3

 激しい雨で息も出来ないほどだ。滝のような雨が、ふたりを押し流そうとする。

 唸り声を上げ、ケン太は太郎に拳をふりあげた。ばしっ、と音を立て、太郎の手の平とかばう腕がケン太の攻撃を受け止める。

 くそっ、とケン太はいったん身を引くと、屋上から屋根へと移動した。がらがらと瓦を踏み、這うようにして登っていく。ちらりと太郎をふり返り、叫んだ。

「どうした? 怖いのか、登って来い!」

 唇を噛みしめ、太郎はケン太の後を追って屋根を登りだす。急勾配の屋根瓦には雨が水流となってほとばしり、つるつると滑って足元がたよりない。

「ケン太さん、もう、やめて! こんな戦い、意味はないわ」

 美和子が屋根に上ったケン太を見上げ、叫んだ。その声が聞こえたのか、ケン太は美和子を見てにやりと笑った。

「意味? 意味が必要なのか? そうじゃない! これはおれの戦いだ。戦いに意味などいらない!」

 ようやく屋根の天辺に登ってきた太郎を見て腕をあげた。

「来たな……さあ、かかってこい!」

 くい、くいっと指を指し示す。

 太郎は息を吸い込んだ。前へ歩き出そうとするが、足もとがぐらつく。そして滑る。

 ためらう太郎を見て、ケン太はしてやったりという笑みを見せた。

「そうだ、お前の靴では動けないだろう」

 太郎はケン太の言葉にじぶんの靴を見た。

 黒い革靴である。靴底は固い。対するケン太の足はやわらかなスニーカーで、靴底はやわらかなゴムで、滑り止めの溝が彫ってある。

 ケン太は太郎をわざとこの足もとが悪い、屋根へと誘ったのだ!

 太郎の顔に理解の色が浮かんだのを見て、ケン太はうなずいた。

「そうだ……執事はつねにきちんとした正装をしていなくてはならないからな。それがどんな場所であっても……」

 勝ち誇った表情になったケン太は屋根瓦をがちゃがちゃと音を立て踏みつけ、太郎へ向け突進していった。

 肩をつきあげ、どんと全体重を乗せて体当たりをくらわす。

 わっ、と太郎は浮き上がるようにして吹っ飛んだ。

 だんっ! と、屋根瓦に横倒しになる。がらがらと音を立て、太郎は急角度の屋根を転がっていった。手を伸ばし、爪をたてるようにして滑るのを止める。足が空を蹴る。

 はっ、として足元を見ると、足先が宙に突き出している。屋根の端っこに太郎は停まっていたのだ。雨樋にやっとのところでもうかたほうの足がかかっていた。

 わあああ~っ、と喚き声をあげ、ケン太が屋根をすべり落ちるようにして走ってきた。

 腕をのばし、身体を持ち上げようとした太郎の手の平を、ケン太の靴が踏みにじる。激痛に太郎の顔がゆがんだ。

「死ねえっ!」

 憎々しげに叫ぶと、足をあげ太郎の顎を蹴り上げた。太郎の両腕が滑って下半身が完全に屋根からずり落ちる。下は地上数十メートルまでまっさかさまである。落ちたら命はない。

 勝利を確信し、ケン太はさらにダメージを与えようと足を上げ、太郎の足めがけ踏みつけた。

 がちゃん! ケン太の足はむなしく瓦を踏み抜いた。

 はっ、とケン太は目を見開いた。

 太郎はどこにいる?

 ケン太は太郎の姿を求め、伸び上がった。

 雨樋に指先が見えている。

 太郎はじぶんから身体を滑らせ、雨樋に指先だけでぶら下がっていたのだ。

 その雨樋がついにべりべりと音を立て、屋根から弾けとんだ。ぶらん、と太郎は雨樋にぶら下がっている。

 すっ、と沈み込み、その姿がケン太の視界から消えた。

 ははははは……と、ケン太は笑い声を上げる。

 

 死んだ、やつは死んだ! この屋上から、まっさかさまに落ちて死んだ!

 

 大声で叫び、顔を上げて笑い続けた。

 くそお……、と勝が立ち上がる。

 ゆっくりとそれを見ていた杏奈は首を横にふった。

「どうして……お兄さま……?」

 きっとケン太は杏奈を見た。

「杏奈! なんで大人しくしていないっ? そんなことでは、わが高倉コンツェルンの一員として認めることは出来んぞ」

「お兄さま、あなたは人殺しをしたのよ? その意味が判って?」

「人殺し? いいや、太郎はじぶんから足を滑らせただけだ。お前も見ていただろう?」

 ケン太の言葉に全員、ぼうぜんと立ち尽くした。ここまできて、そこまで強弁するかれの正気を疑っていたのだ。

「いいや、まだ太郎は死んではいないよ」

 しずかな声が響く。

 はっと、一同がその方向を見た。

 屋上のドアから、五郎が顔を出していた。その背後に洋子と幸司が立っている。

「なんだと? もういっぺん、言ってみろ」

「太郎は死んではいないと言ったのさ」

 そう言って五郎は指さした。

 そちらを見た全員はあっ、と声をあげた。

 屋上の、屋根の端に指先が見えている。指先はしばらく手がかりを探しているようだったが、やがてぐっと力が込められ、その上半身が持ち上がった。

 太郎だった。

 かれは雨樋を伝って、ケン太の視界の届かない場所まで移動していたのだ。

 さっと一動作で屋根に這い登った太郎は、立ち上がりケン太を見つめた。

 畜生……とケン太はつぶやく。

「往生際の悪い奴だ……」

 太郎に身体を向けるとゆっくりと歩き出す。太郎はゆらりと身体をかたむけ、するするとケン太にむけ走り出した。足音はまったくたてない。瓦を革靴で踏んでいるのにかかわらず、まるで毛足の長い絨毯を歩いているかのような静かさだ。執事独特の速歩術だ。

 とん、と太郎の身体が宙に浮く。

 はっ、とケン太は顔を上げた。

 両腕をひろげた太郎に、ケン太は腕をあげてじぶんの顔をかばった。

 瓦を踏んだ太郎は、急角度で横に飛んだ。まったくその動きを予測していなかったケン太は、次の攻撃を受け止めるため身体をぐるりとまわした。

 それが間違いだった。

 急傾斜の屋根瓦に足をとられ、ケン太の上半身がバランスを崩していた。

 しまった、という表情が浮かぶ。バランスを取り戻すべく、両腕がひろげられ、防御ががらあきになっていた。

 そのふところに、太郎の手刀が吸い込まれていく。

 一瞬にして太郎はケン太の前面を攻撃していた。胸を腹を、そして喉元を!

 うあっ、と叫んでケン太は吹き飛んでいた。

 がちゃがちゃと騒々しい音を立て、ケン太の身体は屋根瓦を割りながらごろごろと転がっていた。

 くそ、とうめきながら立ち上がろうと手をついた。

 その腕ががくりと折れる。

 ぼうぜんとした表情がケン太の顔に浮かぶ。

 もう一度もがく。

 しかし四肢にはまったく力がこめることが出来ない。まるで手足がゴムのようになっていた。

「なんだ、なにがおれに……?」

「執事格闘術の精髄だ……相手を傷つけることなく、その戦闘力のみを奪う……」

 五郎がつぶやいた。

 ふっ、と太郎は息を吐き出した。

 顔を上げ、五郎と見詰め合った。五郎はゆっくりとうなずいた。

「見事だった!」

 はい、と太郎はうなずきかえした。はればれとした笑顔が浮かんでいる。

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