怪奇帝國ロマネスク 影踏ノ鬼

瓶野こるく

第一章

 ――帝都の夜には魔が巣食う。

 文明開化の明治以降も、呪いや祟りは紛れもない事実として人々の常識の中に存在した。

 夜が更けてくるわ以外の灯が消えれば、闇はたちま魑魅魍魎ちみもうりょうの天下となる。畏怖の対象として教訓のように継がれてきたその言葉は、しかしこの大正の世においては既に子供の夜間外出を禁じるための小言に過ぎないものとなった。

 西洋化が進み、基督キリスト教的概念や西洋科学が新常識となりつつある時代の中、帝都で妖魔の噂が囁かれることは日に日に少なくなっていたのだった。


◆◆◆


 「面倒くせえなぁ……」

 大正十二年、卯月。

 ようやく華やいできた春の陽気、やあやあやっと暖かくなりましたな、どうですか上野や寛永寺で花見でも、などと純喫茶の客も浮足立つ中、一枚の紙を前にして一人の男が頭を抱えていた。

 年の頃は二十を過ぎて数年といったところか、雪原を思わせる白銀の髪に、水面に融ける望月もちづき黄金瞳おうごんどう

 大凡おおよそ東洋人離れ……否、した色彩を持ったこの男、名をひいらぎ 橙介とうすけという。

 大日本帝國軍憲兵隊所属、階級は少尉。そこそこ腕は立つが少しばかり不真面目な、何処にでもいる一般的な軍人だ。

 周りの空気など我関せず、カフェテーブルにうつ伏せてぶつぶつと呪詛を吐く橙介の頭上に、流暢な正統英国語クイーンズ・イングリッシュが降ってくる。

Helloやあ, Tousukeトウスケ. What’s happenedどうしたんだい?」

 橙介がのろのろと顔を上げると、そこにはここ数年でよく見知った顔があった。

 年の頃は橙介と同じか少し上、陽光に煌めく鮮やかな金髪に理知的な人柄を想起させる碧眼。橙介のような異色ではない、日本人が連想する西洋人の模範のような男だ。

「……Hello, Oscar.」

 ひらりと手を振ると、オスカーと呼ばれた男もにっこりと微笑み、向かいの籐椅子に座る。

 彼はオスカー・エインズワース。英国に本籍を置く製薬会社、エインズワース製薬の頭目にして、帝國大学にて薬学の教鞭をとる御雇外国人おやといがいこくじんだ。橙介とは或る縁から友人同士の仲でもある。

「珍しいね。君がそこまで落ち込むとは」

 母国語と遜色が無い程流暢な日本語でそう言って首を傾げるオスカーに、橙介は無言で手元の紙を押し付ける。

 オスカーが紙を手に取り目を通せば、なんてことはない。帝國軍の異動通知書だ。

『人事異動通知書

 大日本帝國陸軍憲兵隊第一師団

 柊 橙介 殿

 貴殿を大正十二年四月五日付で霊的防衛総司令部中佐に任命する』

「……異動命令? これ、明日からだね。

 階級は上がっているようだけど、何か不満があるのかい?」

 確かに急な異動ではあるが、独逸ドイツをはじめ西洋諸国がきな臭い現在、状況に応じた人事編成は何もおかしなことではない。

 強いて言えば少尉から中佐という異例の飛び石昇進が気になるが、橙介が憂鬱な顔をしている理由にはならないだろう。

「……これだよ」

 深い溜息を吐き、トン、と或る一点を指し示す。

「『霊的防衛総司令部』……確かに聞いたことのない部署だけど……?」

「それが問題なんだよ」

 オスカーの問いに苦虫を噛み潰したような顔をする橙介。

「ここは陸軍管轄じゃねえ、陰陽寮おんみょうりょう管轄だ。組織的には軍事行動を要するから、書類上の身元預かりは陸軍だがな」

「陰陽寮だって?」

 その言葉にオスカーは驚愕し目を見開く。

 陰陽寮は飛鳥時代から千年以上の間、この国の暦や天文を担ってきた歴史ある部署だ。

 水時計による時刻の制定や暦の編纂へんさんの一方、陰陽道に基づいた呪術の施行も行っていたが、明治二年に当時の陰陽頭おんようのかみ土御門つちみかど はるこうじたことで翌年廃止を余儀なくされた。

 ……そう、廃止されたはずなのだ。

 現存しない部署の管轄などあり得るわけがない。

「……そこは、所謂いわゆる幽霊部署なのかい?」

 問題のある人間を形式上軍属としておくためだけに存在する幽霊部署。

 橙介自身の人格や勤務態度に大きな問題があるわけではない。だが、彼が一部の同僚や上司からを受けかねない理由をオスカーは知っている。

 しかし橙介は首を横に振り、言葉を続ける。

「陰陽寮は、表向きの廃止後も政府直属特務機関として暗躍してた。陰陽省ってのが今の一般的な呼び方だ。

 霊的防衛ってことはその中でも呪術関連の統括部署だろ。上に立つ人間も、活動実績もある。少なくとも幽霊部署じゃないんだろうよ。

 妖魔が軽んじられるこのご時世でよく続いてるもんだとは思うがね」

 ふ、と溜息を吐き、冷めた紅茶を一気に呷る。

「嫌がらせ、ではないのかい? 居るだろう、その……君の『それ』を嫌う人間は」

 床に落ちる橙介の影にちらりと目を遣り、言い難そうに呟くオスカー。

 橙介はそんな友人の姿に苦笑し、文書の先程とは違う箇所を指し示す。

「んな下らねえ理由だったら、除隊覚悟で上官ぶん殴ってるに決まってんだろ。

 どうやら『お家』関係のお呼び出しだ」

 文書の一番下、そこには整った手書きの文字でこう書かれていた。

『突然の人事異動でさぞ混乱をしたことだろう。

 今回の件は、公的な取り決めではなく私自身の私的な引き抜き行為となっている。色良い返事を期待するが、不平不満があれば、申し訳ないが一度私の執務室まで出向いて貰いたい。

 霊的防衛総司令部総司令 千宮せんぐう 玻璃はり


 ――あれは確か、数え七つ頃のことだっただろうか。

 何があったのかはさっぱり忘れてしまったが、とにかく父親とどこかの華族かぞくの家に挨拶に行った時の話だ。

 まだ五歳やそこら、やんちゃ盛りの子供が父親の「おとなしく待っていなさい」なんて忠告を聞く訳がない。早々にだだっ広い屋敷の探索に出かけた先で、橙介は少女に出会った。

 『瑠璃るり』と名乗ったその娘は、宵の更けた空を思わせる蒼黒そうこくの長髪と黒曜こくようの左目を持っていて、けれど何よりも彼の目を引いたのは、秋の夕景を切り取ったような真紅の右目だった。

 子供特有の考え無しで「綺麗だ」というと、少女……瑠璃はふわりと笑って「貴方も、雪の髪と太陽の目で冬の朝みたい」と言った。

 当時まだ『そう』なったばかりで、周囲の好奇の目と、親に迷惑をかけているという幼いながらの自覚から、何よりも嫌っていた自分の色味が綺麗だと言われたのがなぜか嬉しくて。

 ――つまりは、初恋だったのだろう。

 別れ際に思わずまた会いに来ると、瑠璃は俺が守るからと言ったにもかかわらずあれから彼女には一度も会えていない。

 彼女は未だ待っているだろうか。いや、聡明な娘だったから、幼い頃の児戯じぎだと気にも留めていないかもしれない。

 真相は誰にも分からない。結局は、幼き日の甘苦い追想ついそうなのだ。

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