ホワイトディの妖精
翁まひろ
第一話 白い影
視界いっぱいに広がるのは、不気味な夜の雑木林。
頭上を覆う枝々の隙間から降りそそぐ月光は、不気味さを助長させるように、赤い色をしている。森は墨でも零したように真っ黒で、なのに降ってくる光は赤くって。
「……陳腐っ」
早紀は汗で濡れた髪を掻きあげると、息の切れたかすれ声で乱暴に吐き捨てた。
倒れるようにしてその場に膝をつく。肩が激しく上下し、そのたびに乾ききった喉がチリチリと痛んだ。
雑木林は虫の音すらせず、耳が痛いほどの静寂に満ちていた。自分の吐き捨てた言葉と荒い息が耳について耳について仕方ない。
「もー! なんなのよこれ! 陳腐なホラー映画のセットじゃないのよ!」
不気味な静けさを振りはらうように、早紀は地面をバシバシと叩いて、ことさらに声を張りあげた。
「赤い月に、出口のない雑木林、ベターすぎるってのよ! 少しは王道外れてみなさいよ、こんの……っ三流大根監督ー!」
早紀はひたすらわめいた。言っている内容は自分でも意味不明だったが、それを誰かに責められるいわれはない。早紀にとっては、この状況のすべてが意味不明なのだ。異常な状況下に置かれ、それでも正常な台詞が吐ける奴は、それこそ異常者に違いない。
「ここ、どこなの……?」
早紀はぽつりと力なく呟いた。
少しだけ期待していた返事は、やはり返ってこなかった。
──この年齢にもなって。自分でもそう思うが、早紀は迷子になっていた。
道端にあった、ただの雑木林だった。戦後植林された杉が大半を占める、ごく普通の雑木林だ。
なのに軽い気持ちで入ったら、出口が分からなくなった。
出口を探して走りまわっているうちに、いつの間にか方向感覚までも見失っていた。
「……最悪」
早紀は倒れついでに膝を抱えて、ころんと顔を横に向けた。そして、ふと見えた泥と砂埃で汚れに汚れた赤い靴に、がっくりと肩を落とした。
気にいっていた靴だったのに。ヒールが高くて疲れるのだが、形が良くて……なのに見るも無残に汚れている。
服だってそうだ。ブランド物でもないくせに、すごく高かった。けれど他にはないとそのときの早紀には思えるぐらい、綺麗なツインだった。薄い色の地に、それよりも濃い赤で花の模様があしらわれている……それも今や泥だらけだ。ついでに言えば、ストッキングまであちこち破れている。
打ちのめされて、早紀は強く膝を抱きかかえた。
本当なら、今日は最高の日になるはずだったのに。
日付が変わっていないならば、今日はバレンタインデーだった。
早紀には付き合いはじめて、ずいぶんになる恋人がいる。
付き合いが長くなると、互いの嫌な面がたくさん見えてくるもので、最近つまらないことで喧嘩をすることが増えていた。そんな状態にうんざりした早紀は、お互いに交際しはじめたばかりのころの気持ちを思いだせればと、このバレンタインデーにチョコをあげることにした。仲直りをしようと思っていた。──最高の日にしよう、と。
気合いを入れて、朝早くに起きた。前日までに選びに選んで買った服を、しつこいくらいアイロンにかけた。靴もせかせか磨いて、歯だって何度も磨いた。いつもは適当な化粧も、一時間も前からはじめたりして……。
なのに。
どうしてこうなったのか。
待ち合わせの場所に、彼はかなり遅れてやってきた。寒いなか、さんざん待った早紀に「ごめん」の一言もなかった。
私の気持ちも知りもしないで……そう思うと腹が立って腹が立って、少し歩いたところにあるレストランへ入る前に、彼をひっぱたいてしまった。
彼はすごく怒った。すぐにまた喧嘩になった。彼のほうもここ最近の状態にいらだちが募っていたのか、今回はいつも以上に激しい喧嘩になった。
長い口論のすえに、彼は早紀の持っていたバックを──チョコの入っていたバックを奪いとって、怒りにまかせて道端の雑木林に投げ捨ててしまった。
そこからは泥沼の展開になって──その先は思い出したくもない。
喧嘩が終わったあと、早紀はすぐに後悔をした。
仲直りするつもりでチョコを用意したのに、我慢の足りなかった自分にひどく後悔した。遅れてきた理由が何かあったかもしれないのに、聞きもしないでひっぱたくなんて……。
だから早紀は雑木林に踏みこんだ。なくしてしまったチョコを探そうと思って。
そして、迷った。
迷ったと気づいたときにはもう遅くて、慌てて出口を探して走りまわったら余計に迷って、ふと我にかえればこのありさまだ。
どんなに走っても、林はどこまでも続いていて、チョコも見つからなかった。
落ちこんでいる場合じゃないのは分かっている。こうしていてもしょうがない。膝に顔を埋めてたって、雑木林が消えうせるわけでも、チョコや出口が見つかるわけでもないのだ。
けれど。
「……探しにぐらい来なさいよ」
早紀は浮かんでくる涙を情けない気持ちで拭った。
進むべき方向を直感で決め、早紀はふたたび歩きはじめた。一歩歩くごとに痛む足首に、靴を捨てていこうかと何度も迷いながら、結局惜しくて捨てられぬままひたすら歩きつづける。
「あの月、ずっと同じ場所にある気がする……」
静まりかえった雑木林のなかを、ひとり黙々と歩くのがあまりに怖くて、早紀は独り言をつぶやいた。
頭上に浮かぶ赤い月。なんとかの海だとか名前がついた月の模様が、まるで染みになった血かなにかのようで、とても気持ちが悪い。
「けっこう歩いた気がするのに、まだそんなでもないってことかな……」
もう足がもつれるぐらい、雑木林をさまよい歩いているのに、月は上りも沈みもしていないように見える。単なる気のせいだろうか。
早紀はおそるおそると周囲を見渡した。林の中には人影はおろか、鳥や虫の影ひとつ存在しなかった。
B級ホラー映画そのものじゃない。早紀はまた鼻で笑ってやろうとしたが、できなかった。たとえB級ホラー映画のようでも、早紀にとってそれはまぎれもない現実であり、まぎれもない恐怖なのだから。
高まる鼓動を必死で無視しながら、土と石ででこぼこした地面に四苦八苦しつつ、それでもチョコの入ったバックを探して首をめぐらせた。
人が見ていたら「この期に及んでまだ探すのか」と言われそうだが、出口なんてもうとっくに分からないのだ。出口付近に落ちているはずのチョコを探して歩こうが、チョコが近くに落ちているはずの出口を探して歩こうが、どう変わるとも思えなかった。
──それに、チョコを探すことを、もうやめるわけにはいかないのだ。
早紀は唇をぎゅっと引き結んで、止まりそうになる足を叱咤しながら、ただひたすらチョコの入ったバックを探しつづけた。
それから少しも経たないときだった。
「……?」
それまで休まず歩き続けていた早紀は、不意にその足を止めた。
目を見開き、彼女はそれを見つめる。
前方の木々の間に、何か白くぼんやりと光っているものがある。
なんだろう、あれ。
眉根をひそめて首をかしげた早紀は、それが人影であることに気がついた。
(な、なに?)
心臓の鼓動が一瞬止まって、再びドクッと脈を打つ。
白いそれは、人影だった。
人影は不気味なほどひっそりと立っていた。顔はよく見えない。全身が白いぼんやりとした光に包まれていて、顔の輪郭も、体の線も、いまいち判然としない。
ただ分かるのは、こちらをじっと見つめているということだけだ。
(なに、あれ……)
人? 自分の独り言を聞いて助けに来てくれたのだろうか。
だが、人だとしたら、なぜあんな風に光っているのだろう。ライトでも持っているのだろうか。いや、そんな光じゃない。まるで体の内側からぼんやりとした光を放っているような……。
早紀の脳裏に鳥肌のたつようなイメージが浮かんできた。
それは先ほどから頭をよぎって仕方がない、このあいだ見たばかりのB級ホラー映画の一場面だった。
──幽霊だ。
早紀は喉をつまらせ、そのまま凍りついた。
それを見てとってか、白い人影がひっそりと蠢き、こちらへと移動しはじめた。
「……っ」
早紀は衝動的に身をひるがえした。まるでそれを止めようとするように、白い人影が腕を伸ばしてくる。
早紀は自分の声とは思えない悲鳴をあげ、指の形がぼんやりした白い手から辛うじて逃れた。
だが、無理な姿勢で避けた反動で、足が絡まり、その場に尻餅をついてしまった。とっさに立ち上がれない。早紀は地面を這いずって、ともかく遠くへ逃げようとした。
しかし四つんばいで逃げる早紀に、幽霊が追いつけないわけがなかった。
「……ぁ」
自分の目の前に回りこんできた白い人影を呆然と見上げ、早紀は声も出せずにただ口を開閉させる。
幽霊はそんな早紀の様子をじっと見つめ、ふと腰を折って早紀の顔を覗きこんできた。
『あの』
「……!」
早紀はその辺に落ちていた石を拾った。無我夢中で幽霊に投げつけると、何個か命中したらしい、「いた……っ」という悲鳴が上がった。その隙をついて、早紀は萎える足を叱咤し、地面に手を叩きつけて無理やり立ち上がった。
よろめきながら走りだすと、背後から制止の声がかかった。
早紀は両手で耳に塞いで、重い足を必死に持ちあげて走った。
鬱蒼とした木々が、頼りなげに走る自分の両脇をのろのろと過ぎ去ってゆく。
心臓が恐怖と興奮と疲労とで、壊れてしまいそうにうるさい音をたてている。
「誰か……!」
早紀は助けを求めて、粘る喉を無理やり広げて悲鳴を上げた。
「助けて……、さ、
だが必死の祈りもむなしく、誰かが助けに駆けつけてくれることはなかった。
おそるおそる振りかえった背後からは、白い幽霊が自分を追ってきているのが見えた。
「いやー!」
早紀は反射的に目をつぶって、力いっぱい腕を振りあげて走った。
──どうしてこんなことになってしまったのだ。
がむしゃらに走りながら、早紀は今日の出来事を反芻する。
なにをどこで間違って、こうなってしまったのだろう。どこからがまずかったのだろうか。
今日は最高の日になるはずだったのに。
最高の日にしようと思っていたのに。
早紀は思い描いていた最高の今日とあまりに差のある、思い描けるはずもなかった恐ろしいこの展開に、ただひたすら目をつぶって逃れようとした。
『……っあぶな──』
そのとき、背後で鋭い声があがった。
早紀は、え?と目を見開いた。
──後で考えてみれば、当然の結果だった。
目をつぶって走るのが馬鹿だったのだ。
「あ」
避けようもないほど目の前に、黒ずんだ木の幹が迫っていた。
ゴンッ!
「────」
『…………』
「──……」
『…………』
顔面から幹に衝突した早紀は、鼻の先から頭の奥まで走り抜ける衝撃に、力なくその場に崩れ落ちた。
幽霊の足音がすぐ背後で止まる。
早紀はぐらぐらする頭をパニックでさらに沸騰させ、木に衝突したままの格好凍りついた。
そんな場合ではない。そんな場合ではないのは分かってはいるが、早紀は後にも先にもないぐらいの恥かしさで死にそうになった。正面から木にぶつかるなんて、そんな漫画みたいなことをやってしまうなんて。
早紀は真っ白になる頭で、必死に次の行動を考えた。
『……っぶ!』
とそのとき、背後の幽霊が吹きだした。
「な、なによっ」
早紀は耳まで真っ赤になって、幽霊相手であることも忘れて声を張りあげた。
「なによなによ! あんたが追ってくるのがいけないんでしょ!? 女怖がらせて笑って……最悪! 最低!」
一度叫ぶと奇妙な興奮が沸きあがってきて、早紀は恐怖心も吹っ飛ばして、勢い良く背後を振りかった。
『す、すみません』
背後では幽霊が深々とうつむき、手らしき部位を口に押し当てて、肩を小刻みに震わせていた。
「ちょっ……、笑わないでよ! ちょっと!」
早紀は前髪を苛々と掻きあげて、幽霊相手にがむしゃらに怒鳴りつけた。
「笑わないでよこの変態幽霊! 笑わないでってば! ちょ──」
掻きあげた前髪をそのまま引っつかみ、早紀は不意に言葉を詰まらせた。
途端、思いもよらず涙が溢れてくるのを感じた。
緊張の糸が途切れてしまった。誰もいない不自然な雑木林をひとりでさまよい歩いて、幽霊に追われて、転んで、怒鳴って……張り詰めていた緊張が、怒鳴ったことで切れてしまったのだろう、涙はどんなに拭っても後から後から零れてきて、それでも泣いていることを隠そうと、早紀は必死に「笑わないでよ」と繰りかえした。
もうとっくに幽霊は笑ってなんていなかったけれど。
不意に目の前にあたたかな気配を感じた。
顔を上げると、そこには身を屈めて早紀の顔を覗きこむ幽霊の白い顔があった。
『……すみません、そんなつもりじゃなかったんです』
幽霊は困ったような表情で、小さく囁いた。
その眼差しは、それが幽霊のものであるということも忘れてしまうほどに──優しい優しいあたたかさに満ちていた。
恐怖が体中からすっと抜け落ちていった。思わぬ優しさに、意思とは無関係に安堵してゆく自分を感じて、早紀はまた涙がぼろぼろと零しはじめた。
『ごめんなさい、泣かないでください』
幽霊は泣きつづける早紀に、おろおろとひどく人間くさく頭を抱えた。
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