6月6日 40話 編集中

 ついに、このエッセイも40話を迎えたのだが、同時に執筆が進まない言い訳を並べる方が他の本編よりも捗っていることに気づいた時には、正直自分に失望した。



 こんなことをずっと続けていていいものかと、四六時中考えている。

 考えてはいるが、それは常に考えるだけで終わってしまう。

 仕事でもそうだ。

 これはこうした方が良い、そう思ったことですら実行するには一歩足踏みをしてしまう。悪い癖である。


 物事に終わりがあるのだとすれば、それを終わらせるのは誰なのだろうか。

 いや、終わらせるのはなにも人の手によるものではないのかもしれない。

 物事は常に終わりに向かって進んでいる。

 これは、何事にも終わりを求める性質があるからだろう。

 素晴らしい結末を迎えたい、華々しい結果を得たい、そう思う心が、願望が、終わりを求めているのだろう。辛く厳しい戦いであっても、これがいつかは終わるとわかっているからこそ取り組める。


 では、終わりとはなんなのだろうか。

 結果なのだろうか。

 結末なのだろうか。


 結末は、完全なる「終わり」を描かなくてはいけないのだろうか。

 だとすれば、「終わらない」結末を描いた作品は「終わり」を迎えたのだろうか。


 手を加えられなくなって放置された物語は、「終わり」を迎えることはできていない。そう思うと、結末を迎えられなかった物語は、全て続いているのだと思える。物語は人の手が加えられることによって終わりに向かって進んでいくのだ。


 結局のところ、物語とは終わらせるためにあるのである。


 自分の人生はどうだろうか。

 終わりに向かって進んでいるのだろうか。

 だとすれば、この人生を描いている作者はどのような結末を望むのだろうか。

 壮大なスケールで、地上の数十億人の物語を描く舞台作家が、その数十億分の一である自分のセリフを操る。

 操られた自分は、舞台の中で決められたセリフを語る。

 このセリフが、どのような結果を生み、どのような順路をたどり、どのような結末を見せるのかは観客にはわからないだろう。

 でも、これだけは言える。自分がその舞台で演じる演者なのだとすれば、その結末がわかった上で、自分という役を演じたい。

 そうすれば、自分をもっとうまく演じようと思う。

 決められた終わりに向かって、演出家の望むまま、それ以上のパフォーマンスを見せたい。


 そんなテーマを考えた時に、ふと思うのである。

 自分は果たして、演者なのだろうか。

 観客なのだろうか。

 それとも、作者なのだろうか。


 人目につかない、編集中の状態の物語だけがそこにある。



 ・・・ということばかり書いていると「書く気がないならやめなさい」と言われかねないので、そろそろ言い訳から卒業をしようと思う。


 近況ノートから始めた言い訳日記がここまで続くとは思わなかったが、読み返してみれば、いろいろなことが起こったものだ。


 世界は興味を引くものばかりだ。

 今日起きたことも、明日起きることも。


 だから僕は、今日も小説が書けない。

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