフの視界を塞いだ。

 セラフが攻撃をするたびに友希はそれを無視して爆発を起こし、セラフの視界を奪っている間に身体を復元する。

 セラフは彼の戦い方が、完全に時間稼ぎでしかないことを不思議に思った。

 先ほどの彼の言葉からすれば、彼が戦いを長引かせることを望んでいるとは思えない。

 彼の戦い方は完全に矛盾していた。

 再生と爆発による視界の断絶。

 この単調なパターンがすでに十数回も繰り返されている。

 セラフは彼を倒す方法を考えて、彼が爆煙で身を隠すことを不思議に思った。

 すでに先ほどの速さを上げた攻撃でセラフは友希の再生の一部始終を見ている。

 しかし、友希はそのあとも執拗に自分が再生するタイミングで爆煙を起こし、セラフの視界を防いできた。

 何か、知られたくない秘密があるのかもしれない、とセラフは考える。

 セラフは右手に雷を纏わせて、再び友希に防御不可能な速度の攻撃を繰り出そうとした。

 そこで、セラフの中の人間の部分が警鐘を鳴らす。

 心臓を直接掴まれるような恐怖を覚えて、セラフは右手の攻撃を中止し上空へと羽ばたいた。

 顔と、脚を隠していた翼も使って六枚の羽で回避する。

 その瞬間、数秒前までセラフがいた場所を囲むように海上に浮かび上がった魔法陣から、セラフを喰らうかのように青い水の顎が立ち上がった。

 セラフはそれをギリギリのところで回避して、空中から友希が立っていた位置を見下ろすが、そこには何もいない。

 背筋を走り抜けた悪寒に反応してセラフは六枚の翼を総動員し、反転する。

 背後にはセラフに抱きつくように飛びつく友希の姿があった。

 再びギリギリのところでそれを避けたセラフの眼前で友希の身体が爆散する。

 爆煙で再びセラフの視界が妨げられた。

 先手に回って、友希に再生と意味のない爆発しか起こさせていなかったはずの自分が後手に回っていることに嫌な予感がしてセラフは翼を羽ばたかせて煙を晴らそうとする。

 そこで、羽ばたいた右の翼に何かが当たった。

 セラフの右翼の近くで何かが爆発する。

 今度は左翼に何かが当たった。

 そちらでも似た感覚の爆発が起こる。

 右脹脛に、左手後方に、右脇腹に、背中上方に、腰右側に、後頭部に、左肩に、右踵に、何かが当たって爆発する。

 爆発はそれ自体はセラフの纏う光を貫通するような強さのものではない。

 しかし、セラフの纏う光が、炎が、雷が、徐々に薄れ始めた。

 さらに、翼までもが薄れていく。

 セラフの威容をこの次元に顕現させていた強力な魔術そのものが薄められているのだ。

 魔術を阻害する力が空間に貼り巡らされていく。

 AMP、対魔道粒子拡散弾。

 セラフはそれを大量に打ち込まれたのだ。

 もちろん、中華帝国軍の脱出船からの攻撃ではない。

 煙が晴れた時、AMP濃度が二十パーセントに迫る空間に囚われたセラフが見たのは海岸から自分の方に向けてロケットランチャーを構える友希の付属物と見なしていた少女、雪乃の姿だった。

 AMP拡散弾は一般人が入手できるようなものではない。

 しかし、「柊」はあらゆる意味で一般人ではなかった。 

 友希が空中から服を素材に銀色の鎖を錬成する。

 鎖は友希の魔術によって自動的にセラフをAMPの充満した空間に縛りつけた。

 制約呪も魔術である以上、発動元が真也の身体なら効力を失うのだが、真也の精神から発動される魔術ではなかったらしく、効果が切れることはなかった。

 AMPと鎖と制約呪によってセラフは再びその意識を真也の精神の中に封じられる。

 鎖が解けて、真也の身体が海上に落下した。

 続いて、友希も海上に落下する。

 再生能力は不完全らしく、友希も意識を失っていた。

 二人の姿は海に落ちて見えなくなった。



 真也は暗い海の中で目を覚ました。

 気がついてすぐに自分が海の中にいることに気づくが、恐怖で思わず口を開いてしまう。

 口から気泡がほおを伝って耳の横を抜け、後ろの方へ流れていった。

 慌てて口を閉じて、少し飲み込んでしまった海水を吹き出す。

 もがこうとしたが、左手があらぬ方向に曲がっていて、水中で上下がひっくり返った。

 すると、上に光が見えた。

 オレンジ色の夕日に水面が美しく輝いている。

 ターンの途中で、すぐ隣を沈む友希を見つけた。

 友希は気を失っているようで目を閉ざして沈んでいく。

『助けて』

 そこで、真也は隣を沈んでいく友希のほうからそんな声を聞いた。

 空気、いや水を伝わって耳から入る音ではない。

 そこ声は直接真也の精神に伝播していた。

『助けて』

 次に真也は海岸のほうで、友希をた助けようと海に飛び込んだ少女の声を聞いた。

 少女との距離は相当に離れていて、水中では彼女の声は聞こえるはずがない。

 しかし、真也の精神に取り付く呪いはその声を真也に届けた。

『助けて』『助けて』『助けて』

 島で爆発した工場の被害を受けた近隣の工場で働く技術者の声を聞いた。

 コンテナヤードの中の戦闘を起こしたボックスの中で横たわって石像にされた敵兵の声を聞いた。

 謎の波動によって意識を失った天神軍、魔術兵の肩を揺り動かす兵士の声を聞いた。

 その全てが心の声だ。

 人が発する精神の悲鳴が各人の固有精神を抜け、精神界を伝って真也の固有精神まで集められている。

『助けて』『助けて』『助けて』『助けて』『助けて』『助けて』『助けて』

 声が、助けを求める声が真也の固有精神に殺到する。

 そして、助けたい、救いたいという衝動が溢れ出す。

 強制的に沸き起こる。

 呪いが真也の精神に仕掛けられた呪いが真也の心を覆い尽くして、右手が熱くなった。

 右手の指輪から熱が生まれて、呪いが少し和らぐ。

 ソラスの指輪はどうやら呪いを中和する力を持っているようだった。

 いや、正確には呪いの力を制御する力なのかもしれない。

 指輪が熱を持ってから聞こえる声が一箇所からのものに限定されるようになっていた。

 西へと遠ざかる船の中に囚われた四人から聞こえる『助けて』に。

 真也は友希を右手で掴んで浮上した。

 動かない左手に気を使いながら、キック力を付加する魔術を発動しようとする。

 しかし、魔術は失敗した。

 二、三度繰り返すが上手くいかない。

 魔術の失敗は真也にとって初めての経験だった。

 記憶を失う前の「真也」は魔術や魔法の訓練を受けていたらしく、スキルに関する記憶は失っていない真也は魔術を使える。

 エピソードに関する記憶を喪失しているのでどうやって使えるようになったかは覚えていないが。

 そいういう訳で真也は魔術を失敗したことがない。

 それゆえに真也は魔術を使えない状況に慣れていなかった。

 何もできずにあわあわするうちに酸素はどんどん欠乏していく。

 その時、真也の精神に『助けて』以外の声が割り込んだ。

『マスター、救いをイメージしてください』

 それはソラスの声だった。

 ソラスの声には特に真也の現状を気遣った風はない。

 真也は溺れており窒息仕掛けている訳だが。

「(救い? 何言ってんのソラス? わかるように説明しゴボゴボ)」

 真也は器用に言葉をイメージしてソラスに質問を返す。

 溺れているアピールも忘れない。

『「救済の制約呪」に触れてしまった今、マスターも誓いを破ることが許されない精神になりました。

 救済のイメージを持たなくては魔術を使うことはできません』

「(救済のイメージって何さ? ゴボゴボ)」

 全く真也の状況を把握しないソラスに真也は再びアピールする。

 真也はやはりソラスの言葉を理解できない。

『ですから、救いです。何かを救うことを目的に魔術を発動するのです!』

「(つまり、何かを救うために魔術を発動すればいいのか?)」

『そうです。マスター』

 酸素が欠乏し、真也の意識が遠のきかける。

 真也は海水を飲み込むことをいとわず叫んだ。

「友希さんを救う! 我が身を救う! ライズ!」

 真也の言葉によって制約呪が彼の魔術を許可し、真也の精神が魔術を紡ぐ。

 上方向へ真也と友希の体が上昇した。

 あかね色の水面が近づき、紅の陽光がどんどん明るくなる。

「ぷっあぁぁぁっぁぁぁぁぁああはぁはぁはぁぁぁぁああ!! 死ぬかと思った! いやマジで!」

 そして、二人は夕焼けに染まる海上に顔を出した。

 真也が誰にも聞こえないはずの弁明をこぼす。

 友希は真也はしばらく肩を揺すると意識を取り戻した。

「友希さん! 大丈夫ですか?」

 真也は友希の肩を掴んで顔を覗き込む。

 友希は苦笑いして頷いた。

「よかった……」

「誰のせいだ……っていうのが野暮に思えるほどに喜ぶなぁ……」

 涙を流して喜ぶ真也を見て、友希がやれやれというふうに頭を撫でる。

 そして、真也の左腕を見て顔をしかめた。

 真也の左腕はセラフの起こした肉体の限界を超えた速度の攻撃についていけなかったせいでボロボロになっている。

 友希は少しためらっていたが、真也に向きなおって言った。

「真也、ちょっといいか? その腕を直してやるから、船を追ってみんなを助けてくれ」

「僕が……、へ……? はい。もちろんやります!」

 真也の目を見て、真剣に頼む友希に真也はあっさり答える。

 友希は真也の声量に顔をしかめて、笑顔で頷いた。

「今からすることは驚くだろうけど、黙って従ってくれ。説明する暇はない」

「……? わかりました……?」

 何もわからないまま真也は返事を返す。

 友希は満足したように頷いて、左手の親指で真也の首に浅く切り裂いた。

 真也は驚いたが抵抗はしない。

 真也の首から流れ落ちる赤い血を友希は恍惚とした表情で凝視していた。

 真也の背筋に悪寒が走るが、約束なので動かない。

 友希の目は赤く変色している。

 ATVD、後天性吸血鬼化疾患キャリアが吸血衝動に襲われる際に現れる特有の色だ。

 ATVDは吸血されただけでは感染しないため血を吸われる分には問題は一応、ないのだが、真也は恐怖を感じて身をこわばらせる。

 そして、友希は真也の首筋に同じくATVD特有の長い犬歯を突き立てた。

 犬歯によって開いた穴から血が吸い出される。

 血とともに、真也の身体を構成する情報が友希に吸い出される。

 血がどんどん抜けていき、気が遠くなっていく。

 そこで友希から逆に体液が注入された。

 ATVDの感染方法は一つ、感染者からの血液の過剰な注入である。

 真也はそれに気づき、友希を振りほどこうとしたが、友希の真剣な目を見て思いとどまった。

 しばらくして、友希は真也の首から口を離す。

 友希の瞳の色はブラウンに戻っており、犬歯も通常の長さに戻っていた。

 真也は、ATVD感染者、つまり吸血鬼に体液を注入されたにもかかわらず吸血鬼化していないことを不思議に思う。

 体の中では首筋から注入された何かが心音のように脈打って心臓の位置へ吸い込まれていった。

 真也の右手はすでに完治している。

 二、三度手を動かすが、先ほどまでの激痛は完全に消えていた。

 違和感すら残っていない。

 真也は友希が自分に何をしたのか尋ねようとしてやめた。

 西の船から聴こえてくる声を聞いたからだ。

 ソラスの制限によって制約呪が響かせる『助けて』の声が西方向からのものに限定されていた。

 友希は疲れてしまったようでげんなりしている。

 男性同士で吸血行為というのがまずかったのかもしれない。

 吸血鬼は血液を見ると欲情してしまうわけだが、それがわかっていても多くの吸血鬼は同性同士の吸血行為を嫌う。

 吸血鬼も元人間であり、国際法上はれっきとした病気にかかっただけの人間なので当然といえば当然なわけだが。

 真也は友希の体を海岸から泳いできた雪乃に預けた。

 友希が真也の目を見る。

 真也はそれに頷くことで返答した。

 雪乃が友希を連れて海岸の方へと移動する。

 真也は二人が十分に離れたのを確認して両手で頬を叩いた。

「大丈夫、大丈夫。僕がやる。僕がやらないといけない。僕が……救う」

 少しの間、うわごとのように小声でそう繰り返して目を閉じた。

 そして叫ぶ。

「優果を救う! 輝を救う! 礼称を救う! 颯太を救う! 

 セラフよ我に力を貸せ!」

 真也の声に呼応して、真也の精神で再び破壊衝動が沸き起こる。

 しかし、今度はそれに支配されることはなかった。

 真也の心には救いたい人の救いを求める精神の声が絶えず響いている。

 真也の精神を縛る呪いがセラフを押さえ込んでその力の一端を吸い上げた。

 紅の輝きが真也を包み、沸き起こった紅炎が真也の周囲の水を蒸発させる。

 美しく長い、純白の三対の翼が真也の背から左右に伸びた。

 羽は真也の意のままに羽ばたき、彼の体を空中へと持ち上げる。

 そして、右手の夕日に輝く熱を持った銀の指輪を見て叫ぶ。

「顕現せよ。クラウ・ソラス!」

 真也の放つ紅の光に勝るほどの黄金の輝きが彼の右手に現界した。

 輝きを放つ剣は炎と光を纏っている。

 真也が遺跡で出会った剣は、彼の夢に見たときと変わらない輝きを放っていた。

 イメージ、俗に言う魔力を完全に通したのはこれが初めてなのだ。

 尤も、普段の訓練からここまでのイメージ量を流し込んでいたら真也の精神が持たない。

 真也の今の全力のイメージ量を余裕で受け取って放出する聖剣を真也は上段に構えた。

「四人を救う! 船を逃がすなソラス!」

preserver救済者権限により原罪オリジナルと融合しつつある熾天使セラフを制約呪によって制御します。

 我が主よマスター救済の剣クラウ・ソラスの名の下に、汝の敵に罪の刃を』

 真也の呼びかけにソラスが応える。

 真也は上段に構えた黄金の剣を一直線に振り下ろした。

 救済を司る聖剣が真也のオリジナルをもって破壊の力を解放する。




 振り下ろされた聖剣の延長線に沿って海の表面が分断された。

 二つに割れた海面が線上から両側に吹き出す衝撃波に押されて小さな波を作る。

 西へと伸びていく斬撃が船を捉えて引き裂いた。

 真也の精神を縛る制約呪は、救済以外の目的において彼の精神の使用を拒むかわりに、救済という目的を持った際の精神の使用時には逆に無理やりにでもその精神が持つ全力を引き出してしまう。

 今の真也はその後者の状態にあった。

 魔術とは、固有精神内で固定された一個のイメージに固有精神と精神界を隔てるメンブレンを超えて集まる集団イメージが集まって形成されるイメージ塊が、その量の多さによって、固有精神たる無意識領域と意識領域の狭間の末那識ゲートによって現実と誤認されることにより、世界を改変する技術である。

 自己認識の集合によって成り立つとされる世界は、個人の強固な認識の転換により一時的にその姿を変える。

 また、魔術の威力や規模の大きさは集められたイメージの量で決まる。

 より大量のイメージを集めるには、大きな精神の器が必要であり、その器の大きさは曖昧に遺伝する。

 多くの人は魔術の行使に必要な量のイメージを集められるだけのキャパシティを備えた精神の器を持っていないため魔術師にはなれないのだ。

 魔術師にもその器の差はあり、魔術師のレベルは巧みさなどを除く殆どがこの大きさで決まってしまう。

 そして、真也の持つ精神の器は超一流の魔術師が持つそれの大きさを遥かに凌駕していた。

 普段は、そのほんの一部しか使いこなせていないが、救済の制約呪によって潜在能力を引き出された真也は最高レベルの魔術師何百人分もの力を手に入れていた。

 真也の遠距離からの斬撃によって、船が止まったことが遠目に確認できる。

 航行機能に異常が出たのかもしれなかった。

「ソラス! 船まで飛ぶぞ」

『了解です、マスター。制約呪の認可を確認しました』

 真也は四人を救いにいくために肩から光を放つ翼を羽ばたかせる。

 重力制御魔法でも、風の魔術でもない異常に純粋な力が真也を加速させた。

 魔術の根幹となるイメージは救うための飛翔。

 そして、本来人間が扱えるはずのないほど莫大で強固なイメージが形成され、真也の固有精神から現実界へ、空想が現実へと干渉し真也の翼を羽ばたかせ、彼が船へ向かって飛ぶという現象を生み出す。

 セラフの力を取り込んだことによって生まれた翼は直接真也の体から生えているわけではない。

 それは真也の肩甲骨の数センチ先から現界しているセラフの威光が三次元化されたものだ。

 エンジェルリングこそ現れていないものの、今の真也が持つ力はセラフのそれに近いものだった。

 翼には精神界から現実界に漏れ出した、セラフの持つエネルギーがみなぎっている。

 純白の翼が三度、羽ばたいたときには真也は四人が囚われている駆逐艦の真上に到達していた。

 船上から自分を指差して騒ぐ敵の姿と、自分めがけて打ち出されたミサイルを真也は見た。

「ソラス、撃墜しろ」

『マスターの救済を阻む者に破壊を』

 真也は右手のソラスで一閃するだけで撃墜する。

 ミサイルは空中で真っ二つに切断されて爆散し、その残骸が海へ落下した。

 魔術のイメージは、真也が救うために障害となるものの切断。

 巡洋艦は先ほどの真也の斬撃によってその船尾を薄く切断され、航行機能を失っていた。

 普通のミサイルでは真也に歯が立たないことを悟ったのだろう、二発はAMP拡散弾頭ミサイルだった。

 ミサイルの先端が先ほどのミサイルのそれと違っている。

 真也の強化された目は弾頭にAMPの文字が書かれているのを読み取った。

 しかし、それすらも真也には無意味だった。

 本来、魔道師はAMP拡散弾に対して無力なわけではない。

 超一流の魔道師なら低濃度化ならば魔道を発動できるし、そもそもAMP弾が拡散爆発を起こす前に粒子を通さない障壁を張ることもできる。

 AMP拡散弾は対象の魔道師に気づかれない、もしくは気づかれても対処できないスピードで打ち込まなくてはいけないのだ。

 真也はすでに敵のミサイルの弾頭に注意しなければならないことはわかっていたし、対処も可能だった。

 しかし、それでも真也は防壁を張らない。

 爆散によって空気中に飛散したAMPが真也の周りを覆う。

 真也の周囲の空気中のAMP濃度は最高レベルの魔道師をもってしても、魔道の発動が不可能な高さに達していた。

 それでも、今の真也を止めることはできない。

「颯太を救う」

 真也の振るう聖剣によって、後続の通常のミサイルが虚しく破壊されていく。

 AMP拡散弾で抵抗出来なくした状態でミサイルを撃ち込むことで真也を仕留めるつもりだったのだろうが、真也には全く通用しなかった。

 船上に兵士が集まり始め、真也めがけて発砲し始める。

「礼称を救う」

 しかし、どれも真也の纏う炎と紅の光に溶けて蒸発して一発も真也の体を傷つけることができなかった。

 真也は甲板に向かって降下する。

「輝を救う」

 真也の魔導、疾風迅雷の体を保護する術式が体を守り、高速機動する真也の体を保護した。

 紅炎と共に真也が甲板に降り立つ。

 いや、衝突した、と言うべきかもしれない。

 現に甲板にはクレーターのような凹みが生まれていた。

 神々しく、眩い光を纏った真也の姿を間近で見て、兵士たちは抵抗することを忘れ、呆然と立ち尽くす。

「優果を救う」

 真也はソラス振るって目の前に立っていた兵士を切断した。

 胴を上下に切断されたにもかかわらず、兵士の体から血は溢れない。

 切断面が聖剣の持つ熱によって完全に焼き固められていた。

 火花と放電が真也の周囲で音を立てている。

 真也に宿るセラフの力が制約呪の制限を超えて現実界を侵食しているのだ。

 それが真也の神々しさを一層際立たせていた。

 見惚れて、抵抗することを忘れていた兵士たちが仲間の死を見て、一斉に呪縛から解放され、銃を構える。

 しかし、彼らは正常な判断力を失っていた。

 真也一人を大勢で取り囲んでいる状況にもかかわらず、前線に立っていた兵士が一斉に発砲したのだ。

 真也に対して感じた脅威の大きさに相手の体積を取り違えたのかもしれない。

 銃から発射された銃弾の多くは真也の放つ熱に側面を溶かし、そして仲間の体に銃撃を浴びせた。

 真也に命中した弾丸はその全てが例外なく彼の放つ炎で焼失した。

 悲鳴が連鎖する。

 それは自分たちの相対する真也という強大な敵を改めて認識したためだ。

 単純に仲間からの銃撃を受けたせいでもあるが。

 幾人かの兵士は流石に銃撃の危険性に気づき、銃剣による攻撃に切り替える。

 しかし、大半の兵士は恐怖から船を捨て、海へと飛び込んでいった。

 当然銃剣による攻撃も真也には通用しない。

 前面からの攻撃はソラスによって人間ごと切り裂かれ、背後や側面からの攻撃は炎によって阻まれた。

 そして、真也の振るうソラスによって切断された。

「四人を救う。そうでなきゃ……そうしないと……」

 うわ言のように真也はその言葉を繰り返す。

 呪いと真也の狂気は混ざり、真也を精神を強固に縛るとともに、その潜在能力を存分に引き出していた。

 言葉を繰り返すたびに真也を覆う輝きが強くなる。

 言葉を繰り返すたびにソラスの切れ味が増す。

 言葉を繰り返すたびに魔術改変の深度が、規模が、威力が、上昇する。

「救う。必ず僕が救う」

 真也の目には敵は映っていない。

 自分の目的を阻む敵すらも真也の目には映っていなかった。

 彼が見ているものは多くの人が生まれながらに持っているものだ。

 彼が見ているものは彼が誕生した瞬間に否定されてしまったものだ。

 彼が見ているものは彼がとっくに失ってしまったものと一所になくしてしまったものだった。

「僕は、僕という存在を認めてもらうために、みんなを救う……」

 そして、真也の「救う」という言葉はうわ言ではなかった。

 彼の目は濁っていない。

 彼の目に絶望はない。

 真也はただ、楽しげに、それでいて戦って、敵の命を奪っていることを理解しているように真剣な表情だった。

「そのために、そのためならなんだってできる。

 僕が救う! 僕が救わなければいけないんだ。

 僕が救わないと、誰も僕を認めてはくれない」

 その狂気を口にする真也は正気そのものだった。

 甲板の敵兵は既に大半が海に吹き飛ばされ、もしくは自分から逃げている。

 甲板には死体が散乱し、生きている兵士はほとんどいなかった。

 生き残ったものも例外なく戦意を喪失している。

「そこまでだ! 動くな!」

 その時、真也の背後から英語らしくない英語で投降を求める声が上がった。

 真也は静かに体ごと後ろを向く。

 そこには船内から出てきた兵士数とその指揮官の男が立っていた。

 真也が怒鳴り、殴られて昏睡したあとにもう一人の真也が脅迫した指揮官の男だ。

 彼の前には四人が縛られて立たされていた。

 四人とも意識がないようで、それぞれの後ろに立つ兵士が彼らを支えている。

 魔道の使用を常にAMPで禁じるのは難しいので薬で眠らせているであろうことを真也は推測した。

 四人の頭には背後の兵士の持つハンドガンが突きつけられている。

 四人の背後の兵士たちは真也を凝視して、彼に少しでもアクションがあれば指揮官の指定した順に人質を殺せるように警戒していた。

 真也は無表情にそれを見ている。

 いや、眺めていると言う方が正確かもしれない。

 まるで自分関係のないことであるかのように真顔でそれを眺めていた。

 右手は力なく重力に従って垂れ下がっており、剣を向ける様子もない。

「剣を下ろして、その光と翼を解除しろ!」

 指揮官の男が命令する。

 真也の纏う輝きや翼はあくまでセラフの力を取り入れたことによって自動的に発生したものだったが、指揮官の男、楊にとっては得体の知れない強力な魔術だった。

 真也はその命令を聞いても剣を下ろそうとしない。

 彼の体には一切の動きがなかった。

 全身から力が抜けたように硬直している。

 楊はそれを見て、真也が人質をとられて迷っていると思った。

「武装、魔道を解除しろ! 言う通りにしないなら十秒ごとに彼らを一人ずつ殺す!」

 楊はそう宣言して、カウントを始めた。

「十、九、八、七」

 以前真也に動きはない。

 ただ、先ほどと違い目に力が戻ったようだった。

 遠いところを見ていた目が、今は自分たちに焦点を合わせているように兵士たちは感じた。

「六、五、四」

 そして、真也の右手がほんの少しだけ動く。

 剣を持つ手に力を込めるように右手の筋肉が脈動した。

 輝に拳銃を突きつけている兵士の引き金にかけられた指に力が込められる。

「三、二」

 楊のカウントを行う声に力が籠る。

 真也はまだ動かなかった。

 口は術式を唱える様子もなく、体は剣戟を繰り出す様子もなく微動だにしない。

「一」

 楊のカウントが心なしか少し遅くなった。

 楊にとっては真也が武装を解除しなければ負けだ。

 なぜなら、楊たちの目的は自分たちが脱出することではない。

 もちろん、人質を殺すことではない。

 彼らに与えられた任務は魔法研究サンプルとなる被検体を手に入れることだ。

 真也が投降しなければサンプルを失い、さらに自分たちの命も失う。

 が、楊がどれだけ願っても真也は動かなかった。

 そこで楊は考えてしまう。

 助けてほしいと。

 子供を人質にとって、その上彼らを人体実験の材料にするために本国に連れて帰るような任務は受けたくなかったと。

 なにより、そんな任務で未来のある時刻の学生や、第二の家族と言えるような仲間を失いたくなかったと。

 そして、その救いを求める声なき声は彼の心に届く。

「ゼ……」

「四人を救う。敵を

 最後の楊のカウントに重ねるように、そう、真也は呟いた。

 彼の右手が閃き、聖剣が夕日を反射しながら回転して空中へ放り上げられる。

 翼がはためき、三歩で甲板の先端から後端まで一気に距離を詰める。

 が、それは兵士が人質に突きつけた引き金を引くには十分な時間だった。

 輝の背後の兵士は輝に突きつけた拳銃の引き金を引く。

 否、脳から指へと引き金を引くという命令を下した。

 しかし、彼の指は一ミリたりとも動かなかった。

 慌ててナイフで輝の首を裂こうとするが、逆の手も動かず、拳銃を落とすことも、輝を縛る縄を放すことも適わなかった。

 直後、真也の拳が兵士の腹部を突き上げる。

 その瞬間、兵士の左手は解放され、輝は甲板に倒れた。

 兵士は通り過ぎた真也と共に数メートル後ろまで吹き飛んで、海に落ちる直前で停止する。

 目の前で味方が吹き飛ばされても他の兵士は全く動けなかった。

 人質を殺すことは疎か、逃げることもできない。

 すぐに残りの三人も輝を掴んでいた兵士の後を追った。

 甲板に動ける兵士はいなくなり、まさに罪人を裁く天使の如く真也が楊の前に立つ。

 楊と真也の間に、先ほど真也が放り上げたソラスが落ちてくる。

 金属でできた甲板にソラスは苦もなく突き立った。

 真也は黄金の聖剣の柄に手をかけて、楊のそばに歩み寄る。

 そして体の自由がきかない楊に向かって告げた。

「お前を救ってやる。

 生きている兵士は一人残らず中華帝国へ返す。

 だから…………、安心してお前は捕まれ」 

 楊は動けるはずのないまぶたを閉じて真也に感謝の意を示す。

 救済の剣が楊の両足を切断した。

 切断面からの出血はない。

 楊は静かに意識を失った。

 そして、その後、真也の言葉と共に甲板の、天神島本土の、海の中の生き残った中華帝国軍の兵士は一人残らず修復された巡洋艦の甲板に移動していた。

 石化した者、体の一部を失った者、障害が残るほどの負傷を負った者。

 全員が回復した状態で甲板に立っていた。

 呆然としたままの兵士たちが脱出準備を進める甲板には楊と四人の人質と真也の姿はなかった。

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