第4章 Ⅲ


 怪盗として、ローグは変装を嗜む。今日のテイストは五十代後半の老紳士風。白髪に見えるよう髪を灰色に染め、肌はやや黒くして偽の皺を化粧で作る。服と靴は数年前に流行った〝古臭い〟デザインにチェンジ。やや腰を曲げ、杖に預ける体重を増やす。まるで、本当に足腰が悪くなってしまったかのように歩き方、重心の位置を鏡でチェックする。


「よし、まあこんなもんだろう。ったく、変装も楽じゃねえなー」


 帽子を深く被り直し、私室から出たローグは一階へと下りる。すると、キッチンから、ちょうどヒューロが出てきた。その姿に、男は小さく口笛を吹いた。


「おお、相変わらずヒューロの変装は凄いな。身長も三インチは伸びたし、随分と大人っぽくなった。これなら外を出歩いても、あの時の〝メージ〟なんて気付かれないだろうさ」


 ロンドンで日本人、それも〝大和撫子〟は珍しい。なので、ヒューロも変装していたのだ。踵が高い靴を履き、いつもの着物ではなく洋式の淡い青色のドレス風ワンピースを纏う。長い黒髪をうなじが見えるように頭の高い位置で纏め、薄い化粧を施す。いつもよりも五、六歳は大人びた印象である。


「用心するに越したことはないでしょう。と、私は自慢げに胸を張ります。……ところで、ローグさんは今からどこかにおでかけですか? と、私は不思議そうに首を傾けます」


「ああ。ライアーク・ストーナーに会ってくる。情報の交換と、色々な策を少しだけ」


「そうですか、分かりました。と、私は納得します。どうか、ヤードの連中にお気を付けて。と、私は深く、それは深く釘を刺します」


 ヒューロの瞳に浮かぶ憂いに、ローグは微苦笑を浮かべた。そして、少女の頭を優しく撫でる。すると、娘の頬がみるみるうちに赤くなっていく。まるで、アルコール度数の高いジンを二パイトも一気飲みしたかのように。あわあわと、少女が慌て出した。


「なななななっ。なにを急にするんですか貴方は! び、びっくりするじゃないですか! じょ、女性の頭を許可なく触るなんて破廉恥です!! と私は文句を言い奉ります!!」


「そんなに変か? 変だなー。セシルにすると、骨を貰った子犬みたいに喜ぶんだけどな」


 じゃあ仕方ないとローグが手を離すと、ヒューロは安心したような名残惜しいような表情を浮かべ、そっぽを向いてしまう。ただし、まだ顔は耳たぶまで真っ赤なままだった。


「……一つ、尋ねてもよろしいでしょうか。と、私は貴方に一つ尋ねましょう」


「そろそろ、その面倒臭い口調も直して欲しいところだな。それで、なんだ?」


 変装姿のまま、ローグは杖を肩に担ぎ、あくまで自然体でヒューロの言葉を聞く。少女は、まるで百年を生きた老婆のように掠れた声で、なんとか質問を紡いだ。


「私は、ここに居てもいいのですか? 私が、ここに居ても、許されるのでしょうか」


 ローグが黙ったままでいると、ヒューロはもう耐えられないとばかりに、早口で、まくし立てるように言う。その瞳は涙と悔恨、若干の怒り、耐えがたい激痛で潤んでいた。痛々しい表情は、とてもではないが見ていられない。


「私は、過去に多くの人を殺しました。たとえ、それが犬畜生だとしても、人を殺したことに変わりはない。私の手は血で汚れています。そんな私が、貴方のような人の傍に仕えて本当に許されるのでしょうか? アリスは、良い子です。仕事もすぐに覚えてくれるでしょう。私は怖いんです。数日前、私はヤードの剣士と戦いました。その時に、思ってしまったのです。ああ、充実していると。戦場の空気が心地良かった。血の臭いがしないのが、物足りなかった。私の心には、鬼が宿っている。それも、獄卒の悪鬼が」


 それは大袈裟だと、ローグは笑い飛ばせない。初めて出会った日、彼はヒューロと本気で戦う破目になった。それも、後一歩で首を落とされる寸前まで追い込まれた。あの時の今日は、今になっても背筋が凍るほど、鮮明に思い出せる。


「ヒューロ。今の君は、もう昔のヒューロじゃない。発明が好きで、飯に五月蠅い、ただの女の子だ。だから、これ以上、自分を追い詰めるな」


「けれど! 私は怖いんです。いつか、私の剣は貴方に向いてしまうかもしれない。今はまだ、抑えつけている。だけど、いつ負けてしまうか。ローグさん。私は一人でも生きていけます。だから、一言『お前はいらない』って言ってください。それだけで、全てが解決するんです。私は、貴方を、命の恩人に手を掛けたくはへげっ!?」


 ヒューロの言葉を強制的に止めたのは、ローグの右腕だった。少女の頭を滅茶苦茶に撫で回し、整えられていた髪が乱れてしまう。急な出来事に異国の剣士が困惑していると、イギリスの紳士はぶっきらぼうながらに言葉を飛ばす。


「だから、大丈夫だって言ってんだろが馬鹿! ったく、どいつもこいつも、難しく考えすぎなんだよ。確かに、手前は〝怖い〟のかもしれない。その心の内側に虎か竜でも飼っているのかもしれない。……けど、それだけなんだろ? たったその程度で、どうして俺がヒューロを見捨てないといけないんだ。そんなに、俺が薄情な男に見えるのか?」


 ローグは、ヒューロの過去を断片的にしか知らない。それでも、彼女がどれだけ苦悩しているのかは痛いほど分かる。世の中には、個人ではどうにも出来ない不幸がある。そして、誰もが救われるわけではない。彼女は未だに、過去に縛られている。だからこそ、今を恐怖し、未来に震える。これだけ小さな体に、一体、どれだけの焦燥と悲愴を背負っているのだろうか。彼には、彼女の不幸を取り除けない。傍にいるのが、精一杯。


「俺はヒューロを見捨てない。セシルだって、アリスだって、お前が大切だ。仲間だろ」


 傍に居る。それだけで、人は温もりを感じる。どんなに美味いローストビーフも独りで食べるのは味気ない。なのに、皆で食べる料理は、たとえ粗末なハギスでも美味しい。それはきっと、人の限界だ。ローグは、ヒューロに知って欲しい。世界は君が思っているほど、君に厳しくはないと。


「というわけで、俺は仕事に行ってくる。三時までには戻るから、アリスにスコーンを焼いておくように言っておいてくれ」


「……貴方と言う人は全く。けれど、感謝します。と、私は貴方に微笑みを湛えましょう」


 ヒューロは今にも泣きそうな微苦笑を浮かべ、彼の背中を見送った。


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