ACT Ⅰ 人魚
Scene 1 購買部
「しかし、えらい学校だね」
桔梗が呆れながら、購買部への廊下を見渡した。
あちこちで廊下や廻廊が入り組み、無数の階段と縺(もつ)れ合っていて、迷ったら一晩は抜けられそうにない。
「全体としての印象は、バロック様式の修道院てとこかしらね」
私は学術的な口調で、メガネの縁に手をかける。
(ふん、典型的な女史タイプね、われながらさ。男子が、よけて通るわ!)
桔梗は、バロックだか何だか頓着ない。
おおかた、古臭い、襤褸(ぼろ)臭い、気色悪いの三拍子揃いと、感心してるんだろう。
購買部は、御用達の書店から出張販売中の教科書を買う生徒達で込み合っている。
桔梗が口を噤(つぐ)み、立ち止まる。
らしからぬ躊躇(ためら)いで、何か見詰める様子だ。
私は何やら視線をたどった。
遥か廊下の彼方には、二人分の教科書を抱え、小柄な少女の歩みさる処。
内海真魚(うつみまな)とかいう子だと思った。
窓外にさやぐ木々の葉擦れにも似た声にみちた教室内にあって、ひっそりと生けられた白い花のように
印象的な少女ではあったが、いったいなんのかかわりがあるのやら。
人込みを掻分け、桔梗が駆け出す。
「今、ぶっとんでった馬鹿の分もね」
むさい背広に私はいったものだ。
あちらは曲り角で少女を捉まえ、
教科書を持ってやろうとする。
少女は戸惑っている風情だ。
周囲の騒めきに紛れ、声は此方まで届かない。
(やれやれ、慌て過ぎて墓穴を掘る口だわ)
桔梗のごり押しに、華奢(きゃしゃ)な肩が固くなる。
いささか手厳しく、はねつけられた様子。
おとなしいみかけと裏腹に、毅然としたとこがあるわさ。
桔梗は塩をかけた菜っぱみたいに萎(しお)れた。
少女の睛(ひとみ)が言過ぎを悔いる色を過(よぎ)らす。
私もパントマイムの鑑賞を打切り、助け船を出してやることにした。
「阿呆、へたなナンパじゃあるまいし。他人の世話焼くのは、自分の世話焼いてからにしてよね」
背後から辛辣にいったものだ。
二人分の御荷物は少女なら違和感だが、のっぽの私では様になりすぎ癪(しゃく)である。
「ほら、桔梗の教科書。ちゃんと金寄越しなさいよ!」
桔梗の胸に叩っ込む。
もっとも、パンストのごとく薄い胸を、仮にも胸と称せるとしてだ。
「察するに、あなたと友達になりたかったらしいわね。
この馬鹿の馬鹿さ加減に免じて、勘弁してやってくれない?」
己の友情のあつさにつくづく感心するわさ。
「こちらこそ、御免なさい。でも、どうして?
あたしになんの取り柄もありませんよ」
少女は唇にあるかなしかの笑みを湛え、さも不思議そうに小首を傾げた。
「どうして二つも抱えてるの?」
萎れてた桔梗がしゃっきりする。
「友だちが式に来なかったから」
感じのいい声だ。
大きくはないけれど、さやかで聞き取りやすい。
「病気かしら?」
私が話をつなぐ。
「いいえ、さぼってるだけ」
くすりと肩をすくめたが、非難がましいさはない。
「へっ? 不良だって入学式くらい顔ださんかね」
桔梗、不良ってのはあんたじゃないのさ。
「私たち、中等部から上がってるでしょ。
いまさら入学式なんてかったるいって。
そういうものじゃありませんよね」
内気そうだけれど、相手の視線をまっすぐに捉える眼差しだ。
「きゃっ」
男子がわきみしてぶつかり、華奢な躰(からだ)が壁に叩きつけられた。
「わりぃ」
彼はあさってをむいたまま、ぞんざいにいきすぎようとする。
(なろーっ)
桔梗がふとどき者の足を払った。
向こうはみごと顔面で受身する。
「廊下は走らない、女の子は大切に」
さっき疾走したのは、誰なのよ。
「保健室へつきだしたほうがよさそうね」
私は診断に苦労しなかった。
完全無欠な白目を剥いている。
Scene 2 校舎裏
「桔梗、みっともないからやめなさいよ!」
私の罵声に傍らの少女がくすくすした。
学校の裏手は鬱蒼とした森に接し、崩れ掛けた石塀が置かれている。
ファンタジーやホラーにありがちな禁忌の地の風情だわ。
こちら側に樫の大木が聳え立っている。
昔、親の許さぬ恋人同士が、この虚(うろ)で文をやり取りし、結ばれたという浪漫譚(ロマンス)があるとか。
真相をいえば、男は青髯とか異名をとった挙げ句、散々浮気で乙女を嘆かせたわけだが、彼こそ桔梗の親爺様であるなぞという、興ざめな後日譚は暴露すべきでなかろう。
この悪漢、戸田不律は私の父の朋友で、同じ法学部に席を置いていたが、のち仏文学に転向した変人だ。
骨法や柔術の師範で町道場を営むが、閑古鳥が鳴くから翻訳で生計する。
大柄な体躯で眼光炯々(けいけい)、蓬髪蓬髯(ほうはつほうぜん)にして容貌魁偉(かいい)。
光加減で髯が青みがかることから、巷(ちまた)では“青ひげ先生”と呼ばれる。
昔、希代のドン・ファンとして浮名を流したが、駈落ちの妻に死なれてから自粛している。
美女千人斬りの妖刀も錆びて褌(ふんどし)から抜けまい。
その青髯殿の御息女、裸足で木に取りつくや否や、スカートのままで登攀(よじのぼ)りはじめた。
「白木綿のパンツが丸みえよっ」
私の叫び声が風に千切れる。
「気にしなーい、気にしなーい」
木葉隠れに暢気(のんき)な声が返る。
「馬鹿と煙は高いところが好きらしいけど」
私の敗北宣言。
「いいなあ、あたしも登ってみたいな」
羨望めいた溜息に乗せて少女が呟いた。
「えっ」
仮想したシナリオにない科白に、私は彼女を顧みた。
少女のスカートの裾が翻(ひるがえ)っている。
少女は仰ぎみたのち、俯いて唇を噛み絞める。
幹に撞(つ)いた片手で躰(からだ)を支え、隻脚(かたあし)になって靴を脱いだ。
「待って、あなたには危ないわ」
私は無様に金縛りだ。
少女は悲愴なほど白い唇に笑みをみせた。
もう片方を脱ぎ捨てる。踵(くるぶし)のたかくて爪先のきれいな足だ。
小さな手と足は薄暗がりで白い蝶が舞うようだ。
などと美学的感動にひたってられんわ。
節くれた幹は縋りやすく、少女の躰も軽いとはいえ、いささか経験に乏しい。
空は冷たく風は灰色。
揺さぶられる大木は、奇妙な生命感に充ちている。
えい、死なばもろとも、落ちたらそれまで。
我ながらなんて、付合いがいいんだろう。
Scene 3 空と大木
彼奴(きゃつ)は高い枝に腰掛け、足ぶらつかせていた。
「桔梗、手を貸しなさいよ」
尻の方から私がどやす。
「ひえっ、真魚…。怖いことするね」
さすがに肝をつぶし、少女を引き上げてやる。
華奢な躰(からだ)が小さく顫(ふる)えていた。
泣きそうな空から水滴がこぼれた。
「風があるから、降ってこないよ」
桔梗は泰然自若で、伸びた脛(すね)を空中に置く。
どどうと木が揺れた。
こいつ“風の又三郎”か。
ガラスの靴でも履いてるんじゃあるまいか。
私は木にしがみついた。
空があまり灰色の河水みたいで、流されているように錯覚する。
少女は思い詰めたような眼差しで、何処でもない所を見詰めていた。
私と桔梗は少女のことを何なにもしらなかった。
Scene 4音楽室
Ich weiss nicht, was soll es bedeuten,
Dass ich so traurig bin;
Ein Marchen aus alten Zeiten,
Das kommt mer nicht aus dem Sinn.
(かなしみに胸ふたぐ
ゆゑこそは知らねども
ただそぞろ浮びくる
古き世のものがたり)
澄んだ声で歌われる“ローレライ”の原詩。
魂が躰(からだ)から吸取られそうなひっそりとした戦慄。
「…真魚かな?」
桔梗は下校のさそいにいく足を止めた。
世紀末の理想像である“
合唱部の彼女はいつも居残ってピアノを奏でていた。
男子生徒達から“人魚姫”と憧れられることも彼女自身はしらなかった。
繊細な硝子(がらす)細工のように、綺麗でこわれやすそうだから、あまりに儚すぎてちかづきがたく、
遠くからみつめられているだけなのだ。
真魚は歌いやめ、私達に微笑みかける。
この音楽室は以前に自殺した生徒がいて、人気もないにピアノの音がするとかいう、いわくつきの場所なはずなのに、彼女は不思議とおじけるふうがなかった。
「さよなら。またあした」
戸締りぎわ、中へ声をかける。
誰かがいるみたいなそぶりだ。
「おそろしく上手なんじゃない」
手が小さくてうまくひけないといっていた。
「あれはあたしじゃないんです」
くすぐったそうにみじろぎ、耳に手をあてる仕種をみせた。
木葉闇さながら暗鬱な柱廊を玻璃(はり)ような音色が流れていた。
Scene 5 垣根道
「内気で控えめな真魚(あなた)と奔放気儘な少女の友人関係…。脚本のネタになるかな」
帰途、私は思案を呟きに換え、さりげなくさぐりをいれた。
「脚本家になりたいんだったてさ」
桔梗が傍注する。
「そういう人っていいな、あたしはいくじなしだから」
寂しくて澄んだ声だ。
「なりたいんじゃなくてなるのよ」
当然ながら訂正した。
「あの人とおんなじにいいますね。
幸せになるにはなにかを断念しなければならない。
でも諦めたって幸せになれるとはかぎらない。
どうせ未練をのこすなら諦めずに生きろって」
かなり凄絶な科白であるわよ。
「風あたりきつそうね」
私は花曇りな空を仰いだわさ。
「ですね。男子には絶大な人気があるのに、ほとんどの女子から排斥されてます」
兎角、とばっちりがいきそうな友人でいられる、真魚の芯の勁(つよ)さも生半可でないようだ。
「なんか、真魚が御付みたいじゃん」
桔梗はおもしろくなさそうだ。
「女王様は魔女、あたしは継子です」
なるほど御伽話(おとぎばなし)らしい形式だ。
「あんまり似合いすぎて不吉だわね」
なにやら私は可笑しくなった。
「いじめられるんだ」
こいつはやきもちやいてるな。
「怯えて泣いてました」
傍らの白い花のような笑み。真魚の答えは過去形である。
友人の
「さいならーっ」
桔梗が大声を掛けると、もう一度見返って頭をさげた。
「清純無垢そうではあるわね」
私はおもむろに批評した。
「そうだろ」
彼女は手放しではしゃぐ。
「女の子っぽい手合いは苦手」
小癪(こしゃく)だから難癖をつける。
「ちぇっ、ブスのひがみかい」
よくもいってくれたわね。
「できすぎの姉が二人もいる
殺意たっぷりに襟を絞めあげる。
「わわっ、御免…柚子ちゃんたら美人!」
桔梗はガチャ目を白黒させた。
「真実味がこもっとらんわ、大根役者!」
──その日、垣根に白い花の咲く麹町一丁目。
幸いにして女学生殺人事件は起こらず、
泣きそうな空は雨を降らせなかった。
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