少し時間は戻り、エオンとキュアがアルツェロの身体を抜け、勢いそのままに博士公の部屋へと飛び込んだ。アルツェロが追ってこないということは、アルコがしっかりと脚止めをしているということだ。

 二人は人の姿で寄り添い、視線を辺りへと向けていった。博士公の部屋は様々な研究のための書物が本棚一杯に並べられていて、まさに研究者という雰囲気であった。広い部屋、一人で使うにはかなり広い部屋であるように感じられる。


「……ようこそ」


 大きな机に肘を置いて座っていたのは、博士公、スコパスその人だった。これまでの功績を示す数々の勲章をスーツの上から羽織っている白衣に付けて輝かせていた。怯えもなく、普段の公務の時と同じような冷静さを保ちながら侵入者の二人を見ている。


「オーロ博士公、スコパス・V・C・R・ヴァリツェリノ」

「いかにも」


 エオンの確認に、彼は逃げることなく肯定した。超越者二人を目の前にしてあまりの落ち着きように、エオンは違和感を覚える。それとも想像しているよりも博士公という者は大器なのかもしれない。


「そちらこそ、ワーライガーのエオンとワーウルフドッグのキュアリング。ん?」


 舐めるような視線でキュアを見、すれば小さく鼻を鳴らすように笑った。


「はっはは……まさか、そうか、やはりワーライガーのそばにいたか」


 まずいと感じ、エオンは太刀を抜いて襲い掛かる。それをスコパスはかわした。手加減をしたつもりはない。確実に仕留めるための一振りが避けられてしまっていた。


「その様子だと、なるほど。別の者を作り上げて戻ってきたのだな」

「黙れッ!」


 次の振りを今度は手袋をした手で受け止められる。人間ではあり得ないことにエオンはわずかに恐怖を覚え、刃を握られる前に離れた。

 じりじりと頭に頭痛の気配が迫る。


「そうか、本人には伝えていないと」


 スコパスは白衣とスーツのジャケットを抜いでワイシャツの胸元を少し開け、腕まくりして手袋を外した。そこから見えた腕と手はアルツェロと似たような金属のもので、それが刃を受け止められた種だった。


「研究は、己の身体であっても例外ではない。子孫を残せぬ出来損ないのワーライガーは、創造主の私が直々に破棄してくれよう」


 エオンは完成された、健康に不安などない成功個体のワーライガーとして研究者たちに認められた。長年の研究が実った瞬間なのだ、誰もがお互いをねぎらった。

 しかし数年後、彼が生殖可能な状態になり実験が始められると、それは脆くも崩れてしまうことになった。

 どうしても子を成すことができなかったのだ。精子に問題はどこにも見当たらず、間違いなく彼は己の血を残せる状態だった。けれどどうしてもできなかった。

 彼は失敗作となった。


「は、破棄だなんて……そんなことさせないっ」


 声を震わせながら、キュアがスコパスの前に立つ。また『おねえちゃん』についてのことが彼の話からぶり返したのだと、苦しそうな表情からわかる。

 それでも己を奮い立たせて戦う意思をぶつけていた。


「お嬢さん、健気だが、健気故に哀れだ」

「どういう、こと?」

「君はそのワーライガーを愛しているようだが、しかしあれは君を愛しているわけではないのだよ」

「黙れッ!」


 エオンがキュアの前に出、スコパスにもう一度太刀を振るった。しかし知覚まで強化してあるのか、義手で刀身を軽く弾かれ、空いてしまった腹に拳を叩きこまれてしまう。想像以上の打撃にエオンは吹き飛ばされ本棚へと激突し、その衝撃で倒れてきた本棚と本の下敷きになってしまう。気絶することはなかったが、意識がひどく揺らいだ。


「連戦で疲れているのだろう? そこで寝ていたまえ」


 キュアはスコパスの鋭い眼光で動けなくなってしまっていた。


「話の続きだ。そう、あのエオンは君、キュアリングを愛しているわけではない。彼が愛しているのは君の身体の『元の持ち主』 ワーウルフドッグ、個体番号名称VP-045、イスミル。彼の生殖実験の相手であり、『おねえちゃん』と呼んで親しんでいた人外だ」


 はっきりと、スコパスは彼女に言った。そして声を押し殺して意地汚く笑う。それから本にまみれているエオンに粘り気のある視線を向け、これまで隠し通してきた彼を嘲笑った。

 とうとう頭痛が始まり、エオンの頭を締め付けた。しかし薬を探している場合ではない。


「ワタシが、やっぱり……おねえちゃん……?」

「イスミルは過酷な実験に耐えられず、心を壊したのだ。それでも実験は続けられたから問題はなかったがね。むしろ抵抗しなくなって好都合だった。しかしまさか研究所から消えた後、キュアリングなどと新しい人格を作るとは。人外というものは実に、まだまだ興味深い研究対象だ」


 ふるふると全身を震わせて、キュアはその場でじっとし続ける。エオンはもやがかかり激しく痛む頭のまま、彼女へと手を伸ばす。けれどそれが彼女に届くには距離があり過ぎた。


「あれは君を利用しているだけなのだ。いつかイスミルが帰ってくると思い、そばに置いているだけなのだ」


 違うとエオンは叫びたかった。けれどそう思われても仕方のないことだとも考えていた。

 研究所が爆発炎上した時、エオンは実験によって心を壊されていたおねえちゃんを見つけ、そして抱えて脱走した。同じ研究所内にいても、彼女は別の場所に移されていて長く会っていなかった。けれどその顔を間違えることはなかった。


 彼女は過酷な実験(エオンの実験とは関係ない)を受け続け、その心は壊れてしまって、ついに昏睡状態へと陥ってしまっていた。それでも外に逃げ出せばいつか目覚めてくれるだろうと、彼は希望を持っていた。

 バルトロと出会い、バルトロの友人の地で数か月過ごしたある日、バルトロやその友人の力もあって彼女はついに目を覚ました。


「……ん、よく寝た……ん?」


 けれどその少女は、


「……はじめまして、ワタシ、キュアリング。キュアって呼んで。君は?」


 おねえちゃんではなく、また別の少女になっていた。エオンはあまりにひどい現実に、瞳を濡らすどころではなく、ぼたりぼたりと頬を伝ってあごから大粒の雫を落としていった。

 そんな風に泣き崩れた彼を彼女は、初対面であるのにもかかわらず優しく手を伸ばして頭を撫でた。おねえちゃんとはまた違う、でもとても安心させるような笑顔を見せ、可憐な顔立ちが華やぐ。


「ん? なに泣いてるの?」


 言ってしまえばその時の一目ぼれだった。

 おねえちゃんのことは確かに好きだった、そして一緒に実験もした。けれど抱いていた感情は幼いこともあって、恋愛感情とは違っていた。そばにいてくれる、姉であり、母でもあり、様々なものだった。

 それからキュアに振り向いてもらうために、彼は色々なことをやった。バルトロがからかうために教えた、間違えたことでも彼は真面目にやった。そのせいで呆れられても彼は諦めずにぶつかっていった。


 そうして今の関係になり、エオンはとても幸せを感じていた。おねえちゃんの恋人になれたからではない。キュアの恋人になれたことがとても嬉しいのだ。

 言うべきだったのかもしれない。けれど言ったところで彼女を苦しめてしまうかもしれない。

 でも、エオンは今の真実を告げられた彼女を見て考えを変えた。彼女を苦しめたくないというのは自分の逃げであって、本当に彼女のためにはなっていなかったのだと。


 今の関係が崩れてしまってもいい、それでも彼女に謝らなければならないと彼は本棚からの脱出を試みる。

 キュアはうつむき、その表情をうかがい知ることはできない。スコパスは彼女へと近づき、甘い言葉をささやく。


「あのようなものをかばう必要はないのだ。どきなさい。ならば君は見逃してあげよう」


 彼女は黙ったままゆっくりと顔を上げていった。その瞳には不安の色がありありと浮かんでいた。


「私は博士公。約束は守る人間だ、お嬢さん」

「エオン、ずっとウソついてたんだね……」

「その通り。いかなるときも君を考えてなどはいないのだ。イスミルと話している気分で君と接しているのだ」


 彼女は両手で自分の顔を覆い、すすり泣き始めた。これまでのことがすべて自分ではなく、おねえちゃんに向いていたと思ってしまって、ショックを隠せないでいる、

 エオンはそんな彼女の姿など見たくはなかった。より早い脱出のために力を込めてみるものの、予想以上にダメージが邪魔をして抜け出せない。左肩に痛みが走る。ふさがりかけていた刺し傷がまた血を流し始めたようだ。


「傷心の女の子を追いかけるような真似はしない。さあ、君の心を弄んだ害獣を私が駆除してあげよう」


 こくりと、顔を手で覆ったまま力なくうなずいた。

 そこでエオンは脱出することを止めた。じんじんと左肩の痛みを感じながら、ぐっとキュアの姿を見つめる。彼女はやはりエオンと目を合わせようとはせず、そしてその様子にひどく満足そうにスコパスは脚を進めた。


「そうだ、それでいい」


 キュアを横切る時、ぽんと肩を一回叩いて彼は言った。勝利を確信した顔がエオンと距離を詰めて、


「で?」


 スコパスの身体がいきなり吹き飛んだ。男性として平均的な体格の身体は机へとぶつかり、その上に置かれていた書類をばらばらと辺りに飛び散らせる。それでも勢いはまだ死なず、机から落ちてごろごろと転がっていった。

 自慢の拳を突き出し、星宿るバイアイを輝かせ、灰色混ざりの長い白髪を揺らしている。それはキュアに間違いなかった。

 彼女がスコパスに一撃を見舞っていた。


 机の向こう側で倒れてしまっているスコパスが苦痛に訴えながら漏らす。


「な、何が……ッ?」


 キュアはエオンに乗っている本棚をどかし、彼を動ける状態とした。

 よろよろとエオンは彼女の手を借りて立ちあがる。やはり予想通り、左肩からはまた血が多く流れ始めていた。そして近くに落ちていた太刀を拾う。


「まさかと思ったけど、本当にそのまさかだよ……」

「ふふん、戦いの場で油断するあいつが悪いの」


 得意げに鼻から息を吐いて胸を張っている。


「まあ、『おねえちゃん』についてはあとでゆっくりと話そうね。まったく……」

「は、はい……」

「そこで休んでなさい」


 壁を支えにしてスコパスが立ちあがってくる。しっかりと整えられていた白髪染め色の髪、そして衣服はひどく乱れてしまっていて、さきほどまでの余裕はすべてなくなってしまっていた。博士公の姿はどこにもない。


「こ、小娘ぇ……ッ」


 そんな身なりにキュアは実に意地悪そうな視線を送る。彼女はエオンとは違う。正々堂々の勝負で相手を超えることなど考えてはいない。


「博士公閣下様であろうお人がとんだお間抜け。ワタシもあんたを殺しに来てるの。エオンのじゃない、ワタシ自身の意思で。それにこういうのは当事者同士の問題なの。ここで死ぬじいさんに口を挟まれる筋合いはないってワケ」

「博士公の、私に向かって……ッ」

「ふん、そんな物言いだから間抜けなのよ」


 スコパスの表情が鬼のものへと変わり、建物全体を揺らすような怒号を上げた。全身を共鳴させた轟きがエオンとキュアの皮膚を痺れさせる。

 気合を入れたスコパスは机をキュアへと向けて蹴り飛ばす。大きく重い机が狙い通り彼女へと迫る。


「まだこんな元気がっ!」


 獣の姿になって間一髪のところで飛び越える。しかしスコパスがすでに至近距離にまで接近していて、義手の拳を振り上げていた。

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