第19話 おつかい
一時間後、羽田空港にいた。
「あの、これは一体」
隣の黒田さんを見ると、スーツ姿で床に座り込み、いきなり土下座をした。
「急なお願いなのはわかってますが、葉月さんしか頼める人がいないんです!」
ロビーにいた人たちが一斉に黒田さんに目を向ける。
「く、黒田さん、あの、人が見てますから、土下座なんてやめて下さい」
慌てて黒田さんの側に屈んだ。
「いや、これぐらいの事はさせて下さい。私は葉月さんにとんでもない無茶を言うんですから」
とんでもない無茶って何? 犯罪の片棒でも担がされるの? 思わず唾を飲み込んでしまう。
「実は望月先生に忘れ物を届けて欲しいんです。先生、これがないと執筆が出来ないらしく、今困ってるんです」
なんだ。忘れ物を届けるだけか。土下座までするからびっくりした。
「葉月さん、お願いします。先生に忘れ物を届けて下さい。どうか、どうかお願いします」
黒田さんが土下座を続ける。
外国人の集団が近くで立ち止まり、物珍しそうにスマホを向けて写真を撮り始めた。
恥ずかしい。こんな所を撮られるなんて。
「あの、黒田さん、土下座はやめて下さい」
「いいえ。やめません。葉月さんが引き受けて下さると言ってくれるまで土下座します」
「あの、わかりましたから、忘れ物ぐらい届けますから、だから土下座はやめて下さい」
「届けて頂けるんですか!」
黒田さんが顔をあげた。
この恥ずかしさと比べれば忘れ物を届けるぐらいどうって事ない。
「はい。届けに行きます」
「良かった」
黒田さんが立ち上がり、胸ポケットから航空会社の封筒らしき物を出した。
「11時5分発のパリ行きのチケットです」
黒田さんが満面の笑みで差し出してくる。
えっ? パリ? ……フランスにある、あのパリ?
まさかおつかいの行き先はパリって事? 望月先生はパリにいるの?
航空券を見るとしっかりと私の名前が書いてある。
黒田さん、いい人だと思っていたけど、実は望月先生よりも無茶な事を言う人かも。いくらなんでもパリに行けだなんて、あんまりだ。
「あ、あの」
「望月先生に渡して頂くのはこちらです」
黒田さんが肩にかけていた鞄をこっちに渡した。受け取ると見た目より軽い。中は一体何が? ――いや、今は鞄の事よりも、パリについて詳しく聞かないと。それに私が行っていいの? 先生は私に怒っているんじゃないの?
「あ、あの」
「葉月さん、もう行った方がいいですよ。搭乗時刻になりますから。こっちです。ついてきて下さい」
黒田さんが早足で歩き出す。
「あ、あの、ちょっと……」
「葉月さん、急いで下さい」
「えっ、はい」
「葉月さん、早く! 時間がありませんよ」
「は、はい」
言葉を挟む間もなく黒田さんについて行くしかなかった。
飛行機の中で、昔やっていたテレビ番組を思い出した。それはいきなりお笑い芸人を外国に連れて行ってヒッチハイクの旅をさせるものだ。彼らが驚く姿をゲラゲラと笑いながらテレビの前で見ていたけど、今は彼らの気持ちがよくわかる。きっと不安な気持ちで堪らなかっただろう。
忘れ物を届けにパリまでおつかいに行く事になるなんて想像もしなかった。ちゃんと先生の所まで辿りつけるんだろうか。
ハッキリ言って、海外は不慣れ。
海外旅行は新婚旅行で行ったハワイの一度だけだし、あの時は英語のできる純ちゃんが一緒だったから困る事はなかった。
この飛行機を降りた後、どうしたらいいんだろう?税関のチェックとか受けるんだっけ?
考えるだけで不安。
旅行の準備も全くできていないし……。
荷物は黒田さんから預かった黒いショルダーバッグと、パスポート、財布とバッテリーがほとんど残っていないスマホが入った私のバックだけ。着替えはないから、ずっと同じ服を着続けるか、フランスで購入するしかない。できるのかな。フランス語も話せないのに。こんなのやっぱり無謀だ。日本に帰りたい。
そうだ。眠っちゃえ。目が覚めたら日本に戻っているかも。電車で居眠りして、気づいたら始発の駅に戻っていたみたいな感じで。
よし、眠ろう。
起きたらきっと日本に戻っている。
だけど、そんな事は起こるはずもなく、しっかりとキャビンアテンダントに起こされた。
飛行機は定刻通り、13時間の旅を終えてシャルルドゴール空港に着いた。
税関のチェックを片言の英語で何とか切り抜け、到着フロアをよれよれの半袖Tシャツとジーパン姿で歩いた。私だって、こんな部屋着同然の服装でパリまで来たくなかった。
黒田さん、準備する時間もくれなかったもんな。緊急事態とか言って。
もうっ、パリなら、パリって言ってくれればよかったのに。靴だって一番ぼろいスニーカー履いてきちゃったし。
周囲を歩いている人がみんなお洒落に見える。そうだよね。パリって有名なファッションショーとかやっていて、お洒落な都市だものね。こんな格好でいるのが恥ずかしい。
もうっ、黒田さんのバカ。日本に帰ったら、沢山文句を言ってやる。それにしてもお腹すいたな。寝ていたから機内食は食べなかったんだよね。
そう言えば、パリについてから開けて下さいって、黒田さんに封筒を渡されたんだ。もしかしてお金が入っているのかな? これで食べ物、買えるかな?
封筒を開けると手紙が出て来た。
『モン・サン・ミッシェル行き方
シャルルドゴール空港発TGV(高速鉄道)に乗り換える。
18時48分発 レンヌ着21時58分
レンヌからはバスで移動。
翌朝7時1分発モンサンミッシェル行きが始発
先生が泊まっているホテルはモン・サン・ミッシェル内にある【ホテルメルキュール】です。
困った事があれば先生の携帯に連絡して下さい。
先生の携帯 080-○○○○-△△△△
以上よろしくお願いします。 黒田 』
素っ気ない文章。黒田さん、これを書く時、時間がなかったのかな。
他にはガイドブックと、帰りの航空券に、ユーロ紙幣が出て来た。
え? これだけ?
現地の旅行会社の人とか迎えに来ないの? ハワイの時は旅行会社の人が迎えに来てくれたのに。
まさか、全部一人で行動しろと?
ていうかモンサンミッシェルって何?
望月先生はパリにいるんじゃないの? これからまた移動するの?
ガイドブックを開き目次からモンサンミッシェルを探す。
あった。これだ。ページを開くと江の島の上に西洋のお城が乗ったような写真があった。へえー。世界遺産になっているんだ。
【モンサンミッシェルはノルマンディー地方とブルターニュ地方の境にあるサンマロ湾に位置しており、パリからはおよそ370キロ離れた場所に位置します。(東京から名古屋までの距離と同じぐらい)】
ガイドブックの文字に目が留まる。
東京から名古屋の距離? そんなに遠いの?
言葉もよくわからない国に来て、たった一人で370キロをこれから移動しなきゃいけないの?
嘘……。
こんなの悪夢だ。もうダメ。
急にふらっと全身から力が抜けた。
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