第六部 胡漢融合の階梯――自序に代えて

 ごきげんよう、崔浩である。


 ここまで人物紹介を為しておるのであるから、さすがにそろそろ我の立ち位置も明らかとしておかねばなるまい。

 とは申せど、普通に自己紹介、というのも些か面白みがない。そこで我の死に方が偶然五胡十六国・南北朝時代を通して語られるテーマにも重なっておるのをいいことに、その辺りをメインとして語ることとした。

 我については、そのオマケ程度に語る次第である。


 テーマは、タイトルに示したとおり。胡漢融合である。


 伝統的漢族にとっては凶悪なる異物であったはずの塞外の民、五胡。それが五胡十六国、南北朝の擾乱を経て徐々に漢族らと融け合い、最終的には唐帝国が生まれた。胡漢融合に関するトライアル&エラーの足跡が、即ち永嘉の乱以降、唐成立までの道筋を示している、とすら言って良い。


 先にゴール地点の唐について記しておく。唐を建てた李氏であるが、鮮卑と深く通婚を交わしていた。唐以前の中国には「本来漢人以外が天子になるのはおかしな事なのだ」と言うおかしな主張がまかり通っていた。故に李氏は、それを武のみならず文、礼、祭のあらゆるジャンルに渡って論破する必要があった。

 この難事業を成し遂げたのが唐の太宗、李世民である。無論太宗が数百年に一度レベルの傑物であることに異論はない。しかし、太宗がその偉業を為すためには、どうしても前例無しには話が始まらぬ。


 前例とは、五胡君主らの取り組みである。


 五胡十六国時代の人物を取りまとめた史書「晋書」は、太宗の命によって謀臣の房玄齢が編んだ。一部の記事に至っては太宗が直に筆を執ってもいる。即ち、太宗は五胡十六国時代の君主らより多くの範を、或いは反例を得ていた、と見做すのがごく自然な推論なのである。


 では、そこにはどのようなトライアルが、エラーがあったのか。

 当部では、それを追っていく。



・五胡十六国以前 騎馬民族と漢族


 騎馬民族。平原で生き延びるにあたり、馬という機動力を得た民。また牧畜狩猟がメインの生業であり、基本的に「生産」と言う概念はない。では、どのように「生産物」を得るか。略奪である。

 彼らに取り、略奪と狩猟にそれほど明確な線引きはなかったのであろう。勝てば奪える、負ければ死ぬ。それだけだ。

 だが、やがて気付く。漢人を飼うと、奪わずとも作ってくれるのだ。これは漢人を支配するしかない。襲う。

 だが、漢人は多い。

 生産能力のない騎馬民族は、基本的に大きく増えることが出来ない。増えたら物資が足りなくなるからだ。一方の漢人は、ものを増やす能力がある。故に人口も大きく増える。

 あまりに多すぎる漢人どもは、到底羊のようには飼い切れぬ。それに辺境の人間をさらっても、遣使を人質にとっても、結局漢人の莫大な生産力は、その一部しか手に入らぬのだ。

 では、どうすればあの生産力を取り込めるのか。この問いに対する回答案、その端緒に、まずは劉淵が辿り着いた。



劉淵

・トライアル

 若き劉淵は、匈奴五部を統べる存在でありながらも、人質として晋都洛陽に連行された。ここで晋は劉淵に特一級の教育を施す。結果劉淵は匈奴王として匈奴諸部よりの尊重を受けつつ、漢人よりの尊敬をも集めた。また時が下ると、八王の乱を契機として噴出した反晋感情を「漢」の旗印の下に集めた。この為「劉淵」と言う旗印限定で胡漢融合が成立した。


・エラー

 このケースは、劉淵というひとの出自、及び育ちに大きく依存していた。極めて属人的であり、システムとしての再構築など望むべくもない。「漢」と名乗ってはみても、中間から末端は結局匈奴であった。劉淵亡き後、中原には支配ではなく破壊と略奪が蔓延した。



石勒

・トライアル

 当初の振る舞いは、明らかに騎馬民族特有のそれである。壊し、奪うという奴である。石勒が特異なのは、漢人官僚張賓より支配機構構築の提言を受けると、それを実現に到らせたところであった。文盲であったため政をどうしても漢人知識層に大きく頼らざるを得なかった、と言うのも奏功したのであろう。

 石勒の施策としては「胡」字の使用禁止、が特にその性格を現している。趙のくにには胡も漢もなく、ただ国人があるのみだ、と宣言したのである。


・エラー

 石勒流の統治手法を結局下の世代に伝承しきれなかった。或いは嫡子の石弘に治を、養子の石虎に武を継承させ、役割分担をさせようとしたのやも知れぬ。だが、結果としては武が治を呑み込んだ。

 統治のメカニズムが構築され切っていなかったことが伺われる。即ち、ここでもやはり石勒個人の手腕に大きく依存せざるを得なかったのであろう。



慕容部

・トライアル

 漢人官僚を招聘、国力増大、までは成功する。


・エラー

 割と全方面にケンカを売る口であった。外交? 何それおいしいの? そして結局ケンカに負けた。



苻堅

・トライアル

 胡漢融合というと、真っ先にこの人の名が上がることが多い。目立つので仕方がないのだが。六族和合を謳い上げ、漢人匈奴鮮卑羯氐羌の別に拘らず登用。特に漢人宰相王猛とはほぼ殴り合いのケンカのような絶妙なコンビネーションを示した。ただしポスト淝水の諸人物とのやり取りを眺めていると、こいつ利害と忠誠取り違えてたんじゃねえの疑惑が尋常ではない。


・エラー

 恐らくそこかしこで慕容沖のような、全く大義にもかすらない、その上で怖ろしく根深い恨みを買っていたのであろう。強盛な内ならばそれでも抑え込めていたが、いざ力を失えば、途端に報いを受ける。

 などと冗談めかして書いてはみたが、剣による支配を文による統治に切り替える難しさは、日本の江戸幕府対島津家の図式が十二分に提示している。このテーゼを乗り越えられる存在は、それこそ千古に名を残すレベルの名君でなければ難しいのではなかろうか。



道武帝

・トライアル

 慕容による漢人支配スタイルを踏襲はしているよう思う。漢人官僚に多くの名前が挙がるが、中でもやはり我が父崔宏の存在は大きい。清河崔氏という、戦国以来の超一流の名族を属僚として迎え入れたのである。「あの人が従うなら俺も!」と漢人らが動く、大きなきっかけともなったであろう(なお張賓も王猛も、それほどの名族というわけではない)。名族を従える胡人君主として、道武は画期であったと言える。


・エラー

 道武ご自身は、晩年の横暴な振る舞いにより恨まれ、皇子に弑された。ただしここまでの君主らとは違い、道武の崩御は北魏を大きく揺るがせはしなかった。事態を収拾なされた明元の手腕も優れたものではあったが、漢人官僚らの統治機構整備の形跡も、また見て取れよう。



崔浩

・トライアル

 ここで、ようやっと我である。

 自ら言うものでもないが、一流の名族の生まれであるから、我の教養レベルは当代随一である。無能者どもが狭い見識でピーピーと主上の前にて囀るのを見てはしばしば苛立ちを抑え切れなんだものである。まぁそんな余談は良い。天文を読み、また世情を分析、主上への数多くの献策を為した。まずここで申し上げておかねばなるまい。事実は事実として、ありのままに記録されねばならぬ。事実を踏まえ、初めて世情に即した献策をもたらせるというものである。故に我、及び同胞の穆寿・古弼・張黎を擁された主上は、見事華北統一の偉業を為し得たのである。


・エラー

 この頃我らが北魏は未だ四海の安寧を成し遂げてはおらず、より速く、より効のある政策を打ち出さねばならなかった。主上にも改めるべきところは改めて頂かねばならなんだし、また反対意見なぞにかかずらってもおれなんだのである。ところがこれが災いした。小人どもめ、我の献策によって己の地位が脅かされる、だなどと愚にもつかぬ理由をもとに主上への讒言を為したのである。斯くて我は主上より死を賜った。罪状は「鮮卑たちをバカにした」という事になっておる。全くおかしなことである。我は鮮卑をバカにしたのではないのだ。バカをバカと指弾したにすぎぬ。

 もっとも、解釈次第ではそれが主上をバカにしているようにも映っていた、と気付いたのは死後暫くしてであった。ネット上での閲覧が叶う論文

「北魏崔浩國史事件--法制からの再檢討」

(松下憲一氏、2010 https://nrid.nii.ac.jp/ja/nrid/1000060344537/ )

において、この点を考察するにあたり重大な示唆が為されている。要約すると「俺に直言で諫めてくるのはまぁいい。けどな、それを世間様に向けて大々的に言うとか、どう考えても俺のことバカにしてんだろ?」が我の処刑の理由となった可能性もある、とのことだ。

 なるほど、事実を公言すると人は恨みに思うのであるな。死後、ようやく学んだ次第である。


※作者注:

 魏書崔浩伝を読むと、正直先生全然空気読めてない人って印象です。他の人たちと衝突しすぎ。容赦なくこき下ろしまくってますし。先生が郎党もろとも処刑された「国史事件」は、一般には漢人名族対鮮卑の構図の表面化って書かれています。けれども実際のところ、そこまで大きくポリティカルな問題に収斂できる程、族滅の範囲って広くなかったそうです。

 なので、まぁ別に一般説を捨てる必要もないとは思うんですが、癇気の強い拓跋燾と空気読めない先生のコンビネーションって、いったん破綻したら最悪の結末しか招かないよなぁ、的仮説も案外的を射てるんじゃないかな、と思うのです。拓跋燾から糾弾受けてるとき、先生、なんで自分が殺されるのかよくわからない感じでパニクってらっしゃいます。しかもそれが更に拓跋燾の怒りに油注いでます。「あっこれ発達障害の部下がテンパった時に無駄に上司怒らせまくるパターンやん……」って、正直我が身につまされました。

 まぁ、あとは単純に先生の功と先生が買ってる怨みとを天秤にかけた、ってところもあるんでしょうね。ほぼ同じ立場の官僚、高允は拓跋晃に取りなされ、むしろ馮太后の時代まで活躍してます。ここで先生が庇われてない辺り、色々お察しです。



孝文帝

・トライアル

 五胡十六国時代を修めるにあたり、チョークポイントとなっている存在である。と言うのも晋書に載る五胡十六国君主の事跡、すなわち載記は孝文帝が編纂指示を出した十六国春秋に大きく拠っている(なお、これは資治通鑑も同様である)。即ちこの時代を理解せん、と期する者たちは、どうしても孝文帝と言う人のポジショントークを踏まえた上で、あらゆる人物の記述を解釈する必要があるのである。

 それはさておき、これまでの五胡十六国君主たちは、あくまで胡族の王として漢人らを治めようとしていた。だが孝文は、自らの鮮卑性を擲ち、漢人の習俗に乗り入れた。何せ道武以来漢人官僚機構の構築が始まって後、孝文の親政開始までに流れる月日が八十五年である。むしろこの状態で故習に拘る方が実情に即しておらぬ。

 言い換えよう。苻堅が一代で為そうとした武覇より文治への転換を、太武の華北統一より三十年余をかけて為したのが北魏と言う国なのである。


・エラー

 漢族流の統治機構を築くことで、中央の意思決定メカニズムは格段にスムーズになったことであろう。ただし問題は辺境である。この頃北辺では騎馬民族の柔然が強盛となっていた(なおこの構図は、秦漢に対する匈奴に比定しうる。大変素晴らしい天丼ギャグである)。これに対抗するための前線基地、所謂六鎮は北魏武将らの重要な栄達ルートであった。だが中央の漢化政策は、先にも記したとおり、国の体制を文治に大きく傾ける。

「兵は不祥の器」、老子道徳経に載る言葉である。この言葉に示されるが如く、漢人は基本的に軍隊が大っ嫌いである。つまり漢化により、六鎮は栄達ルートとしての機能を失う。

 さあ、栄達という餌を取り上げられ、それでも命を張れ、と言われて、さて如何ほどの人間が従おうか。



宇文泰

・トライアル

 六鎮の乱に端を生じた大動乱から、北魏が分裂。さてここで分裂した片割れを担った宇文泰は考える。実際問題として孝文の目指した統治機構、これは概ね実態に即している。問題は、これが方々のプライドを大きく損ねていたところにある。よって宇文泰の方針は、基本的には孝文の継承、ただし胡人の漢人姓強要など余人のプライドに障るような部分の政策は撤廃した。

 この時に名目として「周礼を復活させる」と提唱したは辣腕の最たるものである。なにせ漢人は周の時代の文化が大好きである。周という古き良き時代のガワを着せつつ、現実的な施策を為した。これが宇文泰の基本方針であった。


・エラー

 ここで先んじて楊堅を語ってしまおう。楊堅は、言うなれば簒奪を成し遂げた楊駿である。漢族政権は大体外戚の権勢に苦しめられている。その対策に四苦八苦したのが漢人政権の歴史とすら言える。にもかかわらず、中国史を見回してみても、外戚に簒奪されたのは、実はこの北周ぐらいではなかろうか。漢族のそう言う悪いところを、わざわざ大いにエッヂを利かせて模倣する必要もなかろうとは思うのだが。



楊堅

・トライアル

 拓跋以来、漢人統治機構にだいぶ鮮卑も慣れてきていた。と言うよりも、漢人の住まう風土に漢人の文化が生まれたのは、言ってみれば自然環境のもたらす要請、少し衒学的に言えば地政学的要請がもたらす必然であった。ならば漢人の住まう領域を支配するのであれば、結局漢人式が一番面倒がないのである。

 ただし楊堅からしてみると、漢人がなす極度の前例主義はただの無駄にしか見えなかった。なので、ここを徹底的に叩く。

 楊堅の人材登用に於けるドラスティックな方針転換としては九品官人法を捨て、科挙制に舵を切った、と記すのが象徴的であるよう思う。これを言い換えると「家格とかどうでもいいから才能よこせ」である。あれっこれ曹操も言っておらなんだか。ともあれこの楊堅の方針により、いわゆる南北朝貴族らはほぼ壊滅にも近しきダメージを蒙る。


・エラー

 方針が急進的にも過ぎた、とは言えよう。楊堅は楊広すなわち煬帝によって殺され、またその煬帝が隋帝国を亡国に導いた、と唐帝国は語る。真偽はさておき、唐の天下統一までに大分裂が生じていたことを踏まえれば、隋の政制が多分なる矛盾を抱えていたであろうことは間違いがない。この矛盾を、ある程度の期間収束し得たのが唐太宗である。



・終論


 大いなる漢の大統一は、それでもなんとか社会を切り盛りするだけの強靱な制度を保ち得た。しかし初めて経験する大統一はまた歪みも大きく残した。歪みが噴出し、それの収拾のために多くの時、多くの人間が費やされた。これが魏晋南北朝であったと言える。

 狭間の時代、暗黒時代。まぁ名前は何でも良い。うねる人間たちが生じさせたエネルギーの大きさは、やはり凄まじい物がある。


 作者が五胡十六国を好む理由は、ひとくちに言ってしまえばただの偶然である。理由など探すだけ無駄だ。しかし、敢えてこう言い切ることは出来よう。その時代に生きた人間たちの発していたエネルギーの凄まじさに当てられ、ハマった、と。

 さあ、では今日も人間どもの発するエネルギーに酔おうではないか。


 それでは、また何れかの機会にて。



・余談 結論


 忘れていた。


 騎馬民族たちの出した支配についての結論も語っておこう。

「漢人支配しようとしたら漢人化した方が楽じゃん」である。

 そして漢人化したところを別の騎馬民族に叩かれるのである。


 うむ、様式美であるな。

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