『王将』(2007年01月13日)

矢口晃

第1話

 全ての布陣が完了しあとは決戦を待つばかりとなった陣営にあって、突撃部隊の総大将飛車将は目前の歩兵隊を鼓舞して叫んでいた。

「敵は我らが陣容をみて肝を冷やしておるわい。風も我らに追い風じゃ。怒涛の攻撃で一挙に相手を木っ端微塵に粉砕してくれようぞ」

 それに勇気を得た歩兵隊の間から、大きな鬨がひとしきり上がった。彼らの戦意はますます高揚していた。

 さてその飛車将の言葉を聞いていたのは何も歩兵隊ばかりではない。この時ちょうど飛車将の後方で自慢の槍を丹念に磨き上げていた香将の耳にも、その声は届いたのである。

 飛車将の昂然とした掛け声を聞いていよいよ体に力の漲ってきた一本気の香将は、少し離れたところで荒馬の鞍を閉め直していた桂将のもとへ歩みよると、余裕然と白い歯を見せながら話しかけた。

「桂将殿。先ほどの飛車将殿のお声がお主にも聞こえたか。この戦、我らに分のあるようじゃな。このまま行けば、我らの勝利間違いなしじゃ」

 普段にも増して聞き分けのない暴れ馬に手こずっている最中にあった桂将は、突然聞こえた香将の言葉に早々合点して、

「今さら何を申されるかと思えば。香将殿、まさか相手の陣容を眼前にして腰を抜かしておられるのではあるまいな」

 そう言われると普段は穏やかな香将もさすがに憤然として、

「なぜ桂将殿は人の話をそう曲解したがる」

 と言って再び自分の陣に帰って行った。

 暴れ馬を巧みに乗りこなす桂将は、頭脳の回転の早いのでは陣中に並ぶ者なしと言われていた。しかしその話し振りは、必ずしも理路整然としている訳ではなかった。あるいは話の先を見通し過ぎて理論に根拠を欠いていることや、同じ話を人とは全く異なる意味で理解してしまうこともしばしばだった。その悪癖が合戦前になると一層著しく現れることは誰でも承知していない者はなかった。だから香将も、自分が恐れをなしていると桂将から見くびられて、心中の半分は桂将を憎みながら、また半分では仕方がないと諦めているのであった。

 さてその桂将であるが、先ほどわざわざ彼を鼓舞しに来た香将の言葉をあのように理解したのには、桂将なりの理由があったからに他ならない。というのも、桂将の馬がなかなか彼の意に従おうとしないのである。桂将はもう何度も鞍を締め直そうとしているのだが、その度に馬は鬣を乱しながら首を振り、後ろ足で激しく土を蹴り上げながら大人しくしない。時によっては雲行きを読んだりもする桂将にとっては、それは一つの不吉の前兆であった。過去の経験から、馬が暴れる時ほど合戦がもつれ合いになることを桂将は知っていた。だから香将がわざわざ彼の元へあのようなことを言いに来た以上は、合戦の行方は五分と五分、ことによると我が方に多少不利なのではあるまいかと早とちりしたのも、全く桂将らしい理屈なのである。

 馬を何度も叱りながらやっと満足に鞍を締め終わった桂将は、その足で銀将のもとへ歩んで行った。銀将は軍のやや後方にあって、全体の陣構えを目下監視中であった。

「銀将殿」

「おお、どうした桂将殿」

「銀将殿、実はお耳に入れたいことがあって参上した」

 そう言いながら銀将の脇まで歩み寄ると、もみ上げと髭とが繋がった精悍な顔つきの銀将に耳打ちをするように言った。

「香将殿の話をちと伺ったのでござるが、敵は我らの予想していたより手強げでござる。飛車将殿も歩兵隊の士気を懸命に高めているところじゃとか。まあ何事もなければ我らの勝ちは必定じゃろうが、油断は禁物にござる」

「まことでござるか。いやご注進かたじけのうござった」

 実直で朴訥な銀将は、桂将が木柵に繋がれた荒馬のところに戻ってからも黙然と思案を続けていた。銀将の考え方は、猛然と力で相手をねじ伏せようと言う飛車将の考え方とは違い、いかに我が方に犠牲を少なくして勝つかと言うことを常に優先にしていた。その点では、銀将の考え方は軍師の角将に近かった。だからこの時相手が予想以上に大きな力を持っていると聞いて、当初の作戦を変更する必要があるのではないかと考えていた。しかしもちろんそれは銀将一人の考えでできることではなかった。銀将はともかく王将の側近である金将にひとつ談じてみようと金将のもとへ寄った。

 王将の幔幕のすぐ近くで警戒の目を光らせていた金将は、なにやらものものしい顔つきで近づいてくる銀将を見て多少の不安が過った。そして銀将が耳うちをする内容を聞いて、その不安が的中したのを知った。

 銀将が注進してきた話の内容はこうであった。

「最前桂将殿の話を伺った限りでは、敵軍は我らの予想をはるかに超える大陣営。このまま行けば大苦戦を強いられるのは必定、ややもすれば却って我らの陣が押し潰されそうな気配でござる」

「何、それは本当でござるか」

「確かに。じゃによって今我が軍前衛においては、飛車将殿が恐れをなす歩兵隊の士気を必死の鼓舞で高めているという話でござった」

 金将は苦虫を噛み潰したような表情を見せると、

「こうしてはおれぬわい」

 と呟くが早いか、怱々と席を外すと幔幕の内にいる王将へ口上した。

「大殿、一大事でござる。只今我が軍の者どもの話を聞きましたところによると、敵軍は我らの想像をはるかに超える大部隊。この戦、我らの大敗免れぬ形勢でござります。どうか大殿だけでも一刻も早くご退却を」

 金将の突然の口上を聞いて、人一倍気の小さい王将はたちまち顔面を蒼白にして幕内を出てきた。そして声を裏返させながら、

「まことか、それはまことか」

 と一人右往左往し始めた。そして次には、

「よし、ならば退け。退け」

 と気を動転させ、全軍を残して自分一人はもう籠の中に頭から入り、旗本五、六名を従えて早くも退却の様相を見せた。

 合戦を目前に王将が退却する。陣の後方で俄かに起こったこの動揺は、もちろん前衛にいてこの戦全体を士気する軍師の角将や、その角将からの突撃の号令を今や遅しと待っていた飛車将の目にも映らなかったことはなかった。

「どうしたのだ、突然。何があった」

 自陣の乱れを見て大いに狼狽した角将が声を大に近くの者に聞いたが、誰一人としてはっきりとした答を口にするものはなかった。

「もしや謀反ではあるまいか。あるいは敵の奇襲隊に陣の背後を衝かれたか」

 その時、角将の胸の内にはこう言った心配が起こった。

 王将の身に何かがあっててからでは遅い、そう思って角将がとっさに持ち場を去り慌てふためく王将のもとへ駆けつけたから、そこへ取り残された歩兵達の間に、一様に動揺が走った。指揮官を失った歩兵は枝を離れた木の葉も同然である。もし今敵に襲われでもしたら、そう思うと置いていかれた歩兵達は一気に戦意を喪失し、じりじりと後方へ下がっていった。

 前衛の内、角将の側の部隊が突然後退を始めて、次に混乱したのは飛車将の率いる部隊である。自陣で何が起きているのか判然しない内に、自分たちだけがいつの間にか戦場に孤立してしまったのだから、ついさっきまであれほど戦う意思に漲っていた歩兵達にも一気に焦りの色が見え始めた。そして自分たちも後退を始めようとするのであるが、それを飛車将が、

「退くな、退いてはならぬ」

 と必死に食い止めようとする。しかし事態は一向に収拾がつかなかった。

 この動揺が敵軍の目に映らなかったはずはない。五分五分か、あるいは自分たちの方がやや不利かと踏んでいた敵陣では、相手の敵陣が俄かに混乱をし始めたのを見逃さなかった。

「今だ、かかれ」

 の号令を合図に、全軍一丸となっての突撃を敢行したのであった。

 必死に歩兵を鼓舞していた飛車将も、土埃を上げて猛進してくる敵軍を見ると、いち早く負けを覚悟して踵を返してしまった。それはもはや互いに斬り合う合戦ではなく、戦場は逃げ惑う人々とそれを追う人々とに、はっきりと二分されてしまっていた。

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『王将』(2007年01月13日) 矢口晃 @yaguti

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