3月29日 夏日

 桜が咲いているのに初夏の日差しとは。

 まるで花見に浮き輪をつけてくるような気分である。


 ――という意味不明な感覚に襲われる今日この頃。

 男は珍しく小説を執筆していた。


 それは、単に巡り巡ってやりたいことが無くなったからに他ならない。

 そして、やりたいことをするために必要な金銭が――おっと、誰か来たようだ。


 そんなわけで、他にすることもできることもないので書いているのだ。

 まさに、定年退職をしてお小遣いをへらされた隠居爺さんが如く生活をしている。

 御隠居と違う点は、職場との往復に伴う時間の浪費と、労働時間の有無である。

 もちろん、家庭内の仕事を担っている方もいるだろう。

 ただ、この職場との往復に伴う時間の浪費、これについてはいかんともし難く、もどかしい時間なのである。


 男は車で通勤していた。

 その目はただその視線の延長線上をたどり、安全の確認をし、カルガモが道を横断するかもしれない、線路で人が横たわっているかもしれない、ボールを追いかけて道路に飛び出す子どもを追いかけて飛び出す可愛い幼馴染を追いかけて飛び出すさえない青年を見ているボールを追いかけて無事に歩道に渡った子どもがいるかもしれない。

 そう思うとアクセルにかけた右足がプルプルと震え出すのである。


 視界は混沌に満ちている。

 運転手は常にデッドオアアライブの精神で、神経を日々削りながら通勤しているのだ。

 その日に日に削られた精神の体力は、自宅に帰ることには底をつきかけている。

 あとは美味い飯を食い、飲み物を喉ごしで味わうがままに一気に胃袋へ流し込む。

 その身を温かい湯に浸し、1日の自分という出汁を十分に取ってから床に着く。


 気がつけば、そんな暮らしを続けてしまっていたのだ。


 このスケジュールの中の一体どこに執筆に割く時間を作れば良いのだろうか。

 男はそれを考えると夜も眠れなくなった。


 目の下にできた黒いものを擦りながら、男は今日も精神を削りに行くのであった。

 やっぱり今日も執筆は進まないものだ。

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