ゆかりのおでん屋さん

ワカヤマ ソウ

はじめのひとくち

暑い季節が終わりを迎え、昼間にはまだその暑さをちらつかせるものの、夜にはその熱はどこかへ消え失せ、寒気を纏った風が顔を撫ぜる。

まだ時刻は午後10時を過ぎ半ばに差し掛かった時間であっただろうか。ここ最近、毎日のように残業をし、帰宅するのは、この時間になることが多くなっていた。

20代半ばでありながら、働き始めたばかりの男はぼそりと愚痴を夜道にこぼす。

「毎日毎日、夜遅くまで。俺は一体何のために働いているんだろうな」と。

そんな少しやつれた男を励ますように金曜日のまだ活気の残った街灯は男を嘲笑うかのように励ます。

少し背の高いやつれた細身の男は自炊をしていたが、立て続けの遅い帰宅は彼の足をコンビニへと向かわせる。

自動ドアはくたびれたようにゆっくりと開き男を中へと招き入れる。そんな男の食欲を刺激するように"おでん"の匂いが男の胃へと突き刺さる。細身の男の足は、まるで蟻の行列を辿るかのようにおでんコーナーへと歩く。

この時間だからだろうか、それとも急に寒くなったからであろうか、おでんケースの中は閑散としており、食欲を刺激された男の好みに見合う具は既に他人の胃へと渡ってしまっていた。男はこの心情を悟られまいとおでんコーナーから弁当コーナーへと流れた。

先ほど仕入れたばかりのがっつりの肉がふんだんに使われた弁当は男の胃にのしかかる。

「はぁ」と、小さく溜め息を吐きながら男は比較的肉の少ない弁当を手に取りレジで会計を済ませる。おでんの匂いは、またも草臥れた男の胃を涎まみれにさせるものの、誘惑に負けることなく自動ドアへと足を運び、開いたドアから後ろ髪引かれながらコンビニを後にする。

「もう一軒だけ……」そんな気持ちが空腹の男を帰路からまたほんの少しだけ遠ざける。この辺りのコンビニに思い当たる節もなく、彷徨っていると、欲望に満たされた男の目に"平仮名三文字"が映る。その文字を掲げた屋台がそこにあった。

「まだ、やってますか?」

欲望が店主へと声を掛ける。まだやってるよ、と匂いが応え、足はまだ中にいる1人の客の最長距離の席へ向かい、腰かける。

「お客さん、だいぶ疲れてるね。そんじゃ何にしますか?」

渋い声の店主は男の胃に問いかける。

「がんも、しらたき、それからとりあえずタマゴを2個お願いします。」

口は店主へと欲望を吐いた。渋い店主は「はいよ。」と欲望の注文を受け止め、取り皿に要求どおりのものを。

「こいつは、疲れてるあんたへのサービスさ。」

とグラス一杯の、表面張力をフル活動させた"おまけ"をくれた。

普段はお酒を飲むことがなく、飲むとしてもビールだったので、少し日本酒に抵抗があったが、せっかくのご厚意なのだ。このおでんとともに温まろう。そんな気持ちにさせた。

「どうぞ、召し上がれ。」

そんな言葉に返事をするように、頂きますと口を動かし、箸で茶褐色に染まったタマゴに噛み付く。長らく、温泉に浸かったタマゴはおでんの香りをふんだんに纏い、口に広がる。黄身が口の中の涎という異物を排除したころに"温泉"を流し込む。胃に新しい温泉地ができた。

そんなとき、ふと玲瓏な声が男の近くで鳴る。

「ほらー、やっぱり具から食べたでしょう。若い男の人ならやっぱり具から食べて欲しいよね。」

声の主は欲望を満たされた男の前に立っていた。いつからそこにいたのであろうか。音などしなかったことからすると、最初からそこに立っていたのか、或いは、"おでん"の中から出てきたのか。後者はまずありえないことからすると、最初から立っていたのであろう。少しあどけなさを残す玲瓏な声の持ち主の女は驚いた男と目が合うとにっこりと笑顔を作る。

「まったく、最近の若いもんは屋台の味わい方を知らねぇ。けっ、」

と一番遠くの客が独り言のように唾罵を吐き、手元にある半分まで減った酒を一気に飲み干した。空になったグラスを少し眺め、店主に差し出すと、店主は『賀茂鶴』と書かれた日本酒をグラス半分まで注ぐ。

「ケチケチすんな」と酔っ払いの客。

「まぁまぁ、これはお詫びさ」と店主。

なんだか、少しだけ居心地が悪く感じる。ただ今日が少しだけ寒く、おでんが食べたいと思う気持ちがどれだけ良くないものか、と思わせられ肩身の狭い気持ちになった。

そんな様子を見かねたのか、玲瓏な声の少女は少しだけ強く、声を出した。

「へぇ〜、ゲンさんは私の意見を無視するんですね。私はやっぱり仕込んだ具から食べてもらえるのは嬉しいんですけどね?」

とこちらを振り返ってにっこりと笑った。

「じょ、嬢ちゃん。そんなわけじゃねぇけどよ、やっぱりおでんはお酒から始まらなくちゃ…。」と申し訳なさそうに弁解する。

「ほぉ〜、じゃあうちのおでんだと、おでんよりお酒で選ぶんですね?そんなゲンさんにはお仕置きです!」

少女はおでんで残り2本の牛スジを男のお皿の上に置いた。

「これは、"お詫び"と"お礼"です!食べちゃってください!」

少女の笑顔に押され、食べる予定でなかった牛スジが追加される。

ゲンさんと呼ばれていた客は「そりゃぁないってよぉ」と惜しそうな顔でこちらのお皿に乗せられた牛スジを眺める。

なんだか、仕返しが出来る気がして僕は牛スジを1本手に取り串に刺さった肉を2つ口へと引き寄せる。柔らかいけれど噛み応えもあり、ぎゅぎゅっと旨味が凝縮しており、噛んだ時に出る出汁がなんとも美味であった。

まだ手をつけていない"おまけ"を飲む。今、男の口の中では"お詫び"と"お礼"、そして"おまけ"が男を満足へと導いていた。

"おまけ"はどことなく少し辛い日本酒は絶妙な味と食感の牛スジと相まって疲れた体芯から潤わせた。

「なんてうめぇおでんの食い方しやがるんだ、兄ちゃんよぉ…。」

と恨めしそうな、温かみのある声でゲンさんが嘆く。しかし、それは惜しそうな顔ではあるものの、どこか自分の好みを知ってもらえた、共有できた、という嬉しさを含んだ表情でもあった。

然しながら、こんな贅沢を満喫しているなかで、知らなかった身からすると、本来この牛スジはゲンさんのお皿にあるべきものであるのに、自分1人で独占とは忍びない気持ちになる。まだ手をつけてない牛スジを見つめる。

「ゲンさん、もう一本はゲンさんに差し上げますよ。僕は新しいおでんの食べ方を教えて頂いたのでその"お礼"です。いいですか?お嬢さん。」

お嬢さんと呼ばれた少女は、笑顔のまま「いいですよ。」と言った。

ゲンさんは、そんな僕の気持ちを少しだけでも汲み取ってくれたのか、

「そんなことなら、仕方ねぇな。でもな兄ちゃん。お礼をそのまま渡すのはいけねぇな。」

と僕の牛スジの刺さった串を真ん中で折り、半分にした。

「お礼の品は半分は自分に貰ったかねぇとお礼をした相手の好意を流しちまうぜ。」

そして、半分に分かれた"お礼"は半分は僕に、そして半分はゲンさんへと渡る。

「いいもんだねぇ。こうやって良い事された人は次の人へ良い事をする。その流れは、さ。」

店主は嬉しそうに笑った。

そして僕は、端のゲンさんから最も離れた位置からゲンさんの横へと移動し、最も近い位置になった。たった数分で人はこんなにも遠くから近くへと移れるもので、とても面白い。

そして、閉店までゲンさんと4人でお酒とおでんを堪能した。

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