意思の在り処

 突然大地がなくなった。瞬間落ちると思ったが、大地がないから落ちようがなかった。僕らは落ちて運命に身を任せることも出来ず、宙をさまようことになった。


 見えるものはおびただしい数の人間だけだった。地球上にはこんなにも人がいたのかと思うとぞっとした。しばらくは喧騒が続いた。誰も彼もがパニック状態に陥った。自暴自棄になって走り出そうとした者がいたが失敗に終わった。

 遠くて全く見えないが、足元の方向へと進めば地球の裏側に行けるんじゃないかと思って、体を回転させるところまで出来たのだが、そこから進むということは叶わなかった。

 僕たちは、全くどこへも進めなくなっていた。退くことも出来ず、ただこの場に留まることしか出来なくなっていた。


 その内、諦めるようになった。騒がず動かずを実施しはじめた。何をしても変わらないのであれば、何もしなければ良いという結論に到ったのだ。しかし、何もしないでいるというのは、想像以上に苦痛だった。

 気が狂いそうだったが、気が狂ったところで出来ることは、この場にいることであるのは変わらない。


 進むことは出来なかったが、体を向きを変えることは出来たということを思い出して、暇潰しにあれこれ位置を変えるようにしてみた。周りの者を次第に真似をし始めた。とにかく暇だったのだ。だから出来ることは何でもしたくなっていた。あれほど暇が欲しいと思っていたのに。今ではすることのあった、かつての日々が懐かしく思える。

 そうこうしている内に、元々どこに大地があったのかも判らないくらい、皆が頭の位置を変えてしまっていた。最早ありもしない大地に遠慮する必要なんぞなかったが、判らないとなると不安になってきた。果たして、大地が戻ってくる日が来るのだろうか。来たとき、僕たちはどうなるのだろう。

 大地に足をつけるという感覚を思い出そうとしたが、足に何かがつくという感覚が全く判らなくなっていた。


 ある日、悲鳴が聞えた。遠くの方でだった。何が起きたのかは全く判らない。動揺だけが広まる。それからしばらくして、『落ちた』という言葉が伝わってきた。何を言っているのかは判らない。ただ伝わってきた。落ちた。どこへ?

 またしばらくして動揺が広まった。また誰かが落ちたらしい。どういうことなんだ、どこへ落ちたら良いんだ。一度は諦めかけた、『運命に身を任せる』という選択肢が復活した。皆の表情に僅かに明るさが戻った。おかしな話だ、大地がなくなる前はあれほど恐ろしかった行為に身を預けたいと思うなんて。


 僕の疑問はすぐに解明された。周りに人がいながら、一人であるという感覚がついてまわっていた。それに耐え切れなくなった者が近くの者の腕に触れようと手を伸ばした。手を伸ばされた者も、人肌が恋しくなっていたのだろう、それに応えて手を伸ばし、互いの手が触れ合った、そして、落ちた。


 触れたら落ちるのか。落ちた、落ちた、また動揺が広まっていく。現場を見ていた者はじっと動かなくなった。下手に動き回って人に触れたら落ちてしまう。実際に目にすると、それはとても恐ろしい光景だった。顔から僅かの明るささえも消え、じぃっと周りを睨みつける時が続いた。相変わらずどこへも行けず、ただ留まるだけの日々だった。出来ることといえば、足と頭の位置を変えてみることぐらいだった。


 苦痛が続くと人は考え方を変える。少なくとも、落ちれば落ちるという行為が出来る。ここに留まる呪縛が逃れられる。そう思う者が増えたのだろう。あちらこちらで腕を伸ばす行為が見られるようになった。ただ、手の届く範囲の者の協力が得られず、伸ばした手を彷徨わせたまま、その場に留まっている者の数の方が、落ちる者よりも多かったが。

 そこかしこで悲鳴が聞えるようになった。覚悟して落ちるのだが、落ちる速度が想像以上なのか、落ちる者は必ず悲鳴を上げた。落ちる者たちの悲鳴に恐怖心を煽られて、留まることを選ぶ者が一時は増えたように思えたが、その内そうでもなくなってきた。

 落ちる恐怖心よりも、このままここに居続けることへの不安感が勝るらしい。あちこちで悲鳴が続き、気付けば残っている者の数は減り、手の届く範囲に人がいなくなっていた。落ちることすら叶わなくなった。

 じっと時を過ごす。見える範囲に人がまだいることが唯一の救いだった。相変わらず一人であるという感覚は抜けなかったが、それでも全く誰も見えないよりはマシであると感じられるようになっていた。


 ある者が突然、近場の者に向かって己の履いていた靴を投げ渡した。直接触れられないならばと考えたらしかった。しかし結果は無惨だった。靴を受け取った者にも投げ渡した者にも期待する変化は訪れなかった。諦めろと、靴を受け取った者が投げ渡した者へと靴を投げ返した。失意に沈んだ顔で本来の持ち主が靴を受け取った瞬間、二人は落ちた。

 目論見は成功した。原理は判らない。だが諦めていた者たちが息を吹き返したように靴を投げ始めた。人は進めぬのに物は投げられるということに興味が沸いた。じっと靴を投げ合う者たちを見ていて発見したことがあった。皆が皆、上手く靴を受け取れるわけではない。受け損ねた靴はどうなるのか、落ちるのだろうか。じっと見ていた。

 靴は落ちない。勢いをなくしてその場に留まる。面白い光景だった。留まった靴に必死に手を伸ばして受け取り、投げ返す。相手が受け取ると落ちる。そんな光景を幾つも見ていた。


 ある者が僕に向かって靴を投げ渡してきた。僕は受け取らなかった。相手は必死だった。足を見れば両足の靴がなくなっていた。もう片方は別の者に投げ渡していた。そちらは受け取りはしていたが、投げ返そうとはしていなかった。

 僕はずっと周りが落ちていくのを見ていた。さて、自分は落ちるか、留まるか。ずっと考え続けていた。今、この靴を受け取り、相手に投げ返せば良いだけの状況になった。どうする。落ちたらどうなるのかは全く判らない。一つ判っていることは、この場には帰って来ないということだけだった。落ちていった者たちはそもそも生きているのだろうか。どこへ落ちていっているのだろうか。

 必死に叫んでいる。靴の持ち主はどうしても落ちたいらしい。だが、僕ももう一人もじっと固まっていた。落ちることは現状からの逃げだと、僕は考えるようになっていた。


 落ちるときとは違う動揺が一方向から伝わるようになっていた。何があったのかは判らない。皆して一方向を凝視していたが、何の情報も入ってこない。次第に靴の持ち主が焦るようになっていた。

 そして、口がやって来た。何かは判らない。とにかく口だ。遥かに見える人が口に飲まれていくのを見た。靴の持ち主がますます焦るようになった。必死の叫びを聞きながら、僕ともう一人はじっとしていた。

 口が近くまでやって来た。真っ暗闇の口の中に人が飲み込まれていく。ここで初めて僕は怖いと思った。少なくともここに留まっていれば何も起こらないと考えていた。どこへ行くことも出来ない苦痛に耐えることこそが答えだと思っていた。落ちるのは、苦痛に耐え切れなくなった者たちの逃避策だと考えていた。

 だが、口が近付く、暗闇が近付く。もう少しで僕はあれに飲み込まれる。刹那の出来事だった。僕は宙に浮いていた靴を受け取った。持ち主を見た。持ち主は正に投げ返された靴を受け取ろうとしていたところだった。靴を持っていたもう一人が投げ返したものだった。二人は落ちた。僕は残った。そして飲まれた。


 重い頭を持ち上げる。僕は眠っていた。浅い眠りの中、夢を見ていたらしかった。ひどく体が重い。つけっぱなしのテレビには、パニック系のSF映画が流れていた。意識朦朧とした夢にこの映画の情報が中途半端に入ってきたせいであんな夢を見たのか。夢の中身を詳しく覚えていたわけでもなかったが、僕は納得した。頭が重い。半端な眠りは却って疲れるものだ。

 うとうとと眠りかかる。また眠りが浅いと同じ夢を見るかもしれない。そういうことはよくあった。だが、そうだな、今度は落ちてみよう。そうした結果がどうなるのか、試してみるのも良い。


 僕は眠っていた。目の前に暗闇が迫る。どうして落ちていなかったのか、後悔が襲う。飲み込まれた瞬間、考えを変えた。落ちていたらどうなったのかは判らない。それと同じだ、飲み込まれてみなければ結果は判らない。もしかしたら、落ちるよりも良いのかもしれない。僕は望みをかけて眠った。

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仕事と親と自分と夢と(掌編4本) 田間世一 @tamaseichi

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