第四話 矛盾

『まだ、まっすぐ歩いていいんですか?』

「うん。今までも、ひたすらまっすぐに歩きつづけてきたのよ」


 幽霊の質問に、早紀は足を止めて背後の雑木林を振りかえって、今まで歩いてきた道なき道を指さした。

「いくら広いったって、終わりはあるはずでしょ。右行ったり左に行ったりしないで、ただまっすぐ歩けば必ず出口につくはずよ。出口が見えれば、バックをなくした場所のヒントも少しは掴めるだろうし、バックを探しながら出口も探すつもりでこのまままっすぐ行きましょう」

 自分の頭脳明晰ぶりを誇らしげにして言うと、幽霊は大して感心した様子もなく目をまたたかせた。

『そうですね。反対にひたすら林の中心に向かってる可能性もあるけど』

「……嫌なこと、言うな」


 そんな早紀の信念に従って歩き、数十分。

 まるで変わらない風景を見渡して、青年幽霊がぽつんと呟いた。

『本当にまっすぐでいいんですか?』

「……いいの」

 だんだん自信がなくなってきた早紀は、それでも根拠もなく頷いた。

 それからさらに数十分。

『で、まだまっすぐですね』

「まっすぐよ、まっすぐ!」

 もはや完全に意地になって「まっすぐ」歩きつづける早紀は、幽霊のからかうような言葉にいい加減な答えを返した。

 幽霊はふーんとやはりいい加減にうなずいた。

「……文句があるなら、早めに言ってよね」

 早紀がムッとして言うと、幽霊はバックを探してあちこち視線をやりながら、「いや」と首を振った。

『ただ人って、まっすぐ歩いてるつもりでも、いつのまにか右だか左だかにそれて歩いてるって聞いたことがあったんで』

「それを早く言えー!」

 早紀はきーっと頭をかきむしって、茂みを覗きこんでいる幽霊の背中をゲシッと蹴りつけた。もちろん足は彼を擦り抜けて、むなしく茂みを蹴ってしまっただけだったが。


 一緒に行動しようと決め、歩きはじめてからすでに一時間近く。

 出口とバックを探しつづける内に、二人はだいぶ打ち解けるようになっていた。

 ひとりきりで歩いていたときに比べると、だいぶ心が楽だった。それに足も体もはるかに軽い。

 幽霊は基本的には無口な奴だったが、早紀が話しかけると丁寧に受け答えをした。たまに早紀のやらかす百面相に、腹を抱えて笑うこともあったし、さりげなく皮肉を言って早紀をからかうこともあった。

 楽しかったし、ひとりでないということに、想像以上の心強さを感じた。

 ときおり交わす会話が、心に染みるほどじんと温かかった。



 そして、ふたりで歩きはじめてから数時間が経ったろうというころ。

 とうとう早紀が音を上げた。

「……ない!」

 早紀は声を張りあげてその場に倒れこんだ。

「ないないない……!」

 駄々っ子のように手を振りまわす早紀に、幽霊もさすがに疲れたのか苦笑を浮かべた。

『しりとりももう飽きたしね』

「ルが来ても、もー語彙尽きて答えらんない」

 しまいにはしりとりまで始めていたふたりは、そろってため息を落とす。

「暗いせいで、よく見えないし。出口はあいかわらず見つからないし」

『今さらだけど、どの辺にどういう形で落としたんですか』

 うんざりと文句を吐くと、幽霊が早紀のそばに腰を下ろして首を傾げた。

 早紀はうっと言葉を詰まらせて、気まずい気分でもごもごと呟いた。

『え?』

 当然ながら聞こえなかったらしい青年幽霊は、悪気もなく聞きかえしてくる。

 早紀はそれを八つ当たりで睨みかえして、ぼそぼそと言いなおした。

「だから……雑木林の外から、彼氏にバックを投げ捨てられたの」

 幽霊はそれを聞いて、ひどく驚いた顔をした。

『ひどいね……』

 心底、あ然とした声で呟かれたので、早紀は嬉しくなって顔を輝かせた。

「でしょ! ひどいでしょ!? 買ったばかりのバックだったのに、思いっきりよ思いっきり! あんたにくれてやるチョコが入ってるってのに、それも知らないで思いっきり雑木林に投げ捨てやがったのよ!」

 興奮して畳みかける早紀に、幽霊は眉根をひそめて首を振った。

『……信じられない』

「よね!? ……そりゃ私が先にひっぱたいたのが悪かったけど、なにも捨てなくなって……だいたい、あいつが悪いのよ。遅刻してきて「ごめん」もなしなんだもん。せっかく私がチョコを徹夜で形にしたってのにさー」

『彼氏でしょう?』

 投げやりに説明される早紀の顛末を聞いて、幽霊はどこか不機嫌そうに聞いてきた。

「……一応ね。高校のときからの付き合いの」

『仲、悪いんですか』

「最悪。ここ何ヶ月かは喧嘩ばかりだったし。私はこのとおり、うるさい女で、でも向こうは無口で……根本的に気が合わなかったのよ。しかもあいつ、無口なくせに乱暴でさー! 私も口より先に手な人間だから、喧嘩が始まったら、それはつまりゴングが鳴る瞬間なのよね。最悪な奴だったわ」

『なんでずっと付き合ってたんですか』

「そんな呆気にとられた声で、率直な質問しないでよ……」

 早紀は長いこと考えて、自信がなさそうに首を傾げた。

「それはやっぱり……意地、かな。これだけ長く付き合ってきて、今さら別れるのもしゃくでさ。まわりはどんどん結婚してってるのに、私だけ一からやり直しなんて情けなくて……別れ話切り出すのもめんどいし」

 青年幽霊はふーんと言いながら、しかし不可解そうに首を傾けた。


『そんな中身のない関係なら、こんなになってまでチョコ探さなくてもいいのに』


「へ?」

 なんだか思いもよらないことを青年が呟いた気がして、早紀はすっとんきょうに聞きかえした。

 しかし、青年幽霊は真剣な顔で、同じ言葉を繰りかえしてきた。

『なんで探してるんですか? チョコ』

「なんでって……それは後悔したからよ。喧嘩ばっかの毎日にうんざりして、チョコあげて仲直りしようって思ってたの。バレンタインデーに。でも、結局喧嘩しちゃって、それで喧嘩しちゃったことを後悔して、チョコを探しに……」

 途中まで言いかけた早紀は、自分で自分の言動にぽかんとした。

 すごい矛盾だった。

 意地で付き合っていたのだ。別れるのが癪で。つまり中身のない関係だったのだ。

 そう言っておきながら、バレンタインデーをきっかけに、関係を修復しようとしていると言う。喧嘩ばかりの日々がいやで、仲直りしたかったのだと言う。

 そして結局、喧嘩してしまったことを後悔して、チョコを探している、と。

 中身のまるでない関係のはずなのに。

 何故、自分はバレンタインデーに関係を修復しようとして、そして今こうしてチョコを探しているのだろう。

 幽霊は、沈黙の理由を勘違いしたのか、あ、と慌てたように頭を振った。


『すみません、話したくないことならいいんです』


 青年幽霊は頭を掻きながら、ふたたびチョコを探そうと立ち上がった。

 そんな青年幽霊に、早紀はとっさに腕を伸ばす。


「あ、いや……あの」


 不思議そうに振りかえってくる青年の白いぼんやりとした顔を見上げながら、早紀は腕を胸元に戻して、小さくうつむいた。

「……違うの。ごめん」

 呟いて、早紀はため息を落とす。

「よく、わからないの。あっちはもうとっくに私を見放してたと思う。私だって喧嘩ばっかりでうんざりしてた。最悪な奴だとずっと思ってた。……なのに、なんでそれでも付き合ってたのか、よく分からないの」


 向こうはとっくに早紀に見切りをつけていた。

 けれど別れを自分から切り出すような奴じゃなかったから、ここまでダラダラと続いてきた。

 チョコを雑木林に投げ捨てられたとき、早紀はもう終わりだと悟った。

 早紀が別れを言えば、彼はあっさりうなずいただろう。

 なんの気兼ねもなく別れることができたはずだ。

 けれど、どうしても、早紀には別れ話ができなかったのだ。

 なぜか分からない。もしかしたらこの無駄に高いプライドのせいかもしれない。長い間、付き合ってきた――その意地があったのもたしかだろう。


 でも、それだけだろうか。



「……あー、あはっ」

 早紀は不自然に明るく笑った。これ以上考えると、あまり嬉しくない答えが見つかってしまいそうだった。

 だが青年幽霊は笑わずに、ただじっと早紀を見ていた。

 なにもかもを見通すような視線に、早紀は一瞬、理由の分からない恐怖心に駆られる。だが次の瞬間、幽霊がその眼差しのまんまに呟いた台詞に、一気に腰くだけになった。


『その人、見る目なかったんですね』


「…………」

『どうかしました?』

 やっぱり生きてたころはナンパ師だ。しかも天然の。

 そう結論づけて、早紀は三度目の馬鹿で赤くなる頬を両手で覆い、「なんでもないわよ……免疫ないのよ……ほっといてよ……」とぶつぶつ呟いた。

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