月船





 空から落ちてきた滴が、何かにぶつかり、跳ねて集まる。夏の面影を吸って、温かくなった滴が頬に降りかかる。それが案外心地好くて、私は目を瞑った。そうすれば、柔らかな騒音が鼓膜を震わせて、少し噎せそうになる湿った空気が肺を満たした。


 文字が薄くなったバス停の看板の前で溜息をつく。傘をさしているのに、もうず随分ずぶ濡れになってしまった。――そんなのはただの言い訳で。

 視界は雨でおぼろげだけれど、間違いない、あの人が、いる。

私の隣に紺色の傘をさして立っている。あまりにも昔と変わらないその姿に、三年前の気持ちが私の記憶をノックする。少しだけ脳裏に染み出した記憶に息が詰まりそうになった。ただでさえ長かった前髪が雨の重みでさらに視界を隠して私は少し安心する。きっと彼は私に気づかないだろう。そうだといい。きっと私の顔なんか見たくないだろうから。

 私はただ雨の中にいた。そして彼と私を遮るのは乳白色のベール。それが上がる頃にはこの人はいない。私は涙が出そうになった。

 目の前を青い傘が通り過ぎた。セーラー服を着た女子高生だ。赤かったであろう、制服のリボンは深いワイン色をしていた。私があんな格好をしていた頃、彼はいつも私の横で笑っていた。まだ何も知らない私は、ありったけの愛を彼に注いだ。拙くて、でも何の混じりけのない、限りなく、クリアな気持ち。必死で愛した鮮やかな日々が彼と私の間にはあった。

 もう無理かもしれない。そう言った私の情けなく震えた声、そして、伏せられた彼の睫毛が、黄昏の光を受けて影を落としていたのをよく覚えている。

今、彼は強く唇を結び、あの日と同じように目を伏せている。その横顔は青年からすっかり大人になって、見ているだけで心臓が煩い。携帯でもいじっていてくれたら、きっと私はいつまでも見つめているのだろう。いい男になったね、だなんて、笑いかけられるような間柄ではない。昔より精悍にはなったが、あの頃と変わらない意志の強そうな顔を見ていると、胸に針がささったような痛みが走った。そこからじわりと何かが滲んで零れた。鼻がつんと痛くなる。忘れていた想いが、決壊した。いや、忘れていたわけじゃない。いつも私の中で渦を巻いていた。

 どこから距離が広がっていってしまっていたんだろう。誰か他の人を愛したわけでもない。あなたのことだけを想っていた。それなのに。

「……っ、」

 視界がゆらゆら動く。そして熱い滴が冷えきった頬を滑った。

 ――ほんの小さなズレが、いつしか積み重なって全てを崩したんだ。



 私の足元で雨が跳ねている。空に戻りたいとでもいうように激しく、静かに。汚く泡を立てた雨水が私の足の間を流れていく。履き古して、すっかり光沢を失った黒のパンプスが、アスファルトに同化してしまいそうだ。そしたらそれを言い訳にまだここにいられるのに。けれどそんなことが起きるわけもなく、足を上げれば潔く前に進んだ。これ以上彼の隣にいることは耐えきれなかった。どこかへ逃げ出したかった。なのに私は振り返ろうとしてしまう。女々しい自分にうんざりする。でもまだ見ていたい。

 少しだけ、と顔だけ振り返ろうとした瞬間、私の体は動かなくなった。

 後ろから伸びてくる腕が、私を包んで、強く抱きしめる。確かに刻まれる命のリズムが頬に伝わる。それが心地好いことを私は知っている。そうして、柔らかな声が鼓膜を震わせて、懐かしいこの人の香りが肺を満たした。

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月船 @hitomaro_

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