菊さん

ポージィ

菊さん

その昔、私が東伊豆で働いていた頃の話―――。


菊さんは昔、私の職場の社員食堂で働いていた料理人だった。

昔ながらの板前であり、出世できるタイプの人間ではなかったが、毎日

「ご馳走様。」

と声をかけると、少しだけサービスをしてくれるようなオッチャンだった。

時折飲み屋で会う事もあり、まぁ、仕事の愚痴を言い合う同僚といえば同僚だったのか。


ある時、菊さんは横暴な経営者のワンマン人事で、西伊豆の系列職場への転勤を言い渡された。東伊豆に家もあったというのに、歳も重ねていた事からそれに逆らえない彼は、何も言う事なく西伊豆に転勤していった。


私と菊さんはそれっきり、東伊豆で顔を合わす事は無かった。


*  *  *


それから何年か経ったある日、一度は東伊豆を離れた私は、埼玉近郊をうろうろしつつ、再び東伊豆に戻る機会を得た。


温泉巡りが趣味であった為、この日は伊豆長岡の温泉街を一人でぶらついていた。


昼間は源氏山を歩いて登り、東の古奈地区に抜けてからあやめの湯に入った。

そこからは順天堂大学病院の前を抜けて長岡地区の旅館に戻り、夜は夜で、長岡南浴場の熱めの湯を楽しんでいた。


熱い湯のあとは火照った身体をパチンコ屋の近くにある餃子屋のハイリキレモンで潤す。そして肉汁の溢れる餃子を胃袋に流し込むのだが、口が熱いので、何故か人気メニューのポテトサラダも一緒に頼むのが通だ。

今時、餃子専門店なんて珍しいが、伊豆長岡ではここで食う夜食が最も好きだ。


その帰り、部屋でもう1杯飲み直そうと、レトロ感のある温泉街を歩き、再び長岡南浴場側のコンビニに酒を買いに戻った時だった。


「あれ―――?」


缶ビールを抱え、レジ前に立っていたのは菊さんだった。


何年ぶりの再会だったのか、向こうもこちらに気付いて、


「おう・・・!」


などと威勢のいい返事をくれた。


会話は僅か数分間―――。

立ち話程度で終わるものだったが、あれから菊さんは西伊豆の職場を辞め、現在は伊豆長岡の旅館で板前として働いているのだという。

ようやく板場の仕事が落ち着き、晩酌用の酒を買いにコンビニに訪れたのだという。


「中国人の団体が増えて、今は忙しいよ。ヘヘヘ―――」


年老いた身体には、どうもしんどそうな職場のようにみえた。

お互いの現状をさらりと語り合って別れた菊さんとはそれ以来会ってないが、この再会は、伊豆長岡で最も記憶に残っているシーンだった。


昭和の名残を色濃く残す伊豆長岡―――。

婆さんしかいないスナック、未だに現存するスマートボール。

浴衣を着て歩けば、懐かしい出会い。


菊さんは今も元気だろうか?


熱くて透明な、美しい単純泉に入ると伊豆長岡を思い出す。

あのハイリキレモンと、餃子の味。

そして―――レジの前に立つ菊さんの姿。


今この文章を打っている私は、伊豆を遠く離れ、北の外れ―――釧路にいる。


もう菊さんとは会う事もないのだろうが、もしも次に伊豆長岡に行ったら、板場の仕事も片付いた夜9時半頃―――あのコンビニに立ち寄ってみようと思う。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

菊さん ポージィ @sticknumber31

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ