『空地』(2007年01月14日)

矢口晃

第1話

 かわいそうにこの白い犬は飼い主がいないのでしょうか、もう何日もの間こうしてゴミ溜めに顔をつっこんでは何か食べられそうなものを探して歩いています。それがいつから続いているでしょうか、白犬の体はすっかり痩せ細ってしまって、あばら骨が骨に浮き上がって見えているくらいです。こんな生活を続けていては体力も持ちませんし、いつか病気にかかってしまうかもしれません。しかし道行く人たちはたとえこの哀れな痩せた犬を見ても、冷ややかな一瞥を与えたなりそのまま通り過ぎてしまいます。それどころかゴミ溜めを散らかす白犬を邪魔者扱いして、棒切れを持って追い払ってしまう薄情な人さえいるのです。痩せた白犬は方々でつらい目に遭いながら、生きなくてはならないから必死に食べ物を探していたのです。

 この日もこの白犬は、町の通りに面して家の板塀が互いに壁をなすように並んでいる一角にある、ゴミ溜めのところに来ていました。まだ春も浅い時分ですからハエやアリはたくさんいないのですが、野菜の皮の腐ったような臭いに鼻の曲がりそうになるのを必死に堪えながら、何か栄養になりそうなものはないかと、白犬はゴミの中に顔をつっこんで食べ物を探していました。

 その時はちょうど日没間近で、空にはまだ雲の形がはっきり見えるほど明るいのですが、満月にはまだ四、五日早い月が早くも東の空に浮かぼうとしている、そういう時間でした。

 食料を一生懸命探していた白犬の耳が、と何かの物音に反応したように、ぴくりと動きました。何だろうという表情をして白犬が音のした背中の方を振り返った時です。まだ明るい空のちょうど南側に、満月のように丸い円盤がぽっかりと浮かんでいるではありませんか。それがまるでそらからこの白犬を見つめてでもいるかのように、じっと留まったまま寸分も動かずにいるのです。白犬は不思議そうな目で空に浮かぶ円盤を見つめていましたが、それを満月とでも勘違いしたのでしょうか、やがて

「ワオー」

 と一声遠吠えを上げました。するとどうでしょう、その円盤からもかすかに、

「ワオー」

 と返事が返ってきたようなのです。それは確かにかすかな音だったに違いありません。しかし犬の耳には、それがもっとはっきりと聞こえたのでしょう、白犬はうれしそうにしっぽを振りながら、また

「ワオー」

 と遠吠えしました。するとやはり向こうからも

「ワオー」

 と返事が返ってくるのです。その返事は、あの不思議な円盤から返ってくるのか、あるいは白犬の声を聞いた、どこか遠くにいる別の犬が啼き返しているのか、実のところそれははっきりとは分かりません。しかしこのさびしい白犬にとってはそんなことはどちらでもよかったのでしょう、仲間の声が聞こえるうれしさに興奮して尻尾をぱたぱた振りながら、何度か繰り返して遠吠えを続けていたのです。その度に向こうからも返事のなかったことは一度もありませんでした。

 ちょうど同じ時、白犬の来ていたゴミ溜めのすぐ脇にある、野球の内野分くらいの広さの空き地には、小学生が二人けんけんぱをして遊んでいるところでした。少年の一人が言いました。

「ちぇっ、なんだあの犬、さっきから啼いてばかりいやがってうるさいな」

 そう言いながら少年は地面に落ちていた石ころを一つ拾うと、汚くみすぼらしく、耳障りな遠吠えを続ける白犬に向かって放り投げました。少年の投げた石は一直線に飛び、さっきから遠吠えに夢中だった白犬の腰の辺りに命中しました。

「キャン」

 突然腰に激しい痛みが走ったので、白犬は驚いて一目散に駆け出しました。そして道と道とが交わるところまで走ってくると、そこに足を止めて、また後ろを振り返りました。すると、さっきよりまた夕暮の気配が一段と濃くなった南の空には、あの不思議な円盤は、影も形もなく消えてしまい、代わりに一番星が、低く眩しく輝き始めているのでした。

 あの空飛ぶ円盤は、一体何だったのでしょうか。そんなことがこの痩せた白犬に分かるはずもありませんが、白犬は空に円盤がなくなったのを知ると、寂しそうに頭を下げて、また別の路地を歩いて行きました。

 さてそのころ、白犬のいなくなったゴミ溜めのすぐ脇の空き地では、ある不思議なことが起こっていました。あの空飛ぶ円盤が姿を消したのと同時に、空き地で遊んでいた二人の小学生が、跡形もなく、忽然と姿を消していたのです。

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『空地』(2007年01月14日) 矢口晃 @yaguti

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