第3章 Ⅶ

「……随分と何か言いたそうな顔だが、不満を抱えているのなら言ってくれ。部下の憂いを晴らすのも、主の務めだからな。おい、なんで今、鼻で笑った? 今、笑ったよな?」


「いえ~、別に笑っていませんよ、ぶふ。主の務めってカッコつけて、ぷはっ。ローグ様もたまに面白いことを言いますねー。けっして、ふん、笑って、えん、いませんよ?」


「せめて、もうちょっと隠せよ。お前さ、もうちょっと初期の自分を思い出そうぜ」


 主と使用人が仲良く談笑する空間。ここは、ローグの寝室だ。テーブルの前で椅子に座った彼のために、アリスはカップへと紅茶を注ぐ。寝る前の一杯は、この屋敷での恒例だった。ちなみに、今は居ないがセシルは寝る前にホットミルクとバターパンを食べる。ヒューロは何も飲まず、茶髪は何も飲まない代わりにパイプで一服するのが趣味だ。


「前から思ってたんですけど、ローグ様の寝室って必要最低限の家具しかないって感じですよね。盗んだお金で豪遊したりしないんですか?」


「あのな。盗んだ金は貧しい奴らに寄付したり、元の持ち主に返したりしているんだよ。確かに、少なくない額の報酬は別に貰うが、豪遊する程の余裕はない。まあ、安心しろ。お前にはちゃんと報酬は出してやるよ」


 その言い方に、アリスはピシッと眉間に青筋を浮かべたのだった。そして、とびっきりの笑顔で紅茶を差し出す。ローグが小さな悲鳴を上げるほど喜んでいた。


「私、そんなに金に汚いように見えますか? そんなに金が欲しそうに見えますか?」


「い、いや、その、すまん。俺はどうも、人が気に触るようなことを言ってしまう癖があるらしい」


 慌てて謝るローグ。セシルは彼をじっと見つめ、呆れたように嘆息を零したのだった。

「別に良いですよ。お金が欲しいのは本当ですし、報酬が弾むのなら、やる気も出ますしね」

 ぶつぶつ言いつつ、アリスはローグを横目で一度だけ睨んだ。男は、居心地悪そうに紅茶を啜る。


「ねえ、ローグ様。どうして、あなたは怪盗なんてすることにしたんですか? 貴方って、実は大貴族の末裔とか、魔術師とか、そんな面白背景ってないんですか? ちょっとぐらい、教えてくださいよ。部下に隠し事をする上司なんて、性質が悪いって相場が決まってるんですからね。ほらほら、さっさと吐いた方が身のためですよ」


「アリスはなかなかに強情だな。……先に言っておくが、六ペンスで売ってるブロードサイドのような愉快な話しじゃねえぞ。それでも、聞くんだな? 後悔はしないだろうが、それでも、お前は選択を迫られる。俺としては、お前のような人間には、聞かせたくないんだがな」

 ローグの忠告は、アリスの脳裏に、撃鉄が起こされた拳銃をイメージさせた。そして、銃口はこちらを向いている。いつ、暴発するのか。あるいは、いつ撃たれるか。少女は喉奥に恐怖を覚え、足を踏ん張って飲み込んだ。望むところだったからだ。


「構いません。全部、教えてください。今更、何も後悔なんてありませんよ、絶対に」


「強気な言葉だ。そこまで言われたら、仕方がないな。……俺の全部を教えてやるよ」


 ローグは苦く笑い、紅茶を一口啜る。天井を仰ぎ見ながら大きく息を吐いた。椅子に深く座り直し、背中に押された背凭れが僅かに軋んだ。アリスは立ったまま、胸の前で両手を組んで彼の言葉を待った。まるで、闇夜の嵐が止むように、神へ祈りを捧げるように。


「俺が生まれた家系つまりキャバリー家は、元々、騎士の家系だった。戦争があれば誰よりも早く馳せ参じ、敵と戦い、民を救い、国を守ってきた。剣が銃になろうとも、それは変わらない。ずっとずっと戦ってきた。祖父も父も兄も名高い軍人で、母さんは貧しい人のために慈善活動に積極的だった。……俺は、そんな家族が誇りだった。俺も戦える歳になれば、戦場に行って、沢山の手柄を立てて、女王陛下から勲章を貰うんだって、本気で考えていた。けど、俺は軍人にはなれなかった。どうしてだと思う?」


 ローグの問いに、アリスは口を閉ざしてしまう。男は『すまんすまん』と軽く手を振って謝った。どんな言葉を、欲したのだろうか?


「お前はまだ生まれてないかな。一八七三年に世界恐慌が始まった。要するに、皆が貧しくなるような大不況さ。なあ、アリス。お前はイギリスが〝世界一の国〟って信じているか? もしも信じているのなら、止めておけ。……もう、この国は世界の頂点じゃない。アメリカやドイツが急速に発達し、地位は瓦解しかけている。安価な食糧輸入のせいで、国内農業の事情は壊滅的な打撃を被った。土地からの収入で生活している上流貴族にとって、まさに災厄そのものだったのさ。皮肉なことに、俺の家系は戦うことは得意でも、金勘定だけは下手糞でよ。一度悪い方向に傾けば、どんどん悪い方へと落ちていった。土地を売り、金品を売り、屋敷を手放し、使用人を解雇し、何もかもがなくなっていく。祖父は病院にも行かせられずに病気で死に、母は頭がおかしくなって笑いながら自分の首を包丁で切って死んだ。兄は家を出て何年も会っていない。結局、俺と父さんだけが残った」


 一度言葉を切り、ローグは紅茶を啜った。空になったカップへと、アリスは二杯目を注ぐ。

「ありがとう。で、俺はまだ〝平気〟だと思っていた。まだ、やり直せると思っていた。十歳だった俺は父さんに言ったよ。『これから良いことが沢山あるよ。だから、頑張ろう』って。けど、駄目だった。やっと見付かった安い借家で一晩を明かしたその朝、俺は、首を吊って死んだ父さんと目が合った」


 小さな悲鳴を上げるアリス。ローグは目を細め、再び紅茶を啜った。彼はもっと、御気楽だと高を括っていた。気苦労が多そうな表情はきっと、大袈裟なだけで『やれやれ、仕方ないな』と苦笑する〝程度〟の人生だろうと思っていたのに。それは、とんだ間違いだ。最初から貧しかった自分と、人生が崩壊しながら地獄に落ちた彼とでは、あまりにも落差が大き過ぎる。当然だ。普通の人生を歩んできただけで、ここまで冷たい目をするものか。


「そ、それで、ローグ様は、その後、どうしたんですか? 一人で、生活を?」


 きっと、聞けば後悔する。そうでなくとも、心に何かが残る。なのに、聞かずにはいられない。彼の言葉を、最後まで聞かなければいけない。


「ははは。ここからは、それほど面白い話しじゃない。俺の家を心配して、遠くからわざわざ祖父の古い友人がロンドンに訪れてね。俺がキャバリー家唯一の生き残りと分かると、腰を抜かすほど、驚愕しやがった。俺は、彼について行き、フランスの田舎町で真っ当な人生を歩む選択もあった。……けど、俺は彼について行かなかった。ロンドンで、やるべきことがあったからだ。それが、今の俺だよ、アリス」


 カップを皿の上に置き、ローグは右手の人差し指と親指だけを伸ばして拳銃を撃つ真似をする。架空の弾丸は、白い壁に着弾し、誰も傷付けはしなかった。


「ロンドンは、今、国というシステムが機能不全をおこしている。それは、これまで見て見ぬフリをしてきたツケで、怠惰の結果だ。貴族の有利性は薄まりつつあり、犯罪に対してヤードの連中は質も量も足りていない。貧乏人は貧乏人のままで、弱い人間だけが食い物になっている。それじゃあ、駄目なんだ。いいか、アリス。ヘレンのような何の罪もない子供が不幸な目に合うのは、珍しいことじゃないんだ。誰かが、悪人を成敗しないといけない。たとえ、その行動が怪盗で、泥棒で、強盗で、俺が悪人風情だとしても、それでも、俺は銃を握らずにはいられない」


 言葉の熱が眼光から漏れ出していた。アリスは、足の震えを覚え、ついテーブルに片腕を乗せてしまう。もしかすると、いや、もしかしなくても、自分はとんでもない人の女中になってしまったのかもしれない。


「あ、あの、こんなこと言うの。おかしいかもしれません。けど、言わせて下さい。ローグ様は、今、幸せですか?」


「幸せか? ああ、そうだな。今の所はなかなか楽しいぜ。悪人を出し抜いた瞬間は最高だし、こういうスリルがたまらない。ミューディースで好きな本が読めるし、ボクシングやボートレース、競馬でギャンブルするのも最高だ。それに、最近だと美味い飯が食えるからな。アリスが俺の屋敷で働いてくれて、本当に助かってる。ありがとう」


 急な感謝。不意撃ちな言葉に、アリスの頬が瞬く間に朱へと染まってしまう。


「きゅ、急に何を言い出すんですか、貴方は。もう、恥ずかしい。顔から火が出そうです」


 パタパタと頬を手で扇ぎ、アリスはそっぽを向いてしまう。この人は、反則だと思う。怖くて冷たい目をしていたのに、急に笑うから、つい意識してしまう。心が惹かれてしまう。主と使用人。身分違いも甚だしい。けれど、もしかすると、許されるのだろうか。


(いやいや、何考えてんだろう、私、この人は私の趣味じゃないし。絶対に苦労するし。うんうん。そうだよ。この人を好きになるなんて、絶対、絶対、絶対に有り得ない!!)


 そうだそうだ。こんな気苦労が服を着て歩いているような男を好きになるなんて、余程の変わり者だろう。もしも、そんな者が現れたらフィッシュ&チップスとビールで御祝いだ。ついでに、プラムのプティングでも用意すれば万々歳。


「……お前、今、何か失礼なことでも考えてなかったか?」


「いいえ、別にー。私はローグ様の忠実な部下ですので~。失礼なんてとんでもないですよ!」


 ビシッと言い切り、怪訝そうなローグを背にしてアリスは紅茶セットを片付けて寝室を去る。

 ドアを閉める直前、顔を見ないように、その分、大きめの声で言う。


「御休みなさいませ、ローグ様。良い夢が見られますように」

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