[5] 再奪回

 戦闘の主導権を取り戻したマンシュタインは次いで、ハリコフとその北翼に布陣するヴォロネジ正面軍に注目した。ハリコフに配置されている敵の撃破を目標として、SS装甲軍団と第48装甲軍団に対し、北翼への総攻撃を開始するよう命令を下した。

 3月7日、SS装甲軍団が攻撃が開始し、ハリコフからアハツィルカに至るヴォロネジ正面軍の南翼を瞬く間に切断した。10日には、ハリコフ西方に幅30キロの突破口を抉じ開けて、ハリコフ郊外に北と西から到達した。

 3月11日、第2軍の第52軍団は第40軍の北翼に対する攻撃を開始した。南西部正面軍での撤退に続いてヴォロネジ正面軍の戦区でも、ソ連軍は攻勢の継続から全面的な撤退に転じた。

 3月12日、SS装甲軍団と第3戦車軍の間でハリコフを巡って争奪戦が展開された。SS装甲軍団長ハウサー大将は第4装甲軍司令官ホト上級大将の命令に従い、消耗が多くなる市街戦を避けて市全体を包囲して締め上げる作戦を始めた。第3戦車軍は外部との連絡が断たれ、絶望的な抵抗を3日間に渡って繰り広げた。ヴォロネジ正面軍にはもはやハリコフ守備隊を救出できる兵力は残されていなかった。

 マンシュタインは中央軍集団と密接に協力し、クルスクの西方に張り出した突出部を叩き潰そうと考えていた。

 3月13日、SS装甲軍団の北翼から「大ドイツ」自動車化歩兵師団は第40軍と第69軍の間隙部に対して攻撃を開始し、2日後にはビエルゴロドから約60キロのグライヴォロンを占領した。

 3月15日、ハリコフは再びドイツ軍の手に落ちた。この深刻な事態に、スターリンは北西部正面軍の作戦指導をしていた最高司令官代理ジューコフ元帥を呼び戻して、至急ハリコフでの防衛線の再構築を命じた。

 3月16日、ジューコフはヴォロネジ正面軍と南西部正面軍の残存兵力を査定した後、スターリンに「大規模な兵力が必要」との意見を述べた。スターリンはヴァシレフスキー参謀総長に、戦略予備の状況を調べさせた。その結果、第21軍と第64軍をビエルゴロドへ転進させ、第1戦車軍を予備として派遣することを決定した。

 3月17日、中央正面軍の戦区でもドイツ軍の反撃が実行された。第2軍は第4装甲師団とハンガリー軍の残存部隊を集中させて、中央正面軍の両翼に対して攻撃をしかけた。先鋒の第2親衛騎兵集団の側面は薄く伸びきっており、中央正面軍司令官ロコソフスキー大将は攻撃の中止を命じて、守勢に転じるしかなかった。

 3月18日、ハリコフから北上したSS装甲擲弾兵師団「帝国」はビエルゴロドを占領した。第40軍は膨らんでいた戦線を幅40キロほどに縮小し、北東へ撤退を続けた。第69軍はグライヴォロンとビエルゴロドの間で包囲されて壊滅した。

 しかし、夕刻になって第21軍がビエルゴロド北方に布陣し、SS装甲軍団の進撃は食い止められた。ソ連軍の増援部隊は次々と到着し、南東には第64軍が防衛線を形成し、オボヤンには第1戦車軍の布陣が完了した。

 3月中旬になると、再び雪解けによる「泥濘期」が訪れた。ソ連軍のスターリングラードから続いた冬季戦は自動的に停止となり、南方軍集団の反攻もハリコフとビエルゴロドの占領をもって終了した。

 1942年2月から3月にかけて、ドネツ河流域の東部と南部で繰り広げられた独ソ両軍の機動戦は、最終的にソ連軍の敗北で幕を閉じた。ソ連軍は総兵力として約85万人を投入し、そのうち約10万人を戦死・行方不明者として失った。一転して守勢に回ったドイツ軍も、各部隊の兵員・装備の量を危機的な状況までに低下させてしまった。

 ドイツ軍が「青」作戦で占領したドネツ河東部の一帯はこの一連の戦いによって全て奪回された。ソ連軍がクルスク周辺の防衛に成功したことで、地図上に1943年度の夏季戦の焦点となる目標がくっきりと表れた。

 それはオリョールとハリコフを基点として幅250キロ、奥行き160キロにも及ぶ巨大な突出部であった。

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