雲隠れ

「素晴らしい実に素晴らしいですよ親父殿!」

「そうかそうか、それはよかった。はははは」


お二人の笑い声がさらに響き渡ります。

楽しい親子の語らいに日は西に傾き至福のひと時は過ぎていきます。

「南無法華経、南無法華経じゃよ・・・・」


しばし安らかな沈黙が流れます。老いたる源氏はこの至福を

じっと味わいかみしめているようです。


「では、親父殿そろそろ・・・・親父殿、親父殿!親父殿!!」

その声に惟光と息子夫婦が走りこんで来ます。式部は青ざめて立ち

すくんでいます。


夕霧様はじっと老いたる源氏を抱き支えて泣いておられます。

源氏はそれはそれは笑みを浮かべ幸せそうに亡くなっていました。

夕霧様は源氏の遺体を皆で褥しとねに移すとあとは惟光と

女二人に任せて早馬を走らせます。


紫の上の時と同じように涙にくれながらてきぱきとあちこちに

指示を出します。源氏は出家の身ですから僧はできるだけ少な

めに身内だけで葬儀を執り行おうとしておいでです。通夜は

近くの高僧一人を急ぎ招き枕経が始まりました。


「而告之言 汝等諦聴 如来秘密 神通之力 

一切世間 天人及 阿修羅 皆謂今釈迦牟尼佛

出釋氏宮 去伽耶城 不遠 座於道場 得阿・・」


すぐに典侍やがて雲居の雁様とお子達。さらに玉鬘とお子達。

夜明け前に明石の君と中宮が三宮(匂宮)たちを引き連れて

やってきました。冷泉院と梅壺の中宮もお着きです。


薫の君だけがまだお見えになりません。仏道入門のため

今比叡山で学問中だからでした。


夜が明けると高僧がまた一人増えました。

さらにもう一人加わって法華経が庵に響き渡ります。


続々と牛車が雲隠庵に集まってきます。

按察使の大納言もお見えになりました。

比叡山から座主がお見えになり高僧7名による

葬儀が始まりました。


身内の者は皆濃い鈍にび色の衣、棺には白単衣の源氏が

笑みを浮かべて収まっています。焼香が始まり樒しきみを

一人づつ棺に納めて最後のお別れをします。


樒に埋もれた源氏はことさら美しく生きているように微笑んで

いました。棺の蓋は釘を石で打ち込まれ親族が担ぎ庵の出口に

運ばれます。黒塗りの平牛車に乗せられ家族が取り囲みます。

子供たちも一緒です。


その後ろに高僧たち、さらに多くの僧、総勢20人ほどで

ずっと法華経を唱えています。寿量品は何度も繰り返され

ます。そのあとに多くの人々が続きます。長い行列は化野

まで続いていました。


大きくやぐら状に組まれた檜と桐の上に棺はのせられます。

巡りながら最後の別れに僧が続きます。大きな読経の声の中

パッと火の手が上がります。

炎はみるみる大きくなり棺を覆ってしまいます。


高まる読経と燃え上がる炎に棺は燃え尽き、煙が立ち上り

みるみる鎮火しました。高僧が清めの酒と水を振舞います。

棺は白い灰の中に燃え落ちます。赤い輝きが中心部に残って

この世に名残を惜しんでいるように見えます。


とその時、ぽつりぽつりと雨が降り出しました。

僧たちは急ぎ骨壺を用意して親族に骨拾いをせかせます。

無常の煙と灰の香りが一帯に広がり、人々はこの世と

あの世の境を漂っているように見えました。


すると突然誰かが大きな声で叫びました。

「薫様じゃーっ!」

皆一斉にはるか東のほうを見つめます。


比叡の空には黒雲がかかり今にもこちらを覆いそうに

迫ってきます。そのわずか手前に砂埃が舞い上がって

います。みるみる近づいてきます。


駿馬に乗った薫様です。水干に髪をなびかせ全力で疾走して

きます。


「父上ーっ!父上ーっ!」

馬を庵の手前でお止めになり、息を切らせて人をかき分け

荼毘だびのもとにたどり着きます。


雨脚が急に強くなってきました。人々は徐々に足早に去って

いきます。骨壺は夕霧様が抱えておられます。惟光様が傘を差し。

高僧も傘の中で読経されておられます。他の僧はびしょ濡れ

ですがずっと読経されてます。


夕霧様が竹箸を薫様に手渡されます。薫様は息を整え無言で燃え

尽きた白骨を眺めておいでです。しゃれこうべ以外はほぼまだら

に皆が骨を拾われたみたいです。

のど仏が残っていました。夕霧様がこれを拾うようにと示されます。


のど仏を骨壺にお入れになったところで僧が蹴鞠ほどの石を持ってきました。

雨の中残った骨を砕いていきます。しゃれこうべだけが残りました。

夕霧様が骨壺を抱えたまま薫様に目で合図します。


薫様はその石を受け取りしゃれこうべを粉々に砕きました。

「父上は最後に何か言われましたか?兄上」

「ふむ、南無法華経、南無法華経じゃと申された」

「南無法華経、南無法華経、と?」


夕霧様は大きくうなずいておられます。

二人の兄弟は雨の中、しばし黙してたたずんでおられました。


林の影から傘の中、一人の尼宮がずっとこちらを窺うかがっておられます。

それは女三宮の尼君。雨脚はさらに強くなり。嵯峨野は空も人も

すべてが鈍色にびいろに覆われてしまいした。

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