ストレンジ×ロンドン=ヴィクトリア ウナギのゼリー寄せ程度には薄暗く刺激的な世界で
砂夜
序章
アリス・ヨンデンシャーは紅茶と軽食を提供する喫茶店〝ティー・ハウス〟の一席を陣取り、四角いテーブルに突っ伏していた。窓税が撤廃になって四十年以上も経過した一八九〇年のロンドン・ヴィクトリア朝において、彼女の席は窓際の一等席だ。大気中には、石炭燃料を大量に燃やしたお陰で汚いスモッグが霧のように泳いでいるものの、夏も盛りの八月半ば、それも昼間となれば陽光が地上を祝福するように降り注いでいた。まるで、天使の梯子がいたるところで伸びているかのように。もっとも、彼女の顔に浮かぶのは落胆と絶望だった。人々を幸せにするのが仕事の天使でさえ『あ、あれはちょっと無理』と躊躇ってしまうだろう。十八歳のうら若き乙女がしてはいけない表情だった。
競馬で全財産スッた紳士でさえ、もうちょっとはマシな顔付きだろう。アリスの口から嘆息混じりの愚痴が零れる。その目には、光が全く灯っていなかった。
「あーあ。どっかに一万ポンドぐらい、落ちてないかなー。何かの間違いで誰かくれないかなー。あー、お金が欲しい。お金が欲しい。お金が欲しい。金、金、金!!」
とうとう知能指数まで低下しだしたアリスの肩を右手の人差し指で突っついたのは、テーブルを挟んで対面して座る少女だった。こちらは、ローラ・アチェート。同じ歳の腐れ縁である。身長はそれほど高くないものの、起伏がはっきりした容姿で、瞳はやや切れ長と好戦的な表情にも見える。声は、ややハスキーかかっていた。髪は赤毛で三つ編みである。少々田舎臭いが、それを指摘すると笑顔で鼻っ面を殴ってくるので禁句だ。
「馬鹿な夢視てないで現実見なよ。いい、アリス? 私もあんたも、絶賛無職で就職に難儀中なうえに今週中に働き口を見付けないと、安宿を追い出される。ここのティー・ショップの薄い出涸らしの紅茶さえ飲めなくなるんだよ? ほら、さっさと必死になって仕事を探しなさい。この求人広告に穴が開くまで仕事を探しなさい」
ようやく顔を上げたアリスが渋々と今日の朝刊に挟まっていた求人広告をローラから受け取った。ロンドンで広告税と紙税が両方とも撤廃されたのは一八六一年頃。今では様々な求人情報が新聞に載っているのも珍しくない。実際に働き口が見付かるかは別問題だが。
茶色の長い髪を頭の後ろで一本に纏めている少女は一応目を通すも、すぐに頭を抱え出す。
「だーって、これ全部、ブラックな職場ばっかりじゃん。日雇いはむさ苦しい男専用の力仕事だけだし、使用人の求人は紹介状が必須。タイプライターは経験者のみって書いてるし、電話交換のオペラーターは倍率高すぎ! 私が入る余地ないじゃん!」
「……オペレーターでしょう。アリスってさ、そろそろアイルランド訛り直したら?」
「訛り直して仕事貰えるなら、いくらでも直しますよこん畜生が! あーあ。なんで両親共々病気なんかで死んじゃうかなー。せっかく糞田舎から憧れの都会に来たって言うのに一人娘は天涯孤独でお金に困ってる! 神様はどこにいるんでしょうね分かりません!」
世界で最も繁栄している大都市・ロンドン。人口は六百万を超え、なおも増加傾向にある。十数年前と比べ、人口は約五倍、市街地面積は七倍以上に膨れ上がっているという途方もない計算だ。産業革命を皮切りに始まった経済発展は、それだけの恩寵を齎した。しかし、光があるところに必ず影がある。むしろ、貧富の差は広がるばかりなのだ。銀行経営者や弁護士、医者等の中流階級層が力を付けていく中で、ロンドンの総人口約六百万人のうち、三分の二に当たる下流の労働者階級は厳しい生活を強いられている。
仕事も家もない浮浪児の数は数万。悪い意味で有名な貧困街ホワイトチャペルやセブンダイアルズでは、平気で子供の死体が路上に転がっている有り様だ。
確かに、一部の上流階級層や金に余裕がある中流階級層では貧乏人への奉仕活動がすすめられているも、限界がある。アリスが再び、盛大な嘆息を零した。
「こんなことなら、前の職場で問題起こすんじゃなかった。私の尻を触ったコックは、その場で顎を砕くじゃなくて、影で下剤でも盛れば正解だったのよ。あーあ、失敗したなー」
「今の御時世、使用人は職場を辞める時に貰える紹介状がないと再就職はほぼ不可能だものね。あんた、外面だけはいいし、普通に働いてれば普通に〝こいつはそこそこ使えます。性格もそこそこです〟って当たり障りのない内容で書いて貰えたでしょうに」
「あははは。その台詞、耳を揃えてローラに返してあげるわー。あははは……金が欲しい」
口を開けば金、金、金のアリス。すると、彼女達のテーブルに人影が近付いてきた。薄紫のワンピースに白いエプロンを装備した若い女性店員である。右手には湯気を昇らせるカップが乗った木製のお盆を持っていた。
「はーい、お待ちどう。〝薄い〟〝出涸らし〟とは真逆の美味しくて濃い紅茶を二つ、持ってきました馬鹿野郎。砂糖入れる? 入れるわよね? 別料金だけど入れるよなー?」
ところどころ暴力性を隠しきれていない彼女の名は、アンネ・フランク。アリスとローラ共通の〝悪友〟である。少々乱暴な手付きでカップをテーブルに置いた女性店員は口元こそ笑っているものの、瞳には極寒の光を湛えていた。長い髪こそが女のステータスとまで揶揄される今、邪魔だからと肩にさえかからない短さのヘアースタイルである。その男勝りな性格と相まって、一定層から力強い人気を得ている。
客は昼休み中の銀行員から、さぼり中の女中、日雇い労働者、嘘臭い占い師、小奇麗な聖職者、私立探偵と様々だ。きっと、大半がアンネのファンであろう。紅茶を啜り、ローラが顰め面で鼻から長い息を吐き出す。
「棒砂糖(ランプ・シュガー)で頭突き刺せば、あんたも少しはマシな性格になるかもね」
「ほーう、言うじゃねえか。表出ろよ。その間抜け面を少しは〝成形〟してやる」
バキバキと拳の骨を鳴らすアンネの口元には好戦的な笑みが浮かんでいた。眼光鋭いローラと睨み合い、だが、どちらともなく面倒臭そうに表情を緩めたのだった。やれやれとアリスは紅茶を啜る。今日の紅茶は薄い出涸らしではなく、普通に美味い。それも、微かに砂糖が入っている。もしかすると、気を遣ってくれたのだろうか。
アンネがガリガリと後頭部を掻き、同情半分呆れ半分の視線を客兼悪友二人へ向けた。
「どうして手前ら二人は仕事が続かねえんだよ。雑貨屋に、使用人に、路上販売、貸出本屋。どれもこれも、半年以上続いてねーじゃねーか。そこまで馬鹿じゃないだろ? もうちょっと忍耐力ってもんを持ってみやがれ。続けないと、分からねえこともあるんだぞ?」
「そう言われたってさー。色々あるんだって。金が貯まらなそうな所で仕事したくないし」
「私は仕事に意義を見出す。ただ働くだけでは意味がないの。それが、現代の女性に足りないものね。仕事を有意義な時間にするこれこそが、求められるレディの条件よ」
「……手前ら、なんだかんだ言って理想が高すぎるんだよ、ボケナス共が。別に手前らが行き倒れても構わねえけどよ、変なプライドで飢え死になんてつまらねえだろうが。最悪、アイルランド人と一緒にオランダガラシでも売るんだな。一ペニー資本の良い商売だぜ?」
アンネの提案に、アリスとローラは顔を見合わせ、苦々しく口元を歪ませたのだ。
「オランダガラシって、アレでしょ。職人気質の連中が朝から山みたいにして食べる緑色の葉っぱ。コヴェント・ガーデン近くにあるファリングドン市場で半ペニー銅貨数枚もあれば買えるお手軽さ。されど、利益出すのは難しい。拳大のベーコンを買う分の利益を出すことさえ難しい。それも、売っている時間は朝の三時ときたもんだ」
アリスの大袈裟な身ぶり手ぶりに、ローラがオペラのように台詞を繋げる。
「ロンドンの夜は時として真冬並みに冷える。はっきり言って、労働と対価がまるで合っていない。あんな商売をするのは、身体が悪い奴か本当の貧乏人だけさ。逆立ちしたってそいつはごめんだね。それだったら、昼間にシティの城壁近くで物乞いをした方がまだ有意義だろうさ。半日もあれば銅貨がポケット一杯に貯まるだろうよ」
「そうかいそうかい。で、今週の家賃はどうやって払うんだ? 確か、今住んでるのは三ペンスの安い宿屋だろ。七日分で二十一ペンス。つまり、一シリングと九ペンスだ。ちなみに、このティー・ショップで使うオランダガラシは黒人のジョーンでガキが売りに来るから無駄だぜ。卵も鰊もベーコンも他の小売野郎で手前らの出番はない。残念だったな」
この時、顔に不満を浮かべなかった自分を褒めてやりたい。アリスとローラの表情は、そんな〝澄まし顔〟だった。
「これじゃあ、週末に三人揃ってパブに行くって恒例行事も今回はご破算かねー」
アンネの挑発的な台詞に、黙っていられるほど、アリスもローラも英国人の血を忘れてはいなかった。
「私は参加するよ。ねえ、アリス。絶対に参加するわよね?」
「当然よ。ビールは私達の血で潤滑油で、燃料よ。飲まなければやってられないじゃない」
「……手前らのそういうところ、私は嫌いじゃねえよ。じゃあ、まあ、せいぜい頑張れ」
それだけを言い残し、アンネは別の客へと注文を取りに行く。建てられてから半世紀以上は経過しただろう年期が入った狭いティー・ショップに店員は彼女一人。それでも、正規雇用には変わらない。あまりにも羨ましい後ろ姿に、アリスは『ベーコンの食い過ぎて太ってしまえ』念波を送る。再来年辺り、本当に届くかもしれないと割と真面目に考えた。
「ちょっくら、真面目に就職先を探すべきかもしれないわね、アリス」
「ええ、そうねローラ。ビールとベーコンのために金を稼がないといけないわね」
中流階級である医者の優劣が『馬車を所持可能なほど儲かっているか否か』なら、労働者階級の優劣は『肉が食えるか食えないか』だろう。アリスは紅茶を啜りつつ、窓の外を眺めた。霧の隙間から漏れ出した光が目に飛び込み、眉間に皺を寄せるようにして目蓋をギリギリまで閉じる。
ロンドンの中心地にある金融街・シティの、さらに中心にある地下鉄・バンク駅からやや南東に外れた位置にある、大きな十字型の通り、名はレドンホール・マーケット。元は一世紀にローマ人が建てた教会の跡地である。鉄骨と硝子で構成された立派なアーケードが広がり、雑貨屋、軽食店、ティー・ショップ、パブが所狭しに並んでいる。馬車も人も絶え間なく往来し、活気に溢れていた。当然、働いている連中の姿も多い。アリスは、自分だけが取り残されたような疎外感を覚え、うんざりと嘆息を零したのだった。
「へえ、シティのサザード銀行で三万ポンドが強奪されたって。地下に穴を掘って盗んだとか、馬鹿馬鹿しいぐらいに凄い発想だこと。ねえ、ローラ。私と一緒に穴掘りしない?」
「その流れで『あら、良いわね』なーんて言うわけないでしょ。私も読んだわよ、それ。なんでも、潰れた雑貨屋から銀行まで地下で繋がるように百ヤード以上も掘ったって。そんなこと出来るの、屈強な男の大集団に違いないわ。知ってる、アリス。最近、ロンドンの色々な所で盗みが多発しているんだって。で、盗みがあった現場には手紙が置かれているそうよ。曰く『我々は我々の正義に基づいて行動した。怪盗〝バイオレット・ムーン〟』ってさ。なーにが、紫の月よ。きっと、頭の狂った連中に違いないわ。ほら、あんたが読むページはニュースの方じゃなくて求人広告の方でしょうが!」
読んでいたページを無理矢理変えられ、アリスは低くうなった。
「そんなこと言ってもさー。もう読んだって、どれもぱっとしないしー。いっちょ、真面目に〝物乞い〟でもする?」
「真面目に物乞いしようなんて言う奴、あんたが初めてよ。シティの城壁跡地の近くで汚い泥の上に座るなんて、私のプライドが許さない。救済院よりも〝我慢〟出来ない」
「はいはーい。冗談だって。そんなに怖い顔しなくていいじゃん。あーあ。お金が欲しい」
憎き仇を見付けたように求人広告を睨みつける。そして、ぎょっと目を見開いた。まるで、魔法のように、今まさに文字が浮かび上がったように〝その〟一文を発見したのだ。
「ちょ、これ、使用人募集中で年齢は十代後半から二十代前半、女性が好ましく、仕事は主に家事洗濯雑用、給料は週給で十シリング、それも住み込み有り! 三食有り! お茶手当有り! 特別手当有り! それも、前の職場で貰える紹介状はなくてもよし!? ひゃっほい! これよこれ、これにするわ。つーか、もう、これしかない!」
「嘘っ。女中にそんな好待遇有り得ないって、何か、裏があるんじゃないの?」
信じられないとローラが求人広告へと首を伸ばす。勝ち誇ったようにアリスがビシッと書面に指を差す。そこには、こう書かれていた。
『キャバリー様のお屋敷で働く人大募集! 皆で和気藹藹と仕事を頑張る楽しい職場です』
「………………胡散臭いわねー」
「へへーん。きっとここが私の天職よ。がっぽり稼いでやるわ!」
興奮気味に鼻を鳴らすアリスに対し、ローラは酔っ払いの戯言を聞いたかのように顔を顰めたのだった。
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