ACT Ⅲ 妖女

 

   Scene 1 ????



 じゅわ~っ!


 忌まわしいものは破れた腹から黄濁の液を垂れ流し、シュウシュウとむかつく息を吐きながら身悶えした。

かくして…。ぐちゃぐちゃにスプラッタなオムレツが、眼前の皿で妖気を放っている。


 うぐげっ! 厄日だわ。



 調理実習の末期症状にあって、不死身の胃袋を持つ桔梗がいないとはなんたること。

 日の浅い友情に殉じて味見する奇特な御人なんているわきゃないわよ。

 卵アレルギーの私は、胃を抱えた…。


 ちなみに、形態にみあった名状しがたい味だった――。





   Scene 2 階段室



 ――桔梗。あんた、さぼる気じゃなかったってのね。


 シュールリアリズムな廊下と階段で迷子して、授業はこだわりなく放棄された。

 そういいたいわけだ。



 縁起かつげば十三日の金曜日、俗にいう魔の金曜日だった。

 気ままにぶらついたら、余計に妙な処へ入り込んだわけか。


 下駄箱に蹲(うずくま)る小鬼、開かずの教室、妖精の踊る噴水、幽霊のひくピアノ、木乃伊(ミイラ)の映る鏡、裏池の人面魚…。


 古い学校だけに“七不思議”やら怪談話はことかかない。

 こいつを六つとも難無く通過する。



 最後に残るのが西の塔。


 “落日の塔”又は“幽霊塔”など、生徒達は浪漫的(ロマンチック)な名で呼んでいる。

 余所からは眺められるのに誰も辿(たど)りつけないので有名だ。


 装飾的な曲線を描いた螺旋階段が、用具室の上を蔦のように昇っている。

 巻貝の内部を覗いたような渦は、見上げると奇妙な目眩をもたらす。



 あたりは使われなくてひさしいらしい。

 ぶ厚い外壁のせいで採光は乏しく、埃だらけの蜘蛛の巣が懸かっている。


 階段に足を置いたが崩れ落ちたりはしないようだ。

 各階の部屋は大抵鍵が掛かっていたが、開けられそうな扉に行当たった。



 取っ手を回して推すと、蝶番が軋(きし)み声を上げた――。





   Scene 3 幽霊塔



 汚れた窓を透してぼんやりと、薄明りが入るだけの室内に、少女らしい影が佇(たたず)んでいる。

 しなやかそうなシルエットはいくらか丈たかい。ゆるく束ねられた髪は腰よりさらに長かった。



 ぎょっとして跳び下がる。

 武術を身につけたあんたであるにもかかわらず、まったく人の気配を感じ取れなかったからだ。


 少女が匂うような仕草で顧みる。

 たおやかな黒髪がゆらりと揺れた。

 ──あら、こんな処にお客様かしら」


 かすかに笑いを含んで、天鵞絨( びろうど )の肌触りする声。

 何故かしらないがそそけだつような気がした。


「どうぞようこそ、嬉しいわ」


 薄暗い部屋の中で少女の表情は見て取れない。

 唇にさした赤いルージュがほのめいていた。


「おたくはなにしてんだい?」

 あんたは足を踏み入れる。


「さがしものよ」

 半ば光のとどかぬ処へ、その少女は身を退けた。


「さがしもの?」

 あんたが鸚鵡(おうむ)返しする。なんとなく胡散(うさん)臭い。


「入りたいじゃない、開かずの間なんてね」

 ほの白い繊手を擡(もた)げ、古びた鍵束を鳴らす。


「まあね」

 窓枠に後ろ手を衝いた。


「汚れるわ」

 少女はくすりと笑った。


 翳(かげ)に入った彼女の顔は口もとしかわからない。


「いいさ」


 澱んだ空気の中で幽かに漂うのは、少女の身につけた香水だろうか。


「それに、不用心な姿勢」

 不意に、邪気の塊が叩きつけられた。


 !

 咄嗟(とっさ)に、猫足立ちの構えを取る。


「やめましょうよ、埃がたつわ」

 殺気はあっさり消散し、懶(ものう)げな声。


「なんの真似さ」

 気を思いの儘に操れるらしかった。


「警戒してるみたいだし、ご期待にそわないとね」

 たよりない光の境を少女の靴が過る。


「お世話さま」


 塵の堆積する床へも、足跡残さない歩きだ。


「名前をうかがってもいい?」

 少女は黒髪を捌(さば)いた。


「戸田桔梗だよ」

 むっつりする。


「そうじゃないかとおもった」


「なんで」



「真魚からきいてたわ」

 不快なことは忘れる主義だから、例の友人をさっぱり失念してた。


「おたくは何者だい」

 裏切られたみたく恨めしい気分。


「いまはただの幽霊」

(番町皿屋敷か、牡丹燈篭かよ)


「いつ人間に戻れる」

 はぐらかしが癇にさわった。


「明日ならクラスメート」

 どうやら正体が腑(ふ)に落ちた。


「おたくが紫邑魔貴かい」

 疑う余地ないみたいである。


「おききおよびみたいね」

 闇の中で匂やかな声。


「噂にはね」

 不覚にも声が喉に絡まる。


「ろくないわれかたはしてないでしょう」

 興がっているかのようだ。


闇の元締(カゲバン とかマドンナとかいろいろさ」

 かろうじて、皮肉る。


「裏番陰番のたぐいが人の口にのぼったらお終いね。

 半分は嘘、半分は本当──。

 いずれにしろ、あたしはあたしよ」


 声音は歌うように絶えず変り、それが奇妙な困惑を醸(かも)しだした。



「もう出ましょうよ、最上階の部屋がみたいわ」






   Scene 4 蘭奢待



 階段室で小部屋に鍵を掛けようと俯く横顔には黒髪が面紗を垂らし、ほっそりと白い項(うなじ)と繊細な頤(おとがい)しか垣間見れなかった。


 階段を登るしなやかな動作、スカートの裾の拵える闇で、白い脛(はぎ)が幻のように揺らめく。



 階段を登り詰めると、古びた扉に行当たった。

 差し込まれた鍵に扉が泣き喘(あえ)ぎ、彼女の姿は隙間の闇に滑り込んだ。


「あいた!」

 足を踏み入れた途端、何かにあんたは膝をぶつけた。



「待ってね、いま灯りをつけるから」


 澱んだ空気の微かな動き。

 闇で嗅覚が敏感になった所為で、彼女の躰に纏い付くように漂い、何処となく不安を掻き立てる、そこはかとない香を気取った。


 ──桔梗ちゃん、これが百合リス よ。

 柚子の姉の沙羅が教えた香に似ている。


 シュッと燐が燃え、硫黄の臭いがした。小卓に置いてあった燭台が灯る。

 ぼんやりと光の繭(まゆ)が澱みのヴェール漉(ご)しに魔貴を包む。


 その貌(かお)の美しさに息を呑んだ。

 彼女が何故“マドンナ”と呼ばれるかわかった気がした。

 大理石の聖母像めいたやさしげでいて冷やかな、そして魔性めいたあやしい美しさだった。


 沈黙の中で燭の火が、チリチリと音を立てる。

 彼女はそれを手にし、室内を眺めまわした。


「荒廃してるわね、思ってたとおり」

 静かに漏れた溜め息で、蝋燭の灯が部屋を揺らす。


 襤褸(らんる)となって垂れ下がる帳(とばり)、円形の小卓、椅子、鏡、箪笥、四柱式の寝台…。

 豪華だったらしい家具調度類が具わっていた。



「誰がいたのかな?」


 古い探偵小説の中にありそうな感じだった──。




   Scene 5 肖像画



「住人は俤(おもかげ)だけよ」

 彼女はゆるやかな足取りで、壁龕(アルコーヴ)に歩み寄る。



 面紗(ヴェール)のように懸かる蜘蛛の巣を除けると、異人の眼をした少女の肖像画があった。

 古い絵の中で昔風の衣裳を纏い、この部屋と似た椅子に凭(もた)れている。


 あたりまえの基準からしたら、少女は美しいといえない。


 躰はひ弱げで幼くみえるのに、濃緑の瞳は賢しげで大人びる。

 身体障害な物理学者の風貌を思わす、精神と肉体がアンバランスで、拗(ねじ)けた畸形な美しさがあった。


「この子は混血(あいのこ)かい」(それは差別用語)

 黒髪と翠緑の瞳から推測する。

「半分は独逸(ドイツ)人。此処の主だった人物の愛娘(まなむすめ)ね」

 彼女の応えはそれを肯定する。


「死んじゃったとか」

 好奇心をそそられた。

「生まれ変わりかも」

 彼女は妖しい笑みを返した。


「クレオパトラかい」

 ボケをかます。

「あたしと女の子よ」

 灯が顫(ふる)えるのは笑ってるらしい。


「道具は揃ってるね」

 お誂えむきすぎて作為を感じなくもない。

「舞台を拵(こしら)えたのは、あたしと違うわよ」

 画布を飾る宝石のように綺麗な蜘蛛が真珠色の爪ではじかれる。



「どんな物好きだい」


「邸を建てた碩学(がくしゃ)先生に決まってるわ。

 祖国で奥さんと娘を一遍に亡くしたとかで、顔の半面にいわくありげな火傷痕があったそうよ。

 此処は、鎮魂(たましずめ)──いえ、招魂(たまよばい)かしら──のための舞台装置ね。

 もつとも、役者無しでは、ただの奥津城処(おくつきどころ)かな」


 彼女が蝋燭を吹き消した。



「タージ・マハルもどきの霊廟(おはか)なわけかい」

 闇に包まれながら尋ねる。


「せっかくだし使わせてもらうわ。

 此処(ここ)はないしょにしてね」


 出入口でない何処かの戸が開閉した。

 

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