猪娘の躍動人生
篠原 皐月
プロローグ 運命の出会い
学校帰りに買い物を済ませた高校一年の
(ふふっ、可愛いのが買えたわ。早速明日、学校で皆に見せようっと。え?)
上機嫌に考え事をしていた美幸だったが、ふと隣の上りエスカレーターに視線を向けた時に、その顔が強張った。
美幸とは逆に、今から上層階のテナントに買い物に行くつもりらしい、同じセーラー服の女生徒が上がって来る。更に彼女の後ろに、帽子を目深に被る年齢不肖の男が立っていた。それだけなら何も問題は無いが、持っているスポーツバッグのファスナーが中途半端に開き、更に開口部を前に立つ女生徒のスカートの下に入る位置で手に提げているのを見て、美幸にはピンときた。
美幸と彼女が上下にすれ違う瞬間、美幸は鞄を隣のエスカレーターに投げ込んだ。次に躊躇う事無く反動を付けて飛び上がり、境目の手すりを越えて上りエスカレーターに降り立つ。そしてエスカレーターにまばらに乗っていて唖然としている他の客を尻目に不審な行動をしていた男に駆け寄り、その肩を掴んで非難の声を上げた。
「ちょっと!! あなた盗撮なんて男として、それ以前に人間として恥ずかしくないの!?」
「え? きゃあっ!!」
「な、何を言いがかりつけんだ! ただ荷物を持っていただけだろうが!?」
美幸の声に驚いて振り返った女生徒は、真っ青になってスカートを押さえた。男は狼狽しつつも、スポーツバッグを両手で抱えて弁解する。しかし美幸は強気に迫った。
「はぁ? しらばっくれる気? じゃあそのバッグの中身、見せて貰いましょうか? その後一緒に、警察に行って貰うわよ?」
「……っ、ふざけるな! 中身を確認するふりをして、カメラでも仕込んで俺を犯人に仕立て上げるつもりなんだな! 分かってんだぞ? お前ら同じ制服だからグルだろっ!!」
「えぇっ!?」
「なっ!」
エスカレーターを上りきった所で押し問答になったことで周りに人垣ができ、その中で美幸と被害者が同じ制服だったのを見て男が破れかぶれで叫んだ。偶々その日、電車内での痴漢冤罪事件の報道が出ていた為に、周囲からの美幸達への視線が疑惑に満ちた物に変化する。それを察して美幸達は屈辱のあまり顔色を変えたが、男は調子に乗って、広範囲に聞こえるように更に大声を張り上げた。
「最近の女子高生ってのは、本当に怖ぇえなぁ~。通報されたく無かったら金払えってか? ミエミエなんだよ!」
「……そんなっ」
「何ですってぇぇ!?」
「皆さ~ん! ここの女子高生達は、盗撮犯をでっち上げる性悪女です! この制服を見たらご用心下さ~い!!」
「私っ、そんな事っ!」
「でっち上げてるのはそっちでしょう! ……って、ちょっと待ちなさいっ!!」
周囲がザワザワとし始めた事で、スカーフの色で上級生と知れた彼女が涙目になり、美幸も些か焦って注意力が削がれた瞬間、男がその隙を突いて巧みに人垣をすり抜けて逃走した。それに一瞬遅れて美幸が気が付き、慌てて後を追う。
「ふざけないで! 待ちなさいよっ!」
叫んでも当然足を止める筈がなく、男は下りエスカレーターを駆け降り、自動ドアを抜けて連絡通路へ走り出た。美幸も足が遅い方ではないが、流石に出遅れた分が取り戻せず、十数メートルの距離に歯噛みする。
(ちっ! 出遅れたわっ! 駅構内に紛れ込まれたら、見失っちゃう!!)
「誰かぁっ! その盗撮犯、捕まえてぇぇっ!!」
精一杯の声量で走りながら叫んだが、通路に居合わせた人間は怪訝な、または迷惑そうな顔をして、関わり合いになりたくないのか素知らぬ顔で通り過ぎていく。
(悔しいっ!! 屑野郎をみすみす取り逃がすなんてっ!)
怒りに震えた美幸だったが、そこで予想外の事態が発生した。
「ぐわっ!!」
「え?」
いきなり横から金属製のゴミ箱が一直線に飛来し、男の頭に直撃した。当然、その衝撃をまともに受けた男が、もんどり打って通路に倒れ込む。美幸が反射的にそれが飛んできた方向に目を向けると、視線の先に二十代半ばと思われるスーツ姿の女性が立っていた。
彼女は両手の汚れを払う動作をしてから、足元に置いてあった書類鞄と封筒を取り上げて男に向かって真っ直ぐ歩いた。美幸も殆ど同時に転がっている男の所に到達すると、女性が彼を見下ろしながら、心底嫌そうな表情で吐き捨てる。
「本当に……、暖かくなってくると、途端に馬鹿が増えるわね」
それから美幸に向き直り、穏やかに声をかけてきた。
「あなたが盗撮の被害者なの?」
その問い掛けに、美幸は多少どぎまぎしながら答える。
「あ、い、いえ、違います。同じ高校の先輩にしていた所を見て捕まえようとしたら、冤罪だ、お前らグルだと喚いて、こちらが怯んだ隙に逃げ出しまして」
「へぇ? ……あら、逃げんじゃないわよ!!」
「げふっ……」
美幸達が話し始めた隙を見て、転がっていた男が起き上がって逃げようとした。しかしそれを察した女性が、素早く男の顎を蹴り上げる。それをまともに喰らった男は、顎を押さえて仰向けに転がった。それに不気味な囁き声が降りかかる。
「ふっ、私の後輩に恥をかかせた上、母校の名前に泥を塗ろうとした最低野郎を、誰が逃がすかってのよ? いい加減に観念なさい!!」
「ぐあぁぁぁっ!」
話しかけている間に男の腰の辺りまで移動した女性は片足を上げ、ヒールで股間を力一杯踏みつけた。流石に男が暴れたが、女性がピンポイントに体重をかけて踏みにじる。ものの数秒で男は意識を手放したらしく、白目をむいて沈黙した。
「はっ、やっと静かになったわね」
「あの、後輩って……」
忌々しげに呟いた女性に、美幸が控え目に先程の彼女の発言に対する問いを発した。すると彼女は、美幸に笑顔を向ける。
「私、桜花女学院の卒業生なの。その制服、懐かしいわ。入学早々災難だったわね」
勝手知ったる母校であり、スカーフの色で美幸の学年を判別した彼女が慰めの言葉をかけると、ここで漸く我に返った美幸が勢い良く頭を下げた。
「いえ、助けて頂いて、本当にありがとうございました! もう少しで、最低野郎を取り逃がす所でした!」
「大した事ないわ。人として、当然の事をしたまでよ」
そこでバタバタと駆け寄り、美幸に声をかけてきた人物がいた。
「あのっ! あなた、大丈夫?」
美幸が振り返ると、彼女が放置してきた鞄を持って、息を切らせて走ってき来た上級生を認めた。それで鞄を思い出した美幸が、笑顔で頭を下げる。
「あ、鞄をありがとうございました。すっかり忘れていました」
「それは構わないのだけど……、この人、どうかしたの?」
やって来た上級生が、床に転がっている犯人を見て唖然となった。すると女性が、美幸に尋ねてくる。
「この生徒はあなたの知り合い?」
「はい、さっきの男に盗撮された被害者の方です。先輩、こちらの方が犯人を捕まえてくださいました」
上級生にそう説明すると、驚いた表情で女性を眺めた彼女は、深々と綺麗なお辞儀をして感謝の言葉を述べた。
「そうでしたか、ありがとうございます。助かりました」
それに女性が鷹揚に笑って頷く。
「大した事ではないから気にしないで。だけど暫くはこの辺りを歩く時、注意した方が良いわね。学校の方にもあなた達から、詳細を報告しておいた方が良いでしょう」
「はい」
「分かりました」
二人揃って真剣な顔で頷くと、女性は満足したように再度頷いてから背後を振り返る。
「駅員が来たようね。面倒だけどちゃんと状況説明をして、犯人を引き渡しなさいね? 申し訳ないけど、そろそろ行かないと次の商談先との約束の時間に遅れるから、これで失礼させて貰うわ」
「ご助力ありがとうございました」
「はい、ありがとうございました!」
女性がその場を離れようとした時、彼女が持っている封筒に印刷された社名を目にした美幸が、反射的にそれを口にする。
「あのっ! あなたは柏木産業の方なんですか?」
「私?」
その声に、女性は一瞬驚いた表情を見せた。次にチラリと手にしていた封筒に目をやり、納得したように微笑む。
「ええ、柏木産業営業部の柏木真澄よ。それじゃあね」
「はい、お仕事ご苦労様です!」
美幸は最敬礼し、ビル上層階のオフィスフロア直通のエレベーターに向かって歩いていく彼女の後ろ姿を見送った。そして我知らず呟く。
「素敵……、キリッとしてて気品があって。いかにもできる女って感じ……」
その呟きに、横から思いがけない合いの手が入った。
「本当よね。さすが五代目の《桜花の君》だわ。まさか伝説の方に、直にお目にかかれるなんて。思わず自分の目を疑ってしまってお礼を言うのが精一杯で、まともにご挨拶も出来なかったわ。明日登校したら、皆に自慢しないと!」
悔しさと歓喜が入り混じったその口調に、美幸が怪訝に思いながら上級生に顔を向ける。
「あの、先輩。《桜花の君》って、なんですか?」
すると彼女は如何にも得意げに、自分達が在籍している学校の創立以来のとある伝統を滔々と語り始める。
「ああ、あなたは一年生だから、まだ耳にした事がないのね? じゃあ教えてあげるけど、あの女性の写真は他の四人の方と一緒に、生徒会室に飾られているの。うちの高等部では、毎年文化祭の時に……」
転がっている盗撮男と、それを捕まえに来た駅員を半ば無視しつつ、上級生は自校の伝統について熱弁を振るった。それを聞きながら、美幸は先程感じた決意を新たにしていった。
(柏木産業の、柏木真澄さん。見つけた。私の目標……)
それは、基本的にお嬢様育ちでまともに恋愛もした事がなかった美幸が、変な方向に入れ込む人物に遭遇した出来事であった。そしてそれが、その後の彼女の人生を大きく変えるきっかけともなった。
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